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越後長岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長岡藩ながおかはん)は、越後国古志郡にあって現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部を治めた。現在の新潟県新潟市を支配した藩でもあった。越後長岡藩とも呼ばれる。

藩庁は長岡城長岡市)。藩主は牧野氏(一時、堀氏)。家格は、帝鑑間詰めの譜代大名で、石高は、はじめ62,000石。後に加増されて、74,000石。18世紀の内高はおよそ10万石。幕末には、14万石近くあった。

目次

[編集] 歴史

長岡藩の中心領域となった現在の長岡市域には、当初、蔵王堂藩が存在していたが断絶し、高田藩領となっていた。

1616年、高田藩主松平忠輝大坂の役における不始末から除封されると、外様大名堀直寄が八万石をもって蔵王堂に入封した。直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城、城下町を移して長岡藩を立藩した。

直寄は2年後の1618年には越後村上に移され、かわって譜代大名牧野忠成長峰藩より62,000石をもって入封する。牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を中央部において抑える役割を委ねられ、1620年には1万石を加増、さらに1625年に新墾田2,000石を表高に加えて74,000石となる。1620年の加増、栃尾郷1万石は、家老の支配の及ばない土地とされ、先法家と呼ばれた長岡藩士3家によって治められた。詳しくは、越後長岡藩の家臣団を参照されたい。

当初、群馬県前橋市東部となる上野国大胡藩2万石の藩主であった牧野氏は、大坂夏の陣の殊功で加増されて、長岡藩主となったといわれるが、譜代大名としての立身はそれほど早くはなく、江戸時代の前半には幕閣に名を連ねた藩主もほとんど出なかった。

室町時代の牧野氏は、三河国宝飯郡から渥美郡の一部に根を張った土豪であった。牧野氏の室町・戦国期の動きについては、牛窪記などに詳しい記述があるが、同じ地域の土豪であった牧野氏真木(槙)氏、岩瀬氏、野瀬氏は共同して、徳川家康の祖父である松平清康の時代(異に高祖父・松平長親の時代からとも)から、家康に降伏して許されるまで、数度となく合戦を繰り返し、徳川氏(松平氏)の三河平定に、駿河・遠江の戦国大名、今川氏の勢力として長く抵抗をしていた。 牧野氏は、安土・桃山時代の前期、徳川氏の国衆と呼ばれ、譜代の扱いを受けらない時期があった。江戸時代に作成された家譜などには、徳川氏(松平氏)との軋轢をいかに、緩やかに記述するかの苦心のあとがみられる。

しかし、江戸時代も後期に入ると牧野忠精1801年老中に任ぜられたのを皮切りに幕政にも重きをなすようになり、あわせて3人の老中を輩出する。しかし幕政参与のために借金がかさんで財政が悪化し、藩内で財政改革策を講じなければならなかった。またこの規模の藩としては、上級家臣の戸数が多く、その家禄も少なからず、いわば人件費にも苦しんだ。藩士に給付する蔵米については、いわば最低保障が付けられた微禄の藩士を除き、知行100石に対して20俵給付にまで落ち込み、長く20俵台から抜け出せずにいた(一般的には知行100石で40俵)。

天保の改革直前の1840年には庄内藩川越藩との三方領地替えが計画され、牧野氏は川越藩に移されそうになったが、庄内藩の反対により頓挫して転封は見送られた。しかし、1843年には新潟町の上知が命じられ、外港の新潟を幕府に返上せねばならなかった。

幕末には河井継之助家老に就任し、藩政改革を行って窮乏する藩財政を立て直しをはかるとともに、兵制を改革してフランス軍に範を取った近代的軍隊を設立した。
しかしまもなく戊辰戦争が起こると、戦争における武装中立を狙って恭順を求める新政府軍に抵抗したため、奥羽越列藩同盟に加わって北越戦争において新政府軍と交戦、激戦の末長岡城を一時は奪還したものの、火力・兵員共に圧倒的に上回る新政府軍に押され再陥落し、長岡藩74,000石(内高14万石)は多くの戦死者(309人説が有力)を出した。(大黒古戦場)

これは会津藩23万石(内高40万石強)、仙台藩62万石(内高100万石)、二本松藩10万石(内高14万石)に次ぐ戦死者で、僅かに二本松藩の338人を下回るが、藩の規模・戦闘員の員数を考えると、長岡藩の犠牲は大きなものであった。
*解説藩の実際の実力は、表高ではわからず内高が重要である。東北地方などの辺境の地の表高は、秀吉の16世紀太閤検地の数字をそのまま使用していたため、内高との差が大きい。徳川御連枝の会津藩の内高は、徳川御三家の水戸藩を大きく上回る。詳細は内高を参照のこと。

越後長岡藩が敗北した直接的な原因の一つとして、新発田藩・溝口氏の突然の裏切りがあげられる。北越戦争後、長岡士族の家では、新発田には、娘は嫁にやらないと云う因習が長く残るなど、長岡の新発田に対する怨念は、薩摩・長州以上のものとなったと言われている。

三島億二郎の像
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三島億二郎の像

降伏した長岡藩は再興を認められたものの、5万石を没収されて24,000石となり、財政的に窮乏を極めた。藩は北越戦争で壊滅的な被害を受けた上、食糧不足までおこったが、大参事小林虎三郎や三島億二郎が復興に尽力した。またこのとき、江戸藩邸にいた小林藹(コバヤシシゲルあるいはシゲリ)の公用人日記が、藩の立場をよく物語っている。

