海洋堂
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株式会社 海洋堂(かぶしきがいしゃ かいようどう)は、ガレージキット・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する会社である。本社所在地は大阪府門真市。
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[編集] 概要
模型業界では、高い造形技術と破天荒な経営で有名である。造形物の精巧さや、造形センスは世界屈指の水準を誇り、映画「ジュラシック・パーク」のスタッフが、海洋堂の恐竜モデルをコンピュータグラフィックス製作の資料にした事を公言したり、自然史分野で世界最大規模を誇るニューヨーク自然史博物館から展示品の製作依頼が来るほどである。
また、これだけの造形力を持ちながら、海洋堂の造形師には、彫刻家に師事したり、美術系の学校で造形を学んだ者はごく少数である。
日本国内では、チョコエッグをヒットさせて以来知名度が上がり、今や一つのブランドとなっている。その突出した知名度から「造形製作・海洋堂」の名前を冠すれば商品の売れ行きが良い。それまで食玩に製作者名が記された事など皆無といって良かったが、セールスポイントとして大きく謳っている商品がほとんどである。
2005年にはフィギュアの美術館である「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁」を滋賀県長浜市に開館した。 また、世界最大級の、ガレージキット展示即売を中心とした総合造形行事「ワンダーフェスティバル」の主催を手がけ、アマチュア造形の振興に寄与している。
[編集] 沿革
[編集] 海洋堂、創業
海洋堂は、創業者である宮脇修(高知県幡多郡大方町(現:黒潮町)出身)が1964年4月1日に、大阪府守口市で自ら経営していた貸本屋を改装して開いた一坪半の模型店が始まりである。この海洋堂は宮脇の性格からか常に多少変わった事をする店であり、近所の子供達がいつもたむろしている店であった。
例えば、戦艦のプラモデルをお風呂に浮かべても狭くてすぐに風呂桶のフチにぶつかってしまう、だからといって川に浮かべれば流れていって帰ってこない、ということで店内の3分の2を使ってプールを作り、店に集まった子供たちに自由に遊ばせ、冬はプールにフタをして、その上にジオラマを作りリモコン戦車を走らせる、また、ただ模型を売るだけではなく、近所の集会所などを借りて模型教室や展示会を開く、といった具合である。
また、スロットレーシングが流行していた頃、廃業したボウリング場を借りて大きなレース場を作ってみたりもした。こちらは青年層が夜遅くまで数多く集まり、収益も上々であった。
[編集] さまざまな失敗
しかし、うまくいく事ばかりではなかった。当時の大手プラモデル会社・イマイ科学が経営危機に陥った際、社長自ら宮脇修に相談を持ちかけて来た(海洋堂には、イマイ科学が発売していたイギリスの人形劇特撮TVシリーズ『サンダーバード』のプラモデルを一小売店としては突出した数を販売した実績があった)ため、宮脇は「ローマの軍船」のプラモデルを提案し、販売にあたってのノウハウも伝え、その通りに商品化された「ローマの軍船」はヒットしたのだが、海洋堂のような小さな店の企画に助けられた、というのが意に染まぬイマイ科学との間に感情の齟齬を来たす。結局、一銭のアイデア料も受け取らず、アイデアとノウハウだけ持っていかれる形になってしまった。
スロットレーシング場も、借りていたボウリング場が解体されることになったため、代替にボウリング場の隣にある200坪の倉庫(この倉庫は後に海洋堂ホビー館となる)を新たに借り、180mに及ぶ長大なレーシングコースを作った。
しかし、新たなレーシングコースが完成した頃には、近隣に同様のレース場が数軒できており、客足が戻る事はなかった。そのうえ180mのレーシングコースは大きすぎ、そもそも15センチ足らずの大きさしかないスロットレーシングカーは遠くに走って行ってしまうと見えなくなってしまい、勘で操作しなければならず、ますます客足は遠のく。さらに学校、PTAが「スロットレーシングは不良の遊びであり、非行の元凶」と糾弾したため、スロットレーシングそのものが衰退していく。
