坂田栄男
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坂田栄男(さかた えいお、大正9年(1920年)2月15日 - )は、昭和・平成の囲碁棋士。東京都出身、増淵辰子七段門下、日本棋院所属。本因坊戦で7連覇して栄寿と号し、23世本因坊の資格を持つ。他に、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64個など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の1人。切れ味の鋭いシノギを特徴として「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また布石での三々を多用した。
日本棋院理事長を1978年から1986年まで勤めた後、日本棋院顧問。2000年に現役を引退。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
東京都に生まれ、1929年に増淵辰子に入門し日本棋院院生となる。1935年入段、1940年五段。 1947年に日本棋院に不満を訴え、前田陳爾七段、梶原武雄五段らと8棋士で囲碁新社を結成して日本棋院を脱退。1948年には坂田は呉清源との三番碁を打つが(坂田先相先)、3連敗する。次いで梶原も先番逆コミで呉に敗れて意気消沈し、1949年に全棋士が日本棋院に復帰した。 橋本宇太郎が本因坊位を持って関西棋院の独立をした翌1951年、第6期本因坊戦で挑戦者となり、日本棋院の期待を一身に背負うが、3勝1敗後の3連敗で橋本に敗れる。 1952年の四強リーグ戦に優勝したことで、1953年に呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする。これは呉が唯一負け越した番碁となる。 さらに同年、呉と十番碁(坂田先相先)を打つが、8局目で2勝6敗となり定先に打ち込まれる(8局で打ち切り)。
[編集] 名人本因坊となる
1955年に大手合で九段昇段。同年第1期最高位戦で、リーグ戦で杉内雅男七段と同率1位となり、前年度リーグ1位の坂田が最高位となる。また日本棋院選手権で1955年から7連覇、1958年日本最強決定戦優勝などで、実力者としての評価を固める。1961年に再度の本因坊位挑戦で、高川格に4勝1敗で勝ち本因坊となり、本因坊栄寿と号す。以後7連覇し、名誉本因坊の資格を得る。
1963年には第2期名人戦で藤沢秀行に勝って、名人本因坊となり、棋界の第一人者となる。1964年には名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯の7タイトル制覇の記録を作る。
タイトル歴
- 日本棋院最高段者トーナメント 1951
- 四強リーグ戦 1952
- 最高位 1955, 1959, 1961
- 日本棋院選手権 1955-61, 1964-65, 73-75 (名誉日本棋院選手権者)
- 早碁名人戦 1956
- NHK杯 1957-59, 1961-62, 1964-65, 1972, 1976-77, 1982 (名誉NHK杯選手権者)
- 囲碁選手権 1958
- 日本最強決定戦 1959, 1961(呉清源と同率1位)
- 本因坊 1961-67 (名誉本因坊, 23世本因坊)
- 王座 1961, 1963-64, 1966, 1970-72
- 日本棋院第一位決定戦 1961, 1963-65
- 三強リーグ戦 1962 (呉清源と同率1位)
- 名人(旧) 1963-64
- プロ十傑戦 1964, 1967, 1969
- 十段 1966-68, 1972-73
- 日本シリーズ 1976
- JAA杯 1979-80
- 早碁選手権 1981
- NEC杯 1983
その他の記録
- 総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多、現在は歴代2位)
- 年間30勝2敗 (1964年)
- 一般棋戦29連勝 (1963〜64年)
- タイトル戦17連勝 (第18本因坊戦第5局〜22期本因坊戦第3局)
[編集] 受賞等
1970年紫綬褒章、1971年NHK放送文化賞、1988年大倉賞、1990年勲二等瑞宝章・東京都文化賞、1992年文化功労者
門下に、新垣武九段、佐々木正八段、中山薫二段ら。
[編集] 著作
- 『坂田一代—勝負師の系譜 』日本棋院 1984年
- 『坂田栄男全集 (全12巻)』 日本棋院 1984年
- 『炎の坂田血風録—不滅のタイトル獲得史』 平凡社 1986年
- 『坂田栄男 (現代囲碁名勝負シリーズ9巻)』講談社 1987年
- 『炎の勝負師 坂田栄男 (全3巻)』 日本棋院 1991年
- 『道知 (日本囲碁大系5)』 筑摩書房 1991年
- 坂田の囲碁シリーズ『碁の殺し屋 テクニックと防ぎ方』『碁の手筋と俗筋 筋と形をおぼえよう』『碁の布石戦略 布石でリードする方法』『碁の詰めとヨセ 碁の最終ラウンド』池田書店
[編集] その他
- 1964年3月に「坂田本因坊名人の会」が有楽町読売ホールで開催、川端康成の賛辞が贈られ、高川格、藤沢秀行、林海峰、大竹英雄らの連碁に呉清源、藤沢朋斎の解説などが行われた。
- 作家の近藤啓太郎とは親友だったが、近藤は坂田をモデルにした小説「馬鹿な神様」を書き物議を醸した。(1976年には『勝負師一代 碁界を戦慄させた坂田栄男の天才』を出す)
- 高川格は坂田を苦手として多くのタイトルを奪われ、タイトル戦での対戦成績は坂田の14勝1敗になっている。また趙治勲は六段時に、日本棋院選手権で坂田への挑戦で2連勝後に3連敗して以降、坂田に12連敗し、大いに苦手とした。
- 坂田が名人本因坊となったのは43歳の時であり、1965年の名人戦で23歳の林海峰八段の挑戦を受けた際に「20代の名人などあり得ない」と語ったが、2勝4敗で名人を奪われる。続いて林海峰に本因坊他のタイトルも次々と奪われ、投了目前の局面で「名人も取られた。何もかも取られてしまった」とうめいたとされる。
- ニックネームとして「カミソリ坂田」の他、「シノギの坂田」「なまくら坂田」「攻めの坂田」などある。また全盛期には他の棋士との力の差の印象を「坂田は遠くなりにけり」とまで言われた。その傑出した実績から「大坂田」と呼ばれることも多い。
[編集] 参考文献
- 近藤啓太郎『勝負師一代 碁界を戦慄させた坂田栄男の天才』ぶっくまん 1976年
- 藤三男『坂田 栄男 (日本囲碁大系第5巻)』筑摩書房 1977年