結局、全国的な廃藩置県に1年先立って1870年に長岡藩は廃藩、柏崎県に編入された。1873年には柏崎県と新潟県が統合され、新潟県の一部となる。藩主の牧野家は華族に列し、子爵を与えられた。維新前最後の藩主の弟にあたる牧野忠篤子爵は、1906年に長岡に市制が施行された際、長岡市の初代市長となっている。

[編集] 藩政

長岡藩領は堀直寄による立藩以来、古志郡の長岡城下町周辺から下流に向けてちょうど信濃川に沿って広がり、信濃川河口の港町新潟も藩領の一部であった。この地域は信濃川とその支流がおりなす低湿地が広がっており中世まで開発が遅れていたので、長岡藩は藩の創建当初から治水事業、新田開発に力を注いだ。1634年には藩主忠成が次男と四男にそれぞれ1万石と6千石を分与したが、いずれも分与は新墾田分から出され、藩の表高は変わらなかった。幕末の内高はおよそ14万石近くに迫った。

しかし、熱心な新田開発にもかかわらず、藩財政は決して余裕のあるものではなかった。このため18世紀に入ると支配下の長岡城下町や新潟町にたびたび御用金の拠出を命じ、1768年には御用金の命令に反発した新潟の町民が蜂起する事件(新潟明和騒動)を招いた。その新潟町が港湾都市として発展したのも最初の2人の藩主、堀直寄と牧野忠成は新潟の商人を保護して河川交通・海上交通を発展させたことがきっかけである。1853年には、幕末の政情不安の中で、栃尾郷諸村1万人栃尾町打ちこわし事件(栃尾騒動)がおきた。

[編集] 藩風

藩風は牛窪壁書と呼ばれた藩祖以来の「常在戦場」「鼻を欠いても義理は欠くな」「質朴剛健」「武士の魂、清水で洗うが如し」を武士の心がけとしてかかげ、三河武士の精神を鼓吹した。
また実践を重んずることを旨として、陽明学を藩学の主流であった。幕府は官学を朱子学と定め、さらに寛政異学の禁を出して幕府内で陽明学を禁止したにもかかわらず、譜代大名で幕閣要職にあった越後長岡藩は、これを禁止しなかったが、次第に朱子学に押された。幕末となると藩主・牧野忠精が、京都所司代となった縁で、京から伊藤仁斎の曾孫となる伊藤東岸を藩校・崇徳館に招聘したので、藩学の主流は、古義学に移った。
明治初めの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」もこのような藩風とともに生まれ、その後も長岡人の気風として受け継がれている。小林儀右衛門有之(海鴎)など学問で、上級藩士(大組)入りするものも出た。

[編集] 歴代藩主

[編集] 堀(ほり)家

外様 80,000石 (1616年~1618年)

  1. 直寄(なおより)

[編集] 牧野(まきの)家

譜代 74,000石 (1618年~1870年)

  1. 忠成(ただなり)
  2. 忠成(ただなり)先代の名を継ぐ
  3. 忠辰(ただとき)
  4. 忠寿(ただかず)
  5. 忠周(ただちか)
  6. 忠敬(ただたか)
  7. 忠利(ただとし)
  8. 忠寛(ただひろ)
  9. 忠精(ただきよ)
  10. 忠雅(ただまさ)
  11. 忠恭(ただゆき)
  12. 忠訓(ただくに)
  13. 忠毅(ただかつ)


[編集] 藩主牧野氏の出自と、室町・戦国期

藩主牧野氏の出自と、室町・戦国期までの動静・歴史は、三河牧野氏及び、室町・戦国期の藩主家と、真木氏(槙氏)・能勢氏に詳しい説明があるので、参照されたい。

[編集] 家臣団の概要

越後長岡侯・牧野家中の門閥は、強力・排他的であった。

家老首座連綿の稲垣氏(稲垣平助家・初め2,400石)と、次座の山本氏が上席家老であった。その下に家老職を連綿する家柄として、稲垣平助家の分家となる稲垣氏(稲垣太郎左衛門家)牧野氏(本姓山本氏)牧野氏(本姓松井氏)の3戸があった。

また初代越後長岡藩主牧野忠成の父である康成と、兄弟分の契りを結んでいたとされる真木氏(槙氏)(初め3,000石)、野瀬氏(能勢氏)疋田氏の3戸があり、家老の支配を受けない客人分連綿の家柄とされ特権的な扱いを受け、この御三家は特に先法家(先法)と呼ばれていた。
先法(先法家)の意義は、越後長岡藩の家臣団・『先法』に説明がある。

越後長岡藩では一代家老に抜擢されたのは、江戸時代を通じて、三間監物・雨宮修堅・倉沢又左衛門・河井継之助の4名であり、明治維新後に就任した大参事(=家老相当)小林虎三郎・三嶋憶次郎がある。
実質的には、僅かに三間監物と、幕末の河井継之助だけと言える状況であり、この2人も共に有終の美を飾れなかった。
他に一代家老となった者は、就任しても実権が伴わなかったり、まもなく失脚・お役ご免などに追い込まれた。
幕末の薩摩、長州のように、下級藩士からの重臣登用は、越後長岡藩においては見られなかった。

