本因坊秀甫
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本因坊 秀甫(ほんいんぼう しゅうほ、天保9年(1838年) - 明治19年(1886年)10月14日)は江戸時代から明治にかけての囲碁棋士。本名は村瀬秀甫(むらせしゅうほ)。生国は江戸。囲碁八段、準名人、十八世本因坊。
奔放な棋風で知られる。江戸幕府の庇護がなくなった囲碁を日本全国に広め、さらに西欧にまで広める端緒をつくった。著書に『方円新法』など。
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[編集] 生涯
- 1838年(天保9年)、江戸の上野、車坂下に、貧しい大工の家に生まれる。幼名弥吉。本因坊家
- 1846年(弘化3年)、8歳で本因坊家へ入門。実家が貧しいため、たびたび謝礼を払えないことがあった。
- 1854年(嘉永7年)、9月、村瀬弥吉、岸本左一郎に代わり坊門の塾頭を勤める。
- 1860年(万延元年)、12月、村瀬秀甫と改名。
- 1861年(文久元年)、六段に進む。その後、文久3年頃七段へ進み、御城碁への参加資格を得るも、皮肉にもその年、幕末の動乱のため、御城碁が廃止となったしまった。1862年の兄弟子であった本因坊跡目秀策の死により、事実上は秀和に次ぐ実力者となっていた。
- 1871年(明治4年)、3月24日から6月6日まで、本因坊秀和と七局対局し、秀甫の四勝三敗となる。10月、秀和に従い名古屋に赴く。
- 1872年(明治5年)、林秀栄と伴に美濃、尾張、伊勢を経て大阪を遊歴する。
- 1873年(明治6年)、秀和の没後の本因坊相続問題で、実力第一位でありながら後継者となれず、坊門を離れて越後方面を遊歴する。中川亀三郎(本因坊丈和の第3子)に本因坊位を継がせたいとする丈和未亡人の反対があったためといわれるが、結局秀和の長男秀悦が15世本因坊の座を継ぐこととなった。
- 1879年(明治12年)、中川亀三郎とともに研究会として方円社を主宰し、家元四家と対立。方円社を新興棋院に発展させ、機関誌『囲碁新報』を編集配布した。これが月刊囲碁誌の嚆矢である。
- 1881年(明治14年)、八段へ進む。
- 1882年(明治15年)、村瀬秀甫著、『方円新法』が方円社より発行される。
- 1884年(明治17年)、12月21日、本因坊秀栄と十番碁を開始。
- 1886年(明治19年)、7月30日、本因坊秀栄は、方円社と和解して、村瀬秀甫の八段を正式に認め、同時に本因坊を秀甫に譲って、自らは土屋秀栄を名乗る。村瀬秀甫は、十八世本因坊となり、即日に五段だった秀栄に七段を贈る。8月6日、秀栄との十番碁は、秀栄の先で打ち分けとなる。10月14日、本因坊秀甫(享年49、八段)没。
[編集] 評価
秀甫は道策・秀和・秀策・秀栄といった史上の大名人たちに比べると知名度は低く、時の第一人者でありながらその生涯は決して恵まれたものではなかった。しかしよき師とライバルに恵まれ、彼らとの対戦成績も劣ってはいない。師の秀和は「秀策が明治まで長生きしていたとしても、おそらく秀甫に分があっただろう」と極めて高く評価している。現代碁界でも石田章など、秀甫をこれら大名人の列に連なる実力者と見る者は少なくない。