中川亀三郎
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中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、天保8年(1837年) - 明治36年1903年))は、囲碁の棋士。江戸(東京)生まれ、本因坊丈和の三男で、幼名は葛野長三郎、本因坊秀和門下。明治になって幕府による家元制が崩壊した後、村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)らと最初の囲碁結社である方円社を設立し、秀甫没後は2代目方円社社長となる。八段準名人。
2代目中川亀三郎(石井千治の項で記述)と区別して初代中川亀三郎とも言う。
[編集] 経歴
江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。11歳で本因坊秀和に入門。安政4年の本因坊秀策の因島帰郷に同道。26歳で五段、29歳で六段。維新後の明治2年(1969年)、本因坊跡目秀悦、林秀栄(後の本因坊秀栄)、安井算英、小林鉄次郎、吉田半十郎らを自宅に招いて例会(六人会)を始める。明治6年(1873年)、小林鉄次郎と十番碁。明治9年(1876年)、林秀栄と十番碁。明治11年(1978年)、郵便報知新聞に初めて囲碁の棋譜として中川-古橋杵三郎戦が掲載される。
明治12年(1979年)4月、 秀甫、小林鉄次郎、高橋周徳らと研究会方円社を作り、副社長となる。秀和の死後は黙許七段とされていたが、明治14年(1981年)に方円社として正式に、秀甫の八段昇段とともに七段昇段。しかしこの後の対局で、秀甫に敗れて先二に打込まれる。ただし秀甫は2子局は打たなかったという。この年から置かれた方円社の常置指南役の一人を務める。明治16年(1983年)に方円社が段位制から級位制に移行した際には、秀甫の2級に次ぐ3級とされる。
明治19年(1986年)に本因坊秀栄が本因坊を秀甫に譲るが、同年秀甫が没し、秀栄との間で本因坊継承のための争碁を申し込まれたが、これを辞して2代目方円社社長となる。明治22年(1889年)、今井金江茂と十番碁。明治32年(1899年)に社長を引退し、巌埼健造が3代目社長となる。同年八段準名人に推される。この後に打った田村保寿(後の本因坊秀哉との碁が絶局となった(田村先黒2目勝)。
明治36年(1903年)死去。門下に雁金準一。内弟子でもあった雁金を娘婿に迎える意志があったというが、成らなかった。
[編集] 著作
- 『囲碁大鑑 (上)(下)』日昌館 1893年(小林鉄次郎、 巌埼健造と共著)
- 『囲碁段級人名録 』方円社 1894年