越後長岡藩士の家格による分類は、14階層とも、12階層とも云われるが、最も簡易な分け方は、寄会組(家老・先法・特別な功労者)、大組、小組、足軽組、中間組である。
越後長岡藩・上級藩士の定義については、諸説があるが、上級藩士を最広義に捉えた場合は、大組所属の藩士すべてが、上級藩士と定義ずけられる。
家老、先法家以外の上級藩士は、大組に所属して、家老の統率を受けた。大組は、部屋住み身分である場合などを除き、原則として、家禄100石以上で、馬上となる資格を持った。実際は100石を下回る大組の藩士は、相当数があったが、50石以下を世襲家禄とする大組藩士は存在しない。

大組の中で中老職・年寄役に列したことがある有力な家は着座家と呼ばれた。
越後長岡藩の中老職・年寄役は、定数不定ともまた2名(幕末は3名)とも説明されているが、番頭の中で功績があった者を就任させた。 家老連綿の格式の者を家老職とする場合と異なり、若輩者が家督を相続していきなり、筋目だけで中老職・年寄役に就任することはなかった。中老・年寄役は同じ役職であり、呼び方の違いである。

着座家には、九里氏稲垣氏(稲垣林四郎家)倉沢氏小嶋氏根岸氏今泉氏武氏保地氏柿本氏三間氏などがあった。また竹垣氏のように、着座家となったが、後にその家格を剥奪された例もある。
大組所属の藩士で、特別な功労者は、寄会組に列することができたが、極めて限られた者だけがその栄に浴せたが、先法家と呼ばれた真木氏(槙氏)野瀬氏(能勢氏)疋田氏の3家は、先祖の筋目によって、寄会組に列することを世襲した。

上州大胡在城期(1590年~1618年)の牧野氏は、2万石であったが、その当時、上州(群馬県)には、戦国期の関東支配者であった小田原城主後北条氏の滅亡で、地侍化した有力な牢人(浪人)が溢れていた。
藩主・牧野氏が、大胡から長岡に領地3倍増で栄転にあたって、家臣団を急増させる必要に迫られたため、これらを新規召し抱えしたので、牧野家中には、牛久保以来の家柄の家臣と、上州浪人の出自を持つ家臣、越後の旧領主上杉氏の元家臣・陪臣を含む地元出身者、及びその他とに大別されることになった。
廃藩のときの越後長岡藩士の戸数は、士分格式(小組以上)607戸、卒分格式1122戸があった。
個々の上級家臣、詳細については、越後長岡藩の家臣団を参照されたい。

[編集] 職制

越後長岡藩には以下の職制があった。なお、藩の宝暦の制により、各職制に相当する役高が定められていたが役高は役職手当と異なり、定めの役職に必要な石高を指す。よって、担当者の知行高が足りない時は一定の足し米を支給して要件を満たす(幕府の足高の制に準じたものと考えられる)。
しかし、財政難からこの足高は、遵守されず、実際は規定に近いものが支給されていたようである。
なお知行(世襲家禄)50石以下の大組藩士は、存在しなかったと別に説明しながら、例えば大組の場合は、30石役などとの説明が下記にあるが、これは部屋住み身分の者が、出仕した場合に意味があるので、矛盾ではない。勘定見習い、小姓、小納戸役、用人見習、代官を初めとする諸役に、部屋住み身分の登用があった。

[編集] 評定役

長岡藩では評定役は重要事項の裁決機関であり、その役所を評定所(のちの会所)と呼んだ。但し、最終意志決定は藩主がおこなう。

家老
家老は平時においては、月番交代で日常決済を行った。主に古法・前例に照らして逸脱がないかを判断した。このため自ずと守旧化した。また、通常の布達は担当家老職名で行い、重要案件では中老・奉行の各職とともに評定役を構成した。
また、世襲家老5家のうち稲垣平助・山本帯刀両家は、将軍家旗本の格式を兼帯して、関所では下馬を要せず、新藩主交代の挨拶に際しては、藩主を供奉して、江戸城に登城して将軍家へのお目見えの儀に付き添った。
役高1,000石(知行700石の家老は不足分を100石につき50俵の御足米すなわち150俵支給)。
家老職見習は出役御免(出仕免除だが惣領分として300石支給)。但し、見習でも出仕して月番(用番とも称す)を務めれば500石支給。
また、軍事面では大組の組頭(侍大将)を務める。各分限帳ではその組別に所属の藩士名が記載されている。軍制における装備義務(軍役と呼ぶ)は別項の軍制を参照。但し先法三家は、筋目により客将扱いであるため大組に所属しない。

中老
家老職に次ぐが、長岡藩では常設の機関ではなく一代限りであった。本人の意志で辞職可能。着座を許された功労者(着座家)が推挙された。評定役を構成。中老の前職は、番頭職であることがほとんどである。役高500石。江戸時代初期には存在しなかったポストである。

奉行
家老職の補佐を行う常任の職。定員7名。家格に決まりはなく、役高は300石。
但し、町奉行・郡奉行・勘定奉行などの町方や地方(じかた)の行政職(役方)である奉行及び、番方の旗奉行とは呼称が同一であるが、全く別の職制である。藩士の格としては、奉行は、番方の旗奉行よりやや格下、これ以外の行政職(役方)の奉行と比較した場合は、明らかに格上である。
奉行職を束ねる役職として、奉行組支配職が存在したことがあったが常置の役職ではなく、家禄400石から500石級の者から任命された。奉行職の精勤者は番頭職に班を進めることがあった。
奉行には、評定所(会所)の構成員に指名されている者と、指名されていない者があった。構成員に指名されなくともオブザーバー参加はあったものと見られる。

