藤沢朋斎
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藤沢朋斎(ふじさわ ほうさい、大正8年(1919年)3月9日 - 平成5年(1993年)8月2日)は、昭和・平成の囲碁棋士。本名は藤沢庫之助(ふじさわ くらのすけ)、神奈川県出身。日本棋院の大手合による昇段制度初の九段。呉清源と3度の十番碁を戦う。藤沢秀行名誉棋聖は叔父、小島高穂九段は甥にあたる。
棋風は深い読みに裏付けられた力戦派で、「ダンプカー級の突進力」などと形容された。また白番のマネ碁を多く試みたが、シチョウを利用したマネ碁対策が現われてからは成績は芳しくなかった。
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[編集] 経歴
神奈川県横浜市に生まれ、祖父重五郎(藤沢秀行の父)などの影響で碁を始める。1930年に日本棋院院生となり、1933年入段。本因坊秀哉に可愛がられたとされる。1938年四段時に、東京日日新聞主催の対六段戦で5戦全勝。1942年六段で、前年からの雁金準一と呉清源の十番碁に続いて、雁金の率いる瓊韻社の渡辺昇吉六段と十番碁を打ち、3連勝して打ち切りとなった。この頃は堅実な碁風で、黒番不敗とも言われた。
1943年には呉清源八段と十番碁(第一次)を行い、藤沢定先で7局目まで3勝4敗であったが、3連勝して6勝4敗とした。1943年から始まった第3期本因坊戦戦予選では七段で出場し、八段級予選で4戦全勝して上位3人による挑戦者決定リーグに入るが、岩本薫七段に敗れる。次いで橋本宇太郎との十番碁が行われるが、3局までで中止。1946年に木谷実、岩本薫、橋本宇太郎、藤沢による四強豪戦に出場するが、途中で中止となる。戦後、1946年七段時に「新夕刊」紙で木谷実八段との三番碁を打ち、1勝2敗で敗れた。
1949年に、大手合で九段に昇段。この時、関西棋院の橋本宇太郎八段から争碁が申し込まれたが、実現しなかった。またこの時期、呉清源は十番碁で橋本宇太郎、岩本薫を先相先に打ち込み、高段者総当たり十番碁の成績により1950年に九段に推挙され、史上初めて同時に二人の九段が存在することとなった。1951年10月1日から毎日新聞主催で呉清源との4番碁が行われ、4連敗する。同10月20日から、読売新聞主催で呉清源との第2次十番碁が開始され、2勝7敗1持碁で先相先に打ち込まれる。続いて1953年に呉清源と第3次十番碁を打ち、先相先で開始して6局目までで1勝5敗となり、定先に打込まれた。この敗戦の責任を取って藤沢は日本棋院を脱退し、以後朋斎を名乗るようになる。
その後、橋本宇太郎との十番碁にも敗れる。1957年には本因坊戦で高川秀格に挑戦したが、2勝4敗で敗れる。1959年に日本棋院に復帰。この後も各棋戦で活躍。1992年に現役引退。
[編集] タイトル歴
他に、旧名人戦リーグ14期、本因坊戦リーグ13期、NHK杯準優勝5回、など。
[編集] 棋院理事
日本棋院において、1948-50年に棋士理事、1969-72年に政務理事、1975-78年には実務理事として編集と海外を担当して海外への棋士派遣を活発に行った。
[編集] 受賞等
[編集] 著作
[編集] マネ碁
藤沢朋斎のオリジナルではないが、常用した戦法に白番マネ碁がある。相手の打った手に対して点対称の位置にマネをして打ち続け、相手が悪手を打った瞬間にマネをやめるというものである。1948年頃の大手合での木谷実戦で最初に試み、「創造性に欠ける」などと批判を浴びつつも信念でこの手法を使い続けた。
黒の対策はタイミングを見計らって天元に打つものと、中央に向けたシチョウを利用するものが考えられる。現在ではシチョウによるものが決定版とされており、こうした対策が進んだため藤沢のマネ碁の勝率は結局5割に満たなかった。