私は貝になりたい
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私は貝になりたい(わたしはかいになりたい)は、東京放送(TBSテレビジョン)の前身、『ラジオ東京テレビ』(KRT)で1958年(昭和33年)10月31日の22:00~23:45に放送された単発のテレビドラマである。理髪店を営む一人の男が、戦時中にアメリカ兵を殺害しようとした罪(実際には怪我をさせただけ)を軍隊から復員した後の裁判で問われ、BC級戦犯として死刑にされるという悲劇を描いた作品。テレビ草創期の時代に放送され、視聴者の涙を誘ったドラマとして、日本のテレビの歴史に語り継がれている。「ドラマのTBS」の礎にもなった作品でもある。
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[編集] 概要
三洋電機(後に1994年放送のリメイク版でもスポンサーを担当する事になる)の一社提供番組『サンヨーテレビ劇場』の企画として制作。 第13回芸術祭大賞受賞。岡本愛彦演出、橋本忍脚本、フランキー堺主演。ストーリー自体は橋本のオリジナルだが、当該の台詞の類似などから裁判の結果、遺書部分の原作は加藤哲太郎が「志村郁夫」名義で発表した「狂える戦犯死刑囚」 (現在は『私は貝になりたい』と改題して再刊、春秋社、ISBN 4-393-44161-3) だとされた。そのため、現在は題名·遺書の原作は加藤哲太郎とクレジットされるようになっている。なお、『遺書』(あるいは『遺言』)というタイトルの作品が存在したわけではなく、遺書部分の原作が加藤ということである。
このドラマは、前半30分がVTR、後半が生放送で放送された。 当時のVTRは、日本のテレビ局にとって貴重品で、日本には5~10台しか無かった。日本で初めてVTRを導入したテレビ局は、大阪テレビ放送(現·朝日放送)で、アメリカのアンペックス社製のVTRだった。番組がネットされた大阪テレビ放送が、番組全編をVTRで記録、貴重な映像としてTBSに保管されている(KRTには、その当時放送の一ヶ月前にVTRが導入されたばかりで、編集もすることができなかった)。
1959年(昭和34年)には東宝の配給でテレビ版と同じくフランキーの主演で映画化された。
のち、中野昭夫がドラマの原案者は自分であるとして、橋本を相次いで訴えた。しかし、1975年に東京地方裁判所で敗訴した損害賠償等の請求を始め、ことごとく敗れている。
1994年(平成6年)10月31日、TBS放送センター(ビッグハット)落成記念として、所ジョージ主演によるリメイク版が放送された。放送時間は21:00~22:54。(リメイク版の提供スポンサーにはオリジナル版の単独スポンサーだった三洋電機がクレジットされていたが、当時の同社のCMにも所がコミカルな調子で出演していたため、「ドラマ本編とのギャップが激しすぎる」と放送中テレビ局には抗議·苦情の電話が殺到した)
2005年4月末と8月中旬、2006年8月中旬にCS放送·TBSチャンネルで1958年(昭和33年)制作と1994年(平成6年)制作のリメイク版が再放送された。
2005年10月2日にTBS系全国ネットで放送された4時間の特別番組『中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル』の最後のコーナーで、1958年版の一場面が放映された。
現在では横浜にある放送ライブラリーでオリジナル・リメイク版共に保管されており(DVDおよびビデオオンデマンド形式)、誰でも見ることができる ちなみに保管されているオリジナル版には、「製作著作 TBS」のクレジットがあるが、理由は不明である。
なお、主人公は清水豊松だが、清水姓の戦犯が死刑囚となった事実はあった。しかし橋本忍は加藤に作中の人物名を競輪の選手から借りることが多いと説明していた。実際に清水姓の競輪選手がおり、こちらから取ったものと思われる。
[編集] 外部リンク
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
[編集] あらすじ
第二次世界大戦中、高知県で理髪店を営む清水豊松(フランキー堺、リメイク版では所ジョージ)が突然、軍隊に召集されるところから物語は始まる。豊松は気は弱いが平凡な人柄。
豊松は、新兵の訓練で上官に命令されてアメリカ兵捕虜を銃剣で殺害しようとするが、気後れして怪我を負わせだけにとどまる。
終戦後、理髪店に戻って、いつも通りに仕事をこなしていた豊松が、捕虜虐待の罪で特殊警察に逮捕される。
極東国際軍事裁判(東京裁判)で被告席に立った豊松は、「日本の軍隊では上官の命令に逆らえば命はないんだ」と主張するが、「拒否しなかったことは殺す意思があったという証拠だ」というアメリカ流の論理に跳ね返され、豊松に死刑判決が言い渡される。
死刑執行の宣告を受けた豊松は、妻と子供に遺書を書き始める。
「せめて生まれ代わることが出来るのなら……
いゝえ、お父さんは生れ代わっても、もう人間になんかなりたくありません。
人間なんて厭だ。牛か馬の方がいゝ。
……いや牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら……いっそ深い海の底の貝にでも……
そうだ、貝がいゝ
貝だったら、深い海の底の岩にへばりついているから、何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
房江や、健一のことを心配することもない。
どうしても生まれ代わらなければならないのなら、私は貝になりたい·····」
と遺書を書いた後、処刑台に上がって処刑される。
[編集] 加藤哲太郎の「狂える戦犯死刑囚」と豊松の遺言との異動
以下は、加藤が志村郁夫名義で『あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙』(1953年、飯塚浩二編、光文社)に寄稿した「狂える戦犯死刑囚」の一部である。ドラマで削除された部分は削除、変更された部分は下線、新たに加筆された部分は斜体で示す。ただし、漢字やカタカナの使い分けなど、細かい異動は除いた。
「けれど、こんど生れかわるならば、
私は日本人に生まれたくはありません。
いや、私は人間になりたくありません。
(この間加筆部分)
牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。
どうしても生れかわらなければならないのなら、私は貝になりたいと思います。
貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありませんから。
何も知らないから、悲しくも嬉しくも痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、
兵隊にとられることもない。戦争もない。
妻や子供を心配することもないし。
どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」