2.寄会組
先法三家は筋目により常任、他に中老職等重役経験者、番頭の精勤者が加えられ、時代によっては藩主の国許の菩提寺である玉蔵院・栄涼寺も寄会組の扱いを受けた。また時代が下ると精勤者の役職の範囲も広がった。
寄会組は藩政の諮問機関と思われるが多分に名誉的側面が強い。役高250石。
(但し着座家の寄会組は300石高であるが、江戸時代中期ごろまでは、家禄と別に僅かな手当がついたに過ぎなかった)。

諸藩にあっては、寄組を老職クラスを除く上級家臣の総称または、所属としている例があるが、これとは異なる。また上級家臣の精勤者を遇する大寄会と、同じく中堅家臣を遇する寄会とを分けて持つ藩もあるが、越後長岡藩の場合は、特に功績のあった中堅家臣の隠居を遇するポストはなく、大寄会とも云うべき寄会組だけがあった。但し江戸時代後期から幕末にかけては、特に功績のあった用人・奉行なども寄会組に加えられるようになった。

[編集] 取次・用人

取次は主に評定役が取りまとめた裁可を仰ぐべき重要案件を藩主に取り次ぐ機関である。地位は用人の下、役高200石高。 用人は奉行職に同じく家老職の補佐役を務め、細かな用向きを伝え庶務を司った(但し大奥以外での藩主の衣食、日常生活に関する用向きの伝達は刀番・小納戸の職域)。用人の地位は奉行職の下位。役高200石高。
先法三家の中から、1名が用人職を兼帯する慣行があり、この役目は、いわば用人組支配職とも云えるものであった。 用人の精勤者は、家格の高い者は番頭職に進み、それ以外は奉行職となった。時々ではあるが用人、奉行、番頭と順次、班を進める者もあった。100石級の藩士は、用人・取次が一応の出世の到達点であり、それ以上となると稀である。
なお、江戸組には別に対幕府・諸藩等の対外的用向き専門の非常置の公用人を置いた。→江戸組の項参照。

*解説-側用人との違い側用人(御側御用人)と、用人(御用人)は、有能で藩主の信任が厚い者から選任されることが多いが、役目は異なる。
用人は藩の統治機構に属する。側用人は、藩主の側衆として、枢機に預かるほか日常のお相手役となるが、藩主の家政を総覧する責任者となるのが原則である。この点、将軍と老中との伝奏役である幕府の側用人とは異なる点である。しかし幕府の例を模範として、側用人に藩主との公務上の取次を一括して行わせた藩もあった。この場合は御側御用取次たる用人(または側用人)等と、分限帳などに注記されていることが多い。このような藩では、側用人には、家政総覧者たる側用人と、伝奏役たる側用人がいたことになる。越後長岡藩の用人・側用人は、伝奏専門職や、御側御用取次ではなく、藩主の側衆または家政の総覧者であったと考えられる。
越後長岡藩では、用人と側用人を、役職名として常に、かつ明瞭に分離していたかどうか定かでないが、江戸武鑑に『附』とある用人は、諸藩との比較上、側用人たる役目を担っていたことは、疑いがない。『附』とあるは、江戸に定府して、嫡子及び正室の伝奏を行い庶務を司った。
支藩の与板(小諸)・三根山では、初期には用人・側用人制度がなく、本藩の長岡を模してこれらの職制を導入したとするのが通説的である。これらでは、用人が家老職の補佐機関(長岡の中老・奉行に相当)としての権能を併せ持った。また用人が加判の列に加えられることもあり、番頭職より格上であるのが特徴的である。

[編集] 役方の各奉行職

町奉行
定員は2名。商業や物価の適正化や戸籍調査などの民事の取締まりと犯罪人逮捕の警察行為を主務とした。通常は会所(評定所)に詰めるが、藩主在国中は城内上の間に出仕した。城下膝元を司る要職のため、要員は大組の番頭相当の士が充てられ、番頭を兼帯した。従って足高による給付が行われたことは、ほとんどない。役高は200石高。

郡奉行
地方(じかた)支配すなわち藩領の農業を監督し米等生産物の収量増大を推進し、年貢徴収・賦役の監督、また訴訟を受付け裁断した。また、郡奉行の配下に代官が属した。定員は3名。役高100石。
代官は藩の行政上の区割りである各組を担当し巡回監督し、配下の各組方の割元が通常業務をこなした。代官の定員は時代により変動したがおよそ、上組・北組3~4人、栃尾組・西組・河根川組・巻組は1~2人、曽根組1人。上組・北組代官は上御蔵・北御蔵の蔵屋敷に詰め、藩士への渡し米(知行米・扶持米の引き渡し)の業務も担当した。他の組の代官はそれぞれの住居兼用の役宅が宛われ、これに常駐した。代官の要員は主に小組の士が充てられたが大組の士がなる場合もあった。役高は小組25石役・大組30石役である。なお、村役人(武士ではない)である庄屋及びその補佐の郷横目は郡奉行・代官の支配に属して村政にあたったが、自治組織としての村と藩政の接点である。

新潟町奉行(初期は新潟代官)
藩領であった新潟は港が有り、物流・軍事の面で重要であるため、はじめは郡奉行配下の代官を派遣して管理したが、延宝4年(1676)より、専任の新潟町奉行を新設して町政全体を管理した(初代の新潟町奉行のみ、担当の代官2名をそのままこれに昇格させた)。役高は150石高。

