松平忠輝
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代中期 | |||
生誕 | 天正20年1月4日(1592年2月16日) | |||
死没 | 天和3年7月3日(1683年8月24日) | |||
改名 | 辰千代(幼名) | |||
別名 | 越後少将(通称) | |||
戒名 | 寂林院殿心誉輝窓月仙大居士 | |||
墓所 | 諏訪市の貞松院 | |||
官位 | 従五位下、上総介。従四位下、左近衛権少将 | |||
藩 | 武蔵国深谷藩主→下総国佐倉藩主→ 信濃国川中島藩主→越後国高田藩主 |
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氏族 | 徳川氏→長沢松平氏 | |||
父母 | 父:徳川家康、母:茶阿局。 養父:松平康忠 |
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兄弟 | 兄:松平信康、結城秀康、徳川秀忠、 松平忠吉、武田信吉。 姉:亀姫、督姫、振姫。 弟:松千代、仙千代、徳川義直、 徳川頼宣、徳川頼房 |
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妻 | 正室:伊達政宗の長女・五郎八姫(天麟院) 側室:お竹の方 |
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子 | 徳松。於竹姫 |
松平 忠輝(まつだいら ただてる)は安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。徳川家康の六男。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 出生
天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として江戸城で誕生した。幼名は辰千代(たつちよ)という。生年が辰年だったのが、その由来と言われる。
ところが家康は誕生したばかりの辰千代を喜ばず、それどころか「捨てよ」と冷酷に命じたと言われている(後述あり)。ところが、あまりに不憫に思った家康の側近・本多正信が奔走して養育先を探し、その結果、辰千代は下野栃木(長沼)城主で3万5000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなった。
家康が忠輝と面会したのは、慶長3年(1598年)のことであるが、そのときでさえ家康は忠輝の醜い顔を嫌ったと言われている(後述)。
[編集] 長沢松平氏
慶長4年(1599年)1月、同母弟で家康の7男・松千代が早世したため、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、武蔵深谷藩1万石を与えられた。慶長7年(1602年)に下総佐倉藩5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。
慶長8年(1603年)、信濃川中島藩12万石に加増移封される。慶長10年(1605年)、家康の命令で大坂の豊臣秀頼と面会している。慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。しかし慶長14年(1609年)、重臣の皆川広照らによって御家騒動が起こり、それによって広照らは失脚している。
慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主・後述)に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられた。忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に茶道、絵画、薬学に通じた文化人で、キリスト教の洗礼を受けキリスト教を信仰していたともされている。
越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城の城主であったが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移った。高田城は幕府の命により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。
[編集] 改易・配流
しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。剛毅な彼には不満が残る命令であったが結局これに従った。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。
しかし夏の陣で不手際があったことなどから、元和2年(1616年)7月6日、兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪とされた。元和4年(1618年)には飛騨高山藩に、寛永3年(1626年)には信濃諏訪藩に流された。
そして天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。享年92。息子である徳松とは放免の際に同行が許されず、更には藩の預かりとなったもののそこで冷遇されてしまい寛永9年(1632年)に憤死した。
徳川家康との仲は実は埋まっていたという説もある。それが野風の笛の逸話である。この笛は「織田信長~豊臣秀吉~徳川家康」と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したと言われている。現在、貞松院に保管されている。
[編集] 赦免
なお、赦免の許しが徳川家より出たのは、処分を受けてから371年後の昭和62年(1987年)になってからであった。これは隆慶一郎が発表した小説『捨て童子・松平忠輝』が話題作となり、その事により松平忠輝自身もマスコミによってクローズアップされた為である。また、現在の知名度はこの小説及びその派生作品によるところが大きい。
[編集] 父に嫌われた理由
忠輝は兄の結城秀康と同じように、父親から生涯を通じて嫌われた。その理由は秀康とほぼ同じである。
- 「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」(藩翰譜)。つまり家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子としたのである。
- 慶長3年、忠輝が7歳の時、家康は忠輝と面会しているが、そのときでさえこう述べたという。
「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。 「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(藩翰符)。
- 粗暴な一面があったとも言われている。
- 忠輝は順調に出世して最終的に75万石の太守となったことから、家康は忠輝に報いたとされることが多い。しかし慶長11年(1606年)の川中島12万石の太守であった時点で、弟の義直(7歳)は甲斐府中25万石、頼宣(5歳)は常陸水戸藩25万石、頼房(4歳)には常陸下妻藩10万石を与えている。しかも家康が忠輝に所領を与えたのは、政宗や茶阿局らの運動があったためとも言われており、弟たちと比較しても、それだけ家康から嫌われていたのがわかるであろう。
- 元和2年(1616年)4月、家康は死去したが、そのときに秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝は呼ばなかった。忠輝は面会しようと駿府まで自ら赴いたが、家康は最後まで面会は許さなかった。
「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」(徳川実紀)。
[編集] 改易の理由
家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。
- 大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。
- 大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。
以上が、秀忠が改易を命じた表向きの理由である。しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。
- キリスト教ときわめて親しい関係にあったためという説。
- 忠輝の人気が庶民から厚かったためという説。
- 忠輝の岳父が伊達政宗であったため、その存在を秀忠が恐れたという説。また、忠輝の器量が秀忠より上であったうえ、覇気がありすぎたためという説。
つまり忠輝は、秀忠から幕政を危うくする危険人物と見なされたのであろう。
[編集] 人物
- 忠輝は従四位下、左近衛権少将に叙任されたが、生涯を上総介で通したという。これはかつて上総介であった織田信長を尊敬していたためとされている。そのため、史書の一部では、忠輝が少将になった後も、上総介と記しているものも少なくない。
- 忠輝の器量は、家康と同じように嫌われた秀康と同様に優れていたと言われている。
「此人平生、行跡実に相協力、騎射万人に勝れ、両脇自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。故に淵川に入って蛇龍を捜し、山に入って鬼魅を索め、剣術絶倫、性化現の人」(柳営婦女伝系および玉輿記)。
[編集] 書籍
[編集] 舞台
2003年、宝塚歌劇団花組が「捨て童子~」を「野風の笛」というタイトルで舞台化。
[編集] テレビドラマ
- 『野風の笛 鬼の剣 松平忠輝天下を斬る!』(1987年、日本テレビ、松平忠輝:松平健)