陸機
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陸機(りくき、261年 - 303年)は、呉・西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉郡呉県の出身。祖父は陸遜、父は陸抗という名門の出身であり、弟の陸雲も有名である。中国六朝文化を代表する文学者の一人で、特に「文の賦」は、中国文学理論の代表的著作として名高い。同時代に活躍した潘岳とともに、西晋時代を代表する文学者として、「潘陸」と並び称せられている。また書家としても名声を持ち、彼の「平復帖」は現存する最古の有名書家による真跡とされる。
[編集] その生涯
始めは父とともに呉に仕えて牙門将となる。280年、晋との戦いで兄陸景を失って、間もなく祖国も滅亡し、故郷に引退する。そこで祖国・呉の滅亡を憤慨して『弁亡論』を著した。
やがて、説得に応じて弟陸雲とともに晋に仕官する事になる。既に陸機の文名は西晋の都洛陽にも伝わっており、高官である張華は「呉を討伐した際の戦果は、この二人の俊才を得たことだ」と言ったといわれている。
その後、太子洗馬・著作郎を務めて、恵帝の治世下でも順調に出世を続けた。だが、次第に八王の乱の混乱に巻き込まれていく事になる。
趙王司馬倫の側近であった陸機は倫が一時皇位を簒奪すると、中書令に任じられた。倫が敗死すると彼もまた連座したが、他の連座者が厳罰となった中で彼だけは程なく罪を許されて斉王司馬冏・成都王司馬穎に仕えた。司馬穎は彼の能力を評価して平原相・後将軍・河北大都督に任命された。やがて長沙王司馬乂討伐に参加するが、彼自身が祖父や父ほどには将才には優れていなかった事に加えて、配下達も「呉の降将」として彼を蔑んだ事もあって十分な指揮が取れずに大敗してしまう。
その時、彼の名声に嫉妬した司馬穎側近の盧志らの配下や、宦官・孟玖が司馬穎に讒言を行う。孟玖の兄・孟超は陸機の命令に背いて出撃し、戦死したが、孟玖は逆恨みしたのである。盧志もかねてから陸機を見下していた(『世説新語』によると、盧志は失礼を承知でわざと陸遜、陸抗を諱で呼び、陸機に間柄を尋ねた。そこで陸機は、「卿の盧毓、盧珽のようなものだ」と言い返してやったという)ため、孟玖を支持した。これを信じた司馬穎によって陸機は謀反の疑いで処刑されてしまった。この時、弟の陸雲・陸耽ら陸遜の末裔達は根絶やしにされてしまった。
天下の人々の中には、陸機は無実だとしてその文才を惜しむ声が上がる一方、陸遜・陸機によって魏・晋の軍が破られて大勢の兵士が殺された事、特に呉に背いて晋に降った歩闡の一族が一人を除いて皆殺しにされたことから、その報いが子孫である陸機兄弟に訪れたのだという肯定的な意見もあったと伝えられている。
[編集] その文学作品
『陸士衡集』10巻
[編集] 外部リンク
- 世説新語 卷中之上(中文)
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