勘定奉行(勘定頭)
藩の米穀や金子などの藩庫の出納並びに藩財政収支の記録・管理を司る。奉行配下に勘定頭・本〆・勘定方・同見習などの職員がいた。この部署の要員は当然に筋目より能力才覚で登用される傾向があった。奉行(勘定頭)は150石役。職員は大組から登用は30石役、小組は25石役。

宗門奉行(宗門改役)
主に藩内の神社・寺院の監督と宗旨の登録・確認を主務とする、宗教の統制と戸籍管理の両側面があった。役高200石役。宗旨の改めは家中の藩士とその家族、及び領内郷中の民間人とその家族の両者の管轄の別があり、後者は特に郷中宗旨改役を定めた時期もある。

普請奉行
土木工事の監督・管理を役目とする。初期の延宝頃は軍事的側面から重要視されたらしく、特に普請大奉行を置いて普請奉行を統括したが以後常設せず、知行50石前後の小禄の士の普請奉行のみ常設した。普請大奉行は1名で150石高、普請奉行の役高は30石高。

[編集] 目付等

管轄によって、目付・組目付等の区別がある。

[編集] 守役等

1守役
藩主の男子の守役には、世襲家老、先法三家の中から任命された(但し例外として倉沢氏と、先法三家の一つとなる槙氏庶流・槙平兵衛家などの抜擢がある)。
特に嫡子の守役となると、守役の座を巡る争いは熾烈であったようである。

[編集] 江戸組

長岡藩の江戸屋敷に常駐する組。藩主江戸在府中の公的・私的用向き一切をまかない、藩主在国のときは江戸屋敷の留守を守り、幕府や他藩の情報を収集し国元に連絡する役目もある。職制は国元と共通のものが多いが、藩主の上屋敷に住まう藩主家族の日常生活や警護担当する者、留守居役や公用人などの独自の機関もあった。江戸常駐は長岡藩では定府と言った。これに対し、藩主帰国の際には随従して長岡に戻れる者は江戸詰めと呼んだ。
江戸組の職制は国元とは独自のものを以下に示す。

(江戸)家老
定員1名。世襲家老家のうちより不定期に交代した。時代により定府の場合と、江戸詰めの場合があった。
牧野頼母家が定府することが多く、稲垣太郎左衛門家の定府もあったが、稲垣平助・山本帯刀両家の定府は各分限帳でも確認されない。1,000石役。

留守居(御城使)
定員2名。200石役。江戸家老の補佐役で、家老も帰藩した場合は江戸組の責任者となる。長岡藩の留守居は、御城使の身分を兼帯している(兼帯させる藩が多数派である)。留守居は単なる留守番ではなく、上屋敷に常駐して、対幕府・諸藩等との外交に常時当たる重責で、有能な者が選ばれた。越後長岡藩の支藩である小諸・三根山に対する指示及び連絡は、主として御城使たる江戸留守居を通じて行われていた。
留守居の副官を留守居添役または、単に添役と呼ぶ。150石役(但し推定)。
長岡藩分限帳には、添役であった者の記載がないが、同分限帳には、上級藩士であっても、役職の記載がないことがしばしばあるが添役は、各種江戸武鑑の原本を閲覧して調べれば、同藩に存在したことは、疑いがない。

公用人
江戸組に置かれた、対幕府・諸藩等との外交専門の用人であるが、藩主が幕府の役職にあるとき、共に城中にありその補佐・伝奏を行う。他に組1個隊が、城中の藩主に近侍して事務方を構成する。江戸家老はこれらに当たらないのが通例であった。
長岡藩では、幕末近くの天保年間より公用人の職名が見られる。御城使たる江戸留守居と添役は、藩主が幕府の役職にあるときは、将軍家の陪臣として、また藩主の身内人として、公儀の御用に携わることになる。よって江戸時代後期から、公用人の名が用いられるようになった。諸藩の藩主が幕府の役職に就任すると、参勤交代は行われなくなり、藩主は江戸定府となり、留守居と、添役の職名は、公用人に変更され、致仕するとまた元の職名に戻ることが、各種江戸武鑑から証明できる。

*解説-京詰めと公用人長岡藩主牧野氏は、老中のほか江戸時代後期、京都所司代に就任した例が3度あるが、この場合は、藩主は当然、江戸に定府せず京に赴任して、同地に詰めた。臨時に長岡藩江戸屋敷から派遣された留守居・添役及び、江戸屋敷に残った留守居・添役も、揃って公用人を称した。また藩主の京都所司代就任に当たって、別個に家臣団を編成しその武鑑が現存するが、内実は江戸表や国許との役職との兼職や、臨時の派遣に頼った。またこのとき新規に、公用人に補任された藩士(例、三間氏)が存在したようである(厳密には交代の可能性も否定できない)。他藩の例から推して、京詰めの公用人は、言わば京都所司代官房(文書課・秘書課・広報課)としての権能を持つと共に、京都所司代から幕府・諸藩に使わされる公使となったと考えられる。また家老首座の稲垣平助も、在所の長岡から京に赴任して、藩主を補佐して客死(不審死とも云う)しているが、職名は牧野駿河守家来(あるいは家老)、稲垣平膳(平助の改名)としている。

