林元美
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林元美(はやしげんび、安永2年(1778年) - 文久元年(1861年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元林家十一世、八段準名人。本名は船橋源治、または寛度。著作では爛柯堂または藍叟とも号す。『碁経衆妙』『碁経精妙』、及び史話、随筆からなる『襴柯堂棋話』の著者として知られる。
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[編集] 経歴
水戸藩士の子として生まれる。9歳で近くの寺の僧より碁を学び、11歳で父の江戸勤番の時に本因坊烈元に碁を見てもらい認められ、帰郷した後に入門。12歳で入段し、水戸小僧と呼ばれた。享和2年(1806年)五段。京都の聖護院滞在中に、畠中哲斎の娘季野を娶る。文政2年(1819年)に十世林鐵元が死去し、本因坊跡目となっていた本因坊元丈の計らいにより林家を継ぎ、林元美となる。林家代々の門入の号は名乗らなかった。またこの年より御城碁に出仕。文政12年(1829年)七段上手に進む。
[編集] 天保の内訌での役回り
文政11年(1828年)に本因坊丈和が碁所願を出した際、元美は添願人となったが、この時元美を八段昇段させる密約があり、また水戸藩の徳川斉昭に、水戸徳川家から養子に入った当時の寺社奉行土屋相模守彦直への働きかけを依頼したとも言われている。天保2年(1831年)に丈和は名人碁所になったが、元美の昇段はさせず、元美は斉昭を欺いた形となった。
天保9年(1838年)に安井家の跡目安井俊哲を七段昇段を認めたことで、元美は井上幻庵因碩を添願人として、丈和との二十番の争碁願いを提出する。これにはかつての密約が書かれていたともされ、また先に安井知得仙知、因碩とのの争碁をうやむやにして避けていた丈和は追い詰められ、翌年碁所を返上し引退する。元美は、丈和が争碁を避けたことを理由に、寺社奉行に八段昇進の口上覚を提出、丈和から家督を継いだ本因坊丈策と安井算知は反駁書を出すが、寺社奉行からの沙汰は無かった。
[編集] 八段昇段
嘉永2年(1849年)に引退して、実子の柏栄に家督を譲る。嘉永5年(1952年)になって八段を許された。この年の御城碁に最後の出仕、既に八段の本因坊秀和に白番で7目負けとした。御城碁には生涯で12局出仕して2勝10敗。文久元年(1861年)85歳で没。学識家であり著作も多く、また眉目秀麗の好男子だったと言われている。
[編集] 著作
- 『碁経連珠』1808年 本因坊算砂から道知までの時代の打碁を収録
- 『碁経衆妙』1812年 詰碁、基本手筋集
- 『掌中碁箋』1831年 別名を「紅甲珍艦」、作り物(詰碁)集
- 『碁経精妙』1835年 定石、ヨセの手筋など
- 『爛柯堂棋話』1849年
- 『碁経衆妙後編』詰碁、手筋集、及び元美の打碁25局を収録。1913年に本因坊秀哉が出版。
また木版による御城碁の棋譜を同好に配っていたが、畠中哲斎がこれを借り受け、文化14年(1817年)に御城碁50局を収めた『当世碁譜』を出版し、木版による初の打碁集となった。これに対し安井知得ら家元四家は秘蔵棋譜の無断掲載を寺社奉行に訴え出たが、元美は各家元を説得して哲斎を釈免させた。この事件以後、棋譜の出版が緩和され、2年後に哲斎は『四家評定・名世碁鑑』を出版した。
[編集] 参考文献
- 福井正明、相場一宏「碁界黄金の十九世紀 (第17回)」(「棋道」2003年11月号)