前田陳爾
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前田陳爾(まえだ のぶあき、明治40年(1907年)11月22日- 昭和50年(1975年)7月3日)は、囲碁の棋士。兵庫県出身、日本棋院所属、九段、本因坊秀哉門下。詰碁創作の大家として知られ、「詰碁の神様」と称される。1927年囲碁新社結成。棋風は接近戦を得意とする力戦型で「攻めの前田」とも言われる。第1期王座戦準優勝、第1期最高位戦リーグ3位など。随筆に定評があり、毒舌でも知られた。
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[編集] 経歴
兵庫県揖保郡新宮町(現たつの市)に生まれる。13歳頃に囲碁を始め、1920年に神戸に在住していた鳥居鍋次郎に師事、続いて久保松勝喜代に入門。1922年に上京して本因坊秀哉の内弟子となる。1924年に日本棋院設立とともに初段。大手合が東西対抗形式となった1927年の前期甲組で、6勝2敗で優勝して四段に進む。この頃、木谷実の「怪童丸」と並んで、「鬼童丸(奇童丸)」「彗星児」と呼ばれる。
院社対抗戦では野沢竹朝に先番で敗退。1933年の日本囲碁選手権手合では2回戦で橋本宇太郎に敗れる。この優勝者呉清源と本因坊秀哉の対局において、12回目の打ちかけの後の1934年1月22日に秀哉の打った160手目の妙手について、打ち掛けの間に前田が発見した手であるという噂が流れた。これは本因坊一門での研究の際に発見したのは事実と思われるが、それを秀哉に進言することはなく、秀哉自身も打ち掛け前に気付いていたとされている。しかし戦後1948年の呉清源と本因坊薫和の十番碁の際、読売新聞紙上での瀬越憲作と加藤信の対談において、瀬越の「(あの160の手は)前田という男が考えた」という酒席での発言が掲載されてしまい、当時日本棋院理事長だった瀬越は理事長を辞任するという事件に至った。
秀哉の引退碁の対戦相手を決める1937年の決定戦では、六段トーナメントを勝ち抜き七段陣とのリーグ戦に出場する。続いて1939年からの第1期本因坊戦では、六段級予選を勝ち抜き、最終トーナメントに出場したが4位となる。
1942年結婚。戦災で1945年から岩手県一関市、1949年から宮城県仙台市で疎開生活を送り、1952年に帰京するまで手合の度に上京していた。1947年に坂田栄男ら8棋士で日本棋院を脱退して囲碁新社を結成、1949年に日本棋院復帰。1950年に呉清源対高段者総当り十番碁に出場し、先相先の白番で敗れたが、ナダレ定石の新手で中盤まで優勢に立って話題となった。
1953年の第1期王座戦ではトーナメント決勝まで進み、橋本宇太郎に敗れ準優勝。1955年、第1期最高位戦リーグに参加し、4勝3敗1ジゴで3位となる。1956年に呉清原と三番碁で、先相先で1勝2敗。1956年八段、1963年九段。
1975年、心不全により死去。門下に工藤紀夫、大枝雄介など。新聞の観戦記や『棋道』『圍碁』誌記事掲載多数。1日1題は作っていたという詰碁作品とともに、詰碁論は詰碁作家に影響を与えた。趣味は俳句で、俳号は炯子。得意の歌は「熱海ブルース」。終生和服で過した。1965年王座戦3次予選の対春山勇五段戦での、33手まで中押勝は最短手数記録として残っている。
その他の棋歴
- 日本棋院最高段者トーナメント戦 準優勝 1958年
- 大手合優勝3回
- 名人戦(旧)リーグ1期、本因坊戦リーグ3期
[編集] 著作
- 『圍棋真諦 本因坊家秘伝』誠文堂 1934年(村島誼紀、高橋重行と共著)
- 『活かすも殺すもこの一手』
- 『前田詰碁集』あおぎり社 1952年
- 『新選前田詰碁集』誠文堂新光社 1958年
- 『碁のことば碁のこころ』至誠堂 1966年(随筆集)
- 『前田初級詰碁』東京創元社 1973年
- 『前田中級詰碁』東京創元社 1973年
- 『前田上級詰碁』東京創元社 1973年
- 『置碁検討録 (上)(下)』誠文堂新光社 1978年
- 『詰碁の神様 前田陳爾傑作集 (1)(2)』平凡社 1980年
- 『前田陳爾・宮下秀洋 (現代囲碁大系10)』講談社 1982年
[編集] 参考文献
- 本因坊秀哉『本因坊棋談』
- 高橋重行『棋道』1957年4月号「秀哉秘話」
- 村松梢風『本因坊物語』
- 野上彰『囲碁太平記』1963年
- 安永一『囲碁百年』
- 林裕『囲碁風雲録』
- 呉清源『中の精神』東京新聞出版局 2002年
- 中山典之『昭和囲碁風雲録<上>』岩波書店 2003年