[編集] 軍制

[編集] 制定と概要

長岡藩の軍制は、江戸幕府が諸大名・諸旗本に定めた軍役義務の定めに従っていたと考えられる。
すなわち、元和2年(1616)6月、寛永10年(1633)2月、慶安2年(1649)10月の制定あるいは改正があった軍役令を基礎に長岡藩の軍事編成と軍役義務を定めていたと考えられる。
基本的に藩士(士分・卒分)は全て軍事編成のいずれかの部分に所属してその軍役に服していた。軍役は非常時のみならず平時においても原則的に存在しており、給恩としての知行に対する奉公義務であった。(よって、この義務が免除された場合を無役という。無役は単に役職がないという意味ではない。例えば藩が抱えて知行給付される医師や茶道者はその職務はあるが軍役免除の場合が多く、隠居免をうけた者も含め無役の衆となる。)

長岡藩の慶安3年3月制定の「御軍法」では士大将・さむらいだいしょう(=大組の組頭、家老が務めた)以下202騎の騎馬武者について、その持槍・持筒(鉄砲)等の武装・装備や兜の立物(飾り)や旗指物・服装等の出で立ち及び従者の定めを細かく規定した。また、足軽についても同様の軍装の定めがあり、戦闘の主力を担う鉄砲足軽隊については足軽頭(大組の士分)17人の統率の下に鉄砲30挺の隊2組、25挺の隊15組(鉄砲・計435挺)、合計鉄砲数531挺(士分の持筒等を合計した数と考えられる)である。他に弓足軽頭2騎以下、弓50張の弓足軽隊や長柄組と呼ばれる槍足軽隊があった。

その後、延宝8年(1680)8月にも改正があり、これを例に取ると次席家老山本勘右衛門(帯刀家)は家人23人(別に騎士の家人1名あり)・乗馬2匹・荷馬4匹である。(慶安の軍制ではこれに持筒2挺・持弓1張・持槍3本(内、陪臣用1本)である)。 延宝の制では騎馬武者208騎のほか、戦闘要員の中小姓(士分)20人・徒士(馬乗り以外の士分)71人・足軽(兵卒)350人・中間(従者)259人、非戦闘要員の乗掛(荷馬夫)22人・伯楽その他12人・細工方45人、雑人(夫役の者)1952人と定め、総勢2939人、馬223匹(荷駄用は除くか?)となっている。

また、家老以外の士分の者についても、知行高に応じた揃えるべき装備が定められていたと考えられ、天和元年(1681)越後高田城の受け取り際の出動事例を具体的先例として「諸士法制并追加」とした。(以下軍役参照)
なお、この体制は、河井継之助の慶応の軍制改革(越後長岡藩の慶応改革)まで基本的に存続した。

[編集] 軍役(知行高別の装備)

軍役は各知行高に応じた装備と従者の人数を揃える義務(以下に主な例を示す)

高1,200石・・・山本勘右衛門(家老)
家来(士分2名、内1人は騎士持槍免許)、用達し若党1名、 大砲(大・小)2本・鉄砲2挺(若党14人)、持槍3本(3人)、長刀1本(1人)、以下挟箱持ち・馬の口取り・草履取り・兜立て持ち・小荷駄口付き・弁当持ち・その他の中間・小者を合わせて、総勢59人(本人除く以下同じ)。

高500石・・・(寄会組格)
若党6人(内2人鉄砲持、刀・筒持1人)、槍持2人、以下挟箱持・馬の口取り・草履取り・弁当持ちその他の中間・小者 を合わせて25人。

高180~250石・・・(番頭格) 若党3人(内鉄砲持1人)、槍持1人以下挟箱持・馬の口取り・草履取り・弁当持ちその他の中間・小者を合わせ13人。

高100石以上・・・(騎士)
若党1人、槍持1人以下挟箱持・馬の口取り・草履取り・弁当持ちその他の中間・小者を合わせ10人。


[編集] 番方の役職

大組組頭士大将
騎乗の士分を引率する、大隊編成(大組という、の意)の部隊長。家老が務める。元和期(長峰藩時代)から長岡藩の寛永期までは家老6人を大組6組の組頭とした。組頭・家老の贄氏が長岡藩を去った後、5組の編成に改められ、以後家老家の顔ぶれに変更があっても5組編成は幕末慶応期までは不変であった。

組頭(士大将)
江戸時代初期にあったポスト。藩主から一定の家臣団を預けらた大将。軍制においては、家老に準ずる役職であったと考えられる。 泰平の世となり、この組織は大組に吸収されたと思われる。組頭であったと想像される士(真木茂左衛門700石、牧野弥次兵衛600石など)は、家老の家柄に栄転、若しくは廃絶・失脚等により組頭のポストは、自然消滅した可能性も排除できない。組頭の廃止により新設されたものであるか否かは定かでないが、組頭消滅と相前後して、中老・年寄役が長岡藩の機構に登場した。

御番頭
軍事・警備部門(番方)の責任者である。特に越後長岡藩では、番方から藩主に奏上を行う場合は、家老や取次を介せずに、番頭がこれを行った。知行300石以上の上級家臣の精勤者から選任されたが、知行180石~200石台の家臣が時として、抜擢されることもあった(鬼頭氏・槙氏庶流の槙三左衛門家など)。
先法三家の歴代当主は、ほとんどの者が番頭職を経験している。戦時・行軍のときは本陣・本隊を守護するが、主として本陣・本隊の攻撃部隊である。泰平の世にあっては、一般論として、能力がなく家柄が高い武家を、番頭をはじめとする番方の幹部にしたとする指摘もあるが、越後長岡藩の場合は、有能な士からの抜擢も行われていた。
長岡藩の番頭は、諸藩の番頭と比較した場合、藩内の地位が相対的に高いほうに属する。