しかも200坪もの大きな倉庫のため賃貸料も高く、資金繰りは次第に悪化し、借金で借金を返すということを繰り返す羽目になる。さらに金策に駆けずり回っていた修夫人(宮脇里枝)が病に倒れてしまう。ほどなく夫人の病は治癒したものの、十分に養生する間もなく、再び金策に駆けずり回る事となる。
[編集] アーケードゲーム
スロットレーシングがすっかり下火となった頃、ここでまた宮脇修の突飛な発想が顔を出す。「この倉庫を世界中の模型を集めたホビー館にしよう。日本一大きな模型屋にしてやろう」と言うのである。しかし、200坪もの面積を模型で埋め尽くすのは並大抵の事ではなく、店に並べる商品は徐々にしか増えなかった。売上のほとんどは在庫の仕入れに消えてしまい、相変わらずの借金地獄であった。そんな海洋堂を救ったのは模型とは何の関係もないアーケードゲームであった。ギャラクシアンなどのアーケードゲーム機を、空いた場所の埋め草に店内にいくつも並べてみたところ、子供達がゲーム目当てに大勢来るようになったのである。抱えていた大きな借金もみるみる減っていった。これには宮脇の息子であり、当時既に店のほとんどを任され「若だんな」「兄ちゃん」と呼ばれていた宮脇修一(現・代表取締役)もこんな簡単に何とかなるとは思わなかった、と述懐している。
また、当時の海洋堂は模型好きの溜まり場ともなっており、模型を買いもしないのにフラフラと毎日店に来る人達がいた。彼らの中には後に有名造形師(ボーメなど)となる人もいたが、その当時は何の変哲もない単なる常連であった。そんな彼らを宮脇は店に招きいれ、快く食事をご馳走する事もあった。また、彼らもただ集っていただけではなく、店の手伝いを無償でやったりもしている。宮脇父子と彼らは一種不思議な関係を築いていた。しかし、この状況こそが海洋堂に高い技術を持った造形師たちが集まる礎となったと言えるだろう。
[編集] 新たな展開-ガレージキット
80年代初頭、アニメ・特撮ファン界が空前の盛り上がりを見せ、雑誌『宇宙船』(2005年に休刊)の1コーナーが火種となり、「メーカーが商品化しないなら自分で作ろう」「メーカー製のものは元のキャラクターと全然似ていない。自分ならもっと出来のいいものが作れる」とメーカー製の模型をただ買って組み立てるのではなく、一から自分で作り起こしてしまう事が流行し始めた。大抵は自分で作り上げた時点で満足し、完結してしまうが、宮脇父子や海洋堂に集まるモデラーたちは何とかこれを複製する方法はないかと考えていた。当時でもバキュームフォームキットという、簡易な成形・複製技術で作られた模型は存在し、マニアの間では知られていたが、組立に相当な技量を要し、また、原型の再現度も低いものであった。そんなある日、常連モデラーの一人、川口哲也がモスラの幼虫のキットを持って海洋堂にやってきた。川口の本職は歯科技工士であり、入れ歯やインレーを作る技術を応用した方法で自作のモスラの幼虫を複製したものを持ってきたのである。宮脇たちは大いに驚いた。この方法を使えば、プラモデルの生産に用いられる金型による射出成形よりも大幅に安価な初期投資で、且つ緻密でリアルな表現が可能になるからである。様々な試行錯誤と各地のモデラーたちとの情報交換の末、「シリコーンゴムで型を採り、それに無発泡ポリウレタンを流し込んで複製する」手法が確立され、それはいつしか「ガレージキット」と呼ばれるようになった。
以降、海洋堂は自分達が欲しい、作りたい、と思っていたものを作っては、店の会員向けに販売するようになる。
ある日、海洋堂に岡田斗司夫が現れた。これがゼネラルプロダクツ(後のガイナックス)とのライバル関係の始まりであった。「商売敵」の店に乗り込み、自信たっぷりに持論を語る岡田(本人は決して挑発に来たつもりでは無かった)に、負けん気強い宮脇父子や海洋堂のモデラーたちの対抗意識を燃やした。
既にゼネラルプロダクツは「版権を取って商品を売る」ということを始めていた。また、パッケージにも凝り、いかにも「商品」らしい体裁を整えていた。ゼネラルプロダクツが、ガレージキットを「きちんとした商品」「ビジネス」として世に問おうとする姿勢の現れであった。これも海洋堂にとって刺激となった。海洋堂としては、ガレージキットの売上数など200売れたらヒット、という程の物であり、パッケージに凝るなど全くの無駄、ましてわざわざ煩雑な手続きを踏んで版権を取って売るなどという考えは頭からなかった。しかし、考えるうちに版権を取得する事は、ガレージキットに市民権を得させ、より多く売る上で不可欠である事を認識するようになり、海洋堂も版権を取ったうえで商品を売り始めたのである。ユーザーの間では、製品の質(=原形の出来)はゼネラルプロダクツより海洋堂の方が高いとされ(これは岡田斗司夫自身も認めている)、後にゼネラルプロダクツはガレージキットから撤退、アニメ、ゲームソフト製作会社に転向し、ガレージキット勝負では海洋堂が勝った、と言えるかも知れない。
