陸抗
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陸抗(りくこう、226年 - 274年)は、中国三国時代の呉の武将。陸遜の次男。母は孫策の娘。字は幼節。陸晏・陸景・陸玄・陸機・陸雲・陸耽の父。
長兄が早くに早世したため、245年に陸遜が死去した後、その後を継いで建武校尉となった。当時の孫権は陸遜に対する疑念を解いておらず、拝謁に来た陸抗に対して詰問したが、陸抗は臆することなく申し開きしたため、信用を取り戻すことが出来た。後に陸抗が療養のため建業に帰還し、治癒して任地に戻る際、孫権は泣いて別れを惜しみ「先だって、朕は讒言を信じ、卿の父君の信義を裏切ってしまった。卿に対しても、非常に申し訳なく思っている。どうか、送りつけた書簡を全て焼き捨て、人の目に触れぬようにして欲しい」と語ったという。 その後、奮威将軍、征北将軍、鎮軍将軍といった高位を歴任する。
陸抗は陸遜同様、知略・武略に優れた名将であり、併せて政治的な上奏も数多く残している。専横する家臣を除くこと、無謀な軍事行動を諫めることなど、行政官としての観点からの上疏も多く記録され、陸抗の視野を知る上で興味深い。
鳳凰元年(272年)、西陵督の歩闡が城ごと謀反すると、西陵を落とす困難さや晋からの侵略を見越した上で、広大な包囲陣を敷かせた。突貫工事で人々が大いに苦労したため、この作戦を諫める声が相次ぎ、早急に攻撃を仕掛けて落とすべきだとの意見が大半を占めた。陸抗は、一度だけ攻撃を許可したが、果たしてなんの成果も上げられなかったので、将軍たちは陸抗に従った。実は、西陵城の防衛や装備は全て、かつて陸抗が指揮・整備させたのであり、それを攻める困難さを陸抗自身がよく承知していたのである。 やがて、晋の車騎将軍・羊祜が江陵へ侵攻してくると、部下たちは江陵の防衛に回ることを提言したが、陸抗は「江陵は防備が固く、食糧もしっかりと備わっている。よしんば落ちたとしても、敵はその城を維持できまい。だが、西陵は別だ。ここを奪われれば、南方の異民族にも影響を与える。そうなったときの憂慮を思えば、江陵を棄ててでも西陵にあたるべきだ」として、動かなかった。一方で、羊祜が船を使って江陵へ食糧を運ばせようとしたとき、陸抗はあらかじめ堤を切って輸送手段を断たせ、このため晋軍は輸送に大幅な損害を出した。 この後も晋軍の増援があり、対峙中には叛将も出たが、陸抗はよくこれに対処して防いだため、遂に晋軍は帰還していった。こうして、孤立した西陵城へ総攻撃を掛けさせ、ようやく反乱を鎮圧することが出来た。 この時、謀反を起こした首魁である歩闡とその一族、幹部級の武将や軍官は処刑されたが、その他の数万に上る将卒は赦免した。当時の反乱に対する処罰としては、かなり寛大な処置である。
反乱を鎮圧した陸抗は、西陵城を修復して自領へ戻った。大功であったにもかかわらず、それを一切誇ることが無かったため、将士は以前にも増して厚く陸抗を敬ったという。
273年、陸抗はあらためて大司馬に任じられ、荊州牧の職を授けられたが、翌年の夏、病篤く逝去した。亡くなる前に奉った上疏の表において、領土防衛と募兵制について詳細な案を述べており、いっこうに国情の休まらないことを憂える文で締めくくられている。最後まで安んじることなく国を憂えて亡くなった。
陳寿は「陸抗はよくその身を律し、先見の明を以て、父親の遺風を良く受け継いだ。父祖の家風を守り、行動では些か劣る点はあったが、立派に家業を成し遂げた」と評している。
『晋春秋』という書物によれば、晋の武将・羊祜とは敵ながら互いを認め合う仲で、酒や薬のやり取りをしていたという。『三国志演義』では、このやり取りによって孫皓の疑念を招き降格させられたが、史書ではそのような記載はない。
子の陸機と陸雲は晋に仕え、いずれも西晋時代を代表する文学者となった。
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