旗奉行
おおむね番頭級の士から任命される。定数不定で常置の役職ではないが、3名おかれた前例もある。

者頭(物頭)足軽大将
足軽部隊を引率・指揮する隊長。時期により足軽頭と称したり、者頭と併用している時もあるが内容は同じと考えられる。但し、統率される足軽部隊の種別による呼称の区別があった。弓足軽隊を率いる者は御弓頭、槍足軽部隊は長柄組と呼びその頭は長柄頭と呼んだ。それ以外が足軽鉄砲隊であるがその頭は単に足軽頭と呼んだ。足軽頭の中で御持筒頭や御持弓頭の称号を与えられる事があり名誉とされ、また江戸末期には長柄奉行が設置されている。長柄頭・弓頭を含め足軽頭は大組の士分が充てられ、150石高の役職である。なお、同じ番方で高位の役職である番頭にこれを兼帯する者がいた。

御小姓組・御刀番
小姓は小姓と中小姓の区別があり、本来は藩主や嫡子の最も近くに侍る警備係である。戦時・行軍のときは本陣・本隊を最後まで守り抜く部隊である。泰平の世となり次第に変化をみせ、普段は藩主・及び藩主一家の身辺の世話や警備を担当した。また藩主の子供のお相手役として、ほぼ同年代の子供が小姓として召し出された。子供を小姓を出す家の当主は、必ずしも大禄ではなく、知行100数十石の大組の士から召し出されることもあった。これらは軍制上は小禄・微禄でも大組の扱いであった(もともと大組所属の藩士の子弟、すなわち部屋住み身分であるため)。
御小姓組の長は御小姓頭と呼ばれ大組の士のうち御用番(用人)を兼帯するなど比較的高位の者が充てられた。
大奥以外で、藩主の身辺の細かい世話をする責任者を御刀番(知行50石から100石未満)と呼ぶが、これも本来は藩主の刀を預かる番方の役職であるが、実質は役方の役職に近く変化した。
御小姓組や御刀番は、藩主などに近侍しているため、藩主の日常生活に必要な用達・用務が充分にできないので、その手先となるのが小納戸方である。小納戸方には大組の士も、小組の士もいた。
越後長岡藩文書等は、同藩には柴崎錬三郎と云うそれは美しい少年の小姓がいたと伝える。

小組
小組は騎乗を許されない小禄の士分が属する部隊であるが、平時においては大組より選任された徒士頭に統率される徒士組(実際には稲垣善右衛門組のように徒士頭の名で表す)に所属の番士と、普段は役方の各職に勤務してその責任者(諸職の奉行等)の下に所属し、非常時の動員や儀式等の勢揃いの際には徒士頭の統率に入る者(御料理方や勘定方・代官・米見、鷹匠などの役人)に分かれた。
大組の士である当主が長く病身などで、役目に就けず、また隠居もできない場合は、一時的に小組に格下げとなることもあった。

[編集] お家騒動

初代長岡藩主牧野忠成の嫡子、光成は、寛永14年(1637年)に父に先立って24才で死亡した。このとき光成の遺児はまだ3才であった。牧野忠成の次男、牧野康成(注意=祖父と同じ名を名乗っていた)は、越後与板藩主として分家・立藩していた。また牧野忠成の四男、牧野定成は分家して、交代寄合(参勤交代をする将軍家の上級旗本)となっていた。康成と定成は、光成の遺児が幼いことを奇貨として、忠成の後継者を争った。初代長岡藩主牧野忠成が承応3年(1654年)死去すると当事者間では収められず、遂に明暦元年(1655年)、4代将軍徳川家綱の裁定を仰ぐことになった。その結果、光成の遺児が2代目の長岡藩主になることが決まった。光成の遺児は、はじめ忠盛と名乗っていたが、祖父と同じ忠成と改称した。2代目忠成(或いは後忠成)と呼ばれた。
この騒動で、幕府からの処罰はなかった。また牧野氏(本姓山本氏)は、このとき幼い忠盛をよく助け、この騒動に勝ったことで、はじめ組頭・番頭級の格式であった同氏は、家老連綿の家柄を不動とした。
この裁定の後、与板藩と、長岡藩に領地争い・境界紛争が勃発して、抜本的な解決を長く見ず、両藩の関係は悪化した。
徳川綱吉の側用人となった牧野成貞の病気見舞いで、長岡の牧野忠郷と、与板の牧野新三郎(康道の嫡子)が牧野成貞邸で出会ったが、このとき険悪な雰囲気が漂ったと云われ、牧野成貞等も心を砕き、天和2年(1682年)7月7日に和解した。やがて与板藩主牧野氏は、小諸藩に転封となったので、この問題は自然消滅した。

[編集] 越後長岡藩主牧野氏の支藩

初代の越後長岡藩主・牧野忠成のとき、新田分16,000石をもって分家させた2家がある。 この2つの藩は、与板藩(後に小諸藩)・三根山藩は、何事も本家の長岡の家風を見習うこととされ、本藩から政事上の指導を受けた。
また支藩(小諸・三根山)に家老連綿の家柄として、越後長岡藩士から移籍・出向した者を検討すると、支藩といえども、その出自は、すべて三河・牛久保以来の古参の家柄の者が、就任している特徴がある。