1992年には、ガレージキット最大の祭典である『ワンダーフェスティバル』の主催をゼネラルプロダクツから引継ぎ、業界の主導的役割を担っていく事になる。
[編集] 脱・ガレージキット
90年代も半ばを過ぎると、ガレージキット業界も会社が増え、「とりあえず売れそうなものを出す」といった状態が続き、いささかマンネリ気味となって来た。海洋堂も株式会社となり、製品の質こそ保っていたものの、経営上、過去のように「作りたいものを好き勝手に作っていればいい」という訳にはいかなくなっていた。
そんなある日、海洋堂は新たな衝撃を受ける。 それはアメリカの漫画作家であるトッド・マクファーレンが自ら玩具会社を興して製作した、自身の作品『スポーン』のアクションフィギュアであった。それまでのいかにも玩具然としたものとは一線を画する出来の良さであった。
海洋堂としては、原型の段階でそのレベルのものを作る事はわけないのだが、問題はガレージキットと同じシリコーンゴム型による製法ではなく、マスプロ製品ではごくありきたりな金型による射出成型で作られたものであった、ということである。金型を用いれば大量生産は可能となるが、どうしても原型の再現度が下がってしまう。それにも関わらず硬質、軟質の素材を巧みに使い分け、塗装にも模型の方法論を持ち込んだ『スポーン』のアクションフィギュアは出来が良かった。『スポーン』は日本でもヒットし、アクションフィギュアブームの立役者となり、この事実は海洋堂の闘志に火をつけた。
しかし、金型製作には巨額の初期投資(数百~数千万円)を要し、海洋堂の企業規模では無理だろうと諦めかけていたところ、中国で作れば、日本国内で金型を起こし生産するのとは比べ物にならない低費用で出来る、ということを知る。それがゴーサインであった。だが、「こんなウチの水準をわざわざ下げたものを真面目に作るのは気が引ける、あくまでもシャレでやるんだ」と動き始めた。商品化するキャラクターは、『スポーン』が暴力ものであった為にこちらも暴力もの、しかもメジャー作品で、海洋堂ガレージキット全盛期のヒットシリーズでもあり、一種の「馬鹿馬鹿しさ」さえ持ち合わせている『北斗の拳』を選んだ。
[編集] 中国での製造
中国での製品作りはなかなかに大変なものであった。最初の段階である金型製作から問題が発生する。中国の工場では、なぜか海洋堂が持ち込んだ原型を見ながら大きさを2倍にした原型を別に作り起こし、それをもとに金型を作ってしまう、などといった、常識では考えられないこと(作りやすいサイズで原型を作り、型製作の際に縮小というのは別に業界では普通の事なのだが)がいろいろと起きる。そのうえ海洋堂にとって海外での生産は全く未経験の分野であったために何もかもが初めてづくし、大変な苦労を強いられた。しかし、何回も中国の工場に足を運び、ほとんど言い争いに近い指導と交渉や、徹底した金型のリテイクを行い、ようやくOKを出せるものが仕上がって来るようになった。その甲斐あって海洋堂初のアクションフィギュア『北斗の拳』シリーズは大ヒット。そのヒットぶりに「やっとメーカーになれましたね」と業界関係者から言われる始末であった。しかし、海洋堂としてはまだ不満が残った。この商品には、海洋堂にしかできない、海洋堂でないとできない、独自のものが欠けていたからである。
[編集] 新世紀エヴァンゲリオン
『北斗の拳』以外にもアクションフィギュアのラインナップを増やしつつあった頃、造形師の山口勝久が新たなコンセプトのアクションフィギュアを発案する。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する「エヴァンゲリオン初号機」のアクションフィギュアであったが、これは可動部分の角度や位置を逆算的に決めるとともに可動箇所も必要最小限に抑え、それまでに有りそうで無かった、アニメ作品中の名シーンなどのポーズがとれる物であった。
