安井知得仙知
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安井知得仙知(やすいちとくせんち、安永5年(1776年) - 天保9年(1838年))は、江戸時代の棋士で、家元安井家の8世安井仙知、八段準名人。7世安井仙知と区別して、7世を仙角仙知または大仙知と呼び、中野知得と名乗っていた8世は知得、知得仙知と呼ぶことが多い。名人の技量ありと言われながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈、井上幻庵因碩、本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。
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[編集] 経歴
伊豆国三島の漁師中野弥七の子とされ、幼名は磯五郎と思われる。幼時に7世安井仙知に入門し、中野知得と名乗った。寛政12年(1800年)に25歳五段で安井家跡目となり、同年御城碁初出仕した。文化元年(1804年)に七段上手。文化11年(1814年)に7世仙知の隠居により安井家8世を継ぎ、安井仙知を名乗る。後に八段準名人。
[編集] 元丈との拮抗
本因坊元丈は知得の1歳年長であり、知得13歳時の対局から文化12年(1815年)の御城碁まで、約80局という当時としては異例の数の棋譜が残されている。手合は当初は知得の先だったが、寛政9年(1792年)から互先になり、その後はまったく互角の戦績となっている。七段上手、八段準名人への昇段も同時であり、生涯のライバル関係にあった。
元丈は厚く打って攻めを得意とするのに対し、知得は堅実でシノギを得意とする碁で、いぶし銀とも呼ばれ、対照的な碁風だった。本因坊丈和は両者の対戦30番を調べ、著書『収枰精思』で「双方一の不可なる手なく、全く名人の所作というべきもの、17局に及ぶ」と述べた。『坐隠談叢』では「この両人の所作ともに秀絶にして、その十二、三頃より両々相対して、豹虎いずれのまさるかを判ずべからず。世人をもって当代の双璧となす。」と評された。
二人の対局では、文化9年(1812年)4月2日から9日にかけて打たれた知得先番の碁が、黒69手目に白から切られないところを継いだダメの妙手で有名。黒の大石への白からの種々の攻め味をこの1手で防いで、155手黒中押勝を収めている。
元丈、知得とも、名人碁所の地位は望まず、名人になることはなかったが、この時代の碁界の発展に大きく貢献した。
[編集] 戦績と功績
知得一生の上出来とされるのは、文政3年(1820年)、打ち盛りだった丈和の先番で黒2目勝とした、白の名局と言われる碁で、関山仙太夫は「当世の極妙碁なり」と評した。
文政9年(1826年)、知得は実子の俊哲を安井家跡目とする。またこの時期に安井家の弟子として、太田雄蔵、坂口仙得、鈴木知清、片山知的、石原是山、桜井知達、佐藤源次郎など多くを育成し、安井家は本因坊家に匹敵する興隆となった。俊哲(後の算知)、雄蔵、仙得は、伊藤松和と並んで天保四傑と呼ばれる。
文政11年(1828年)に本因坊丈和が名人碁所願を提出したとき、仙知は尚早と主張し、丈和との争碁の許可を寺社奉行から得るが、仙知の病気のためや、一説では丈和が避けたとも言われ、期日が決まらず、天保2年(1831年)に丈和は名人碁所に就位した。
御城碁の戦績は、天保6年(1835年)まで26局打って10勝12敗4ジゴ。うち先番は3勝1ジゴ、白番は5勝7敗3ジゴ、他は向2子以上。
天保9年(1838年)に没し、俊哲が9世安井算知となる。 現代でも島村俊廣、依田紀基ら、知得に私淑する棋士は多い。
[編集] 著作
弟子の佐藤源次郎の遺譜をまとめた『河洛余数』(1822年)があり、これは佐藤の妻子の援助のための出版と言われる。
[編集] 参考文献
- 本田順英、島村俊広『知得 日本囲碁大系 第9巻』筑摩書房 (1975年) ISBN 448069109X
- 依田紀基『泰然知得—古典名局選集』日本棋院 (2003年) ISBN 4818205265