藩主牧野氏が大胡在城期に仕官した出自、及びこの時期にはじめて与力した出自を持つ直系子孫は、本藩の長岡において、高禄の上級家臣に出世していても、支藩の家老の家柄となった例はまったくない。もっとも与板藩家老・野口氏は新参であるが、野口氏は江戸時代初期に、2代で改易されているため、家老連綿の家格であったか確認できない。

[編集] 与板(與板)藩→小諸藩

与板(與板)藩よいたはん)は、1634年、牧野康成が越後長岡藩の支藩として1万石をもって立藩した。 与板侯初代の康成は、与板に領地をたまわってから、在所の陣屋に23年間、移らなかった。なお正確には、与板藩ではなく與板藩と書く。
3代目の康重が、5代将軍の徳川綱吉と従兄弟になったため、3万石に加増されて城持ち大名となり信濃国小諸に転封した。しかし、小諸藩領の目録には3万石とあったが、嫉妬や批判を恐れたためか表高を15,000石とした。

康成の家臣筆頭は、倉地氏であったが、本藩の長岡藩に帰参した。倉地氏以下の上級家臣として、牧野氏・野口氏・加藤氏・木俣氏・諏訪氏・真木氏・稲垣氏・平井氏・甲谷氏・小川氏・太田氏(順不同)があった。
与板侯・牧野氏が小諸城主に栄転となると、しばらく天領となったが、与板には井伊氏徳川四天王の一人、井伊直政の長男、直勝の末裔)が、精神病を理由に、掛川藩主を改易されていたが、家名再興が許されて、入封。長岡藩の支藩ではなくなった。詳細は、与板藩小諸藩小諸藩の家臣団を参照されたい。

明治維新期に、小諸藩はお家騒動に揺れた。小諸藩主・牧野康済が騙されて、家老牧野八郎左衛門成道、真木要人則道等を斬首とする処分を行うなど混乱を極め、統治不能となった。
そこで本藩の長岡から、明治2年(1869年)、小諸藩の大参事として三間氏・小倉氏の長岡藩士を派遣した。


[編集] 歴代藩主

牧野(まきの)家

譜代 10,000石 (1634年~1602年)

  1. 康成(やすなり)
  2. 康道(やすみち)
  3. 康重(やすしげ)

[編集] 三根山藩

三根山藩みねやまはん)の淵源は、1634年に牧野忠成の四男定成が蒲原郡三根山(巻町嶺岡)に6,000石を分与し分家させたのに始まる。その後、領地が1万石に満たないことから大名ではなく交代寄合として長らく存続した。

幕末の1863年、時の領主忠泰(ただひろ)は新田分5,000石を新たに打ち出し、高直しにより11,000の三根山藩として立藩した。なお当藩は、諸侯となってからは、参勤交代を行わない江戸定府となった。戊辰戦争では宗藩長岡に近い立場をとるが、新潟・長岡が相次いで陥落すると新政府側に恭順し、続く新政府軍の庄内藩征伐に出兵した。維新後の1870年、藩名が丹後峰山藩と紛らわしいため嶺岡藩(みねおかはん)と改めさせられる。翌1871年に廃藩置県されて嶺岡県となり、同年中に新潟県に併合された。旧藩主家は華族に列し子爵となる。

三根山藩牧野氏の重臣・門閥は、倉地氏(2戸)、山本氏、神戸氏の4戸であり、100石を越える家禄を与えれ、家老職や用人職に就任していた。倉地氏については、大坂夏の陣の武功者たちを参照されたい。

[編集] 歴代藩主

牧野(まきの)家

譜代 11,000石 (1863年~1871年)

  1. 忠泰(ただひろ)

[編集] 関宿藩→吉田藩→延岡藩→笠間藩

関宿藩(せきじゅくはん)、吉田藩(よしだはん)、延岡藩(のべおかはん)、笠間藩(かさまはん)と、転封された牧野氏は、大胡藩主牧野康成の庶子・儀成(旗本2,000石)を祖とする庶流である。儀成は、初代長岡藩主牧野忠成の実弟でもある。

この家系からは、徳川綱吉の側用人として、権勢をふるった牧野成貞が有名であり、直系子孫からは老中京都所司代などの幕府官僚を輩出している。

初代の儀成が新恩をもって幕臣・上級旗本に召し出されていることや、その庶子だった成貞が、段々と立身して、諸侯に取り立てられ、やがて徳川綱吉から、計71,000石を(世子の代にさらに7,000石)加増されたことで、この系を越後長岡藩の支藩に含めるのは、無理があるとする意見もあるが、江戸時代の各種文献から、この系が、越後長岡藩に対して、分家の礼をとっていたことは疑いがない。
この越後長岡藩と常陸笠間藩が、本支藩関係になるか否かについては、牧野忠敬のページ、『忠敬養子入りにみる笠間牧野家との関係』の項目にも解説がある。

また長岡と笠間は不仲であったと云う伝説が多い。

この系の概説と、越後長岡藩とライバル関係にあったことについては、笠間藩のページ、『笠間牧野家について』の項目に解説があるため、そちらも併せて参照のこと。

[編集] 歴代藩主

牧野(まきの)家

譜代 80,000石 歴代藩主は、同じく笠間藩を参照。表高は8万石であるが、内高は7万数千石である。

[編集] 関連項目

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