色々なポーズをとらせたいなら、可動部分、範囲を増やせば増やすほどいいではないかと思われがちだが、実際には無闇やたらと増やしてみても、「ポーズがキマる」位置、角度に腕や足が来る事はほとんどなく、また、アニメには絵的な嘘(構造上動かないはずの方向に曲がる、可動する限界を多少超えて描かれてしまうなど)が含まれる事もあるため、いくら可動箇所が増えたところで、実際にそのようなポーズをとるのは不可能な場合も存在する。山口は「ポーズのキモ」となる部分、範囲だけを見抜いて可動させ、それ以外はあえて切り捨てる、という手法により、ファンに受けるポーズを幾つもとれるという画期的なものを生み出したのである。「まずは触って、動かしてみてくれ」と、発売前に試作品を手当たり次第、小売店に配布した。すぐに大量の注文が舞い込み、商品は大ヒット。その後「山口式可動」と呼ばれ、同様の可動コンセプトを組み込んだ商品をいくつも発売することになった。
[編集] ノンキャラクターの模索~チョコエッグの時代
売上もそれなりのレベルを維持していた海洋堂だったが、ガレージキットが主力商品であった頃から、何か一つキャラクターが売れる事がわかると、その版権は海洋堂が取得していたにもかかわらず、大手企業に奪われ独占されてしまう、という事態が幾度となく発生していた。そんな理不尽さに何度も苦汁を舐めさせられ、嫌気がさしていた海洋堂は、自然な成り行きとして既存キャラクターに依存しない方向性を模索することになる。
決定打といえる方策がなかなか打ち出せない日々を送っていた時、同じ大阪の菓子会社・フルタ製菓から仕事の依頼が来た。もともとはポケットモンスターのおまけの造形がうまくいかず、何とかならないかという話だったが、工場を見学した宮脇修一がなんとはなしにチョコエッグを試しに持ち帰って来た事により話は変わってくる。
宮脇修一はチョコエッグのおまけは今のところたいしたものではなく、これを海洋堂が作る事でもっと良い物ができると思いついたのである。アクションフィギュアでノウハウを蓄積した中国の工場も使える。その話をフルタ製菓に持ちかけたところ合意に達した。フルタ製菓は古い体質の会社だったが、チョコエッグという商品自体は、フルタ製菓の常務取締役(当時)・古田豊彦がほぼ全権を握っていたので話は円滑に進み、動物というノンキャラクターのおまけフィギュアをつけて売り出すことになった。造形担当は松村しのぶ。彼の造る恐竜はニューヨーク自然史博物館からも展示物の製作依頼が来るほどのものであり、自然史分野においては海洋堂一の腕を持つ造形師である。
結果は大成功。他社の人気キャラクターのおまけつき商品を押さえ、圧倒的な売り上げを記録した。本来の狙いである子供はもとより、おまけの出来に感心した大人までがこぞって買い始めたのである。加えてツチノコがシークレット(=ラインナップ表に載っていないもの)で入っているということが口づてで広がり、チョコエッグファンの収集欲を刺激し、人気に拍車がかかって大流行となった。このツチノコ以降、食玩におけるシークレットアイテムの存在は一般的なものになっていく。
しかしフルタ製菓は、社員が発売前のフィギュアをインターネットオークションに流通させる不祥事を起こした他に、海洋堂に何ら相談する事なくチョコエッグのラインナップに既存のキャラクターものを加えたり、海洋堂を通して原型提供を受けていた造形師に直接接触をとるなどの行為を重ねた。このことは海洋堂との信頼関係を損ね、そのあげくにフルタ製菓では経営陣が内部分裂をしてしまったため(この時、フルタ製菓を離れた古田豊彦は食玩会社・エフトイズを興し、独立している)、海洋堂はチョコエッグ、ひいてはフルタ製菓と縁を切る事となる(後にフルタ製菓の生産数量虚偽報告が発覚し、訴訟にまで発展した。第一審では海洋堂のほぼ全面勝訴といえる判決が出たが、フルタ側は控訴。しかし控訴審でも判決は覆らずフルタ側の敗訴確定)。海洋堂にとってもそれは痛恨の極みといえる選択であったが、製品の質が維持できないならきっぱりやめてしまう海洋堂らしさが出た一面でもあった。その後は大手玩具企業・タカラや、「おまけの元祖」・江崎グリコ、金沢の菓子会社・北陸製菓など数多くの企業から食玩を出し、それらもヒットさせている。そして現在に至る。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 株式会社海洋堂公式ホームページ
- kaiyodo@net
- 海洋堂の発売する商品の最新情報が載せられるサイト