江若鉄道キニ9形気動車
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キニ9形気動車は、江若鉄道が1935年にまず1両(キニ9)を日本車輌製造本店(日車)で、1両(キニ10)を川崎車輌(川車)でそれぞれ新造し、その後1937年に日車本店で3両(キニ11~13)を増備した、大型の旅客・荷物合造ガソリン動車である。
厳密には日車製がC9形、川車製がC10形と異なった形式として新造されたものであるが、同一仕様での2社同時発注による競作であり、取り扱い上もほぼ共通であったことから、便宜上本項でまとめて取り扱うこととする。
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[編集] 概要
失敗に終わったディーゼルカーのキハ7形(C7形)に続いて、キニ4形(C4・C6形)の純粋な増備車として、3度日車と川車の競作として設計され、キニ4形と同様、竣工以来1969年の江若の廃線まで改造を重ねつつ主力車として重用された。
江若とは浜大津で接続する、京阪電鉄京津線に阪津間直通特急用として1934年に投入された、60形「びわこ」号の前頭部意匠を取り入れた流線型車体を備えるが、車体構造その他の基本デザインはキニ4形、特に日車製の4・5のそれを踏襲していた。
前作であるキニ4形と同様に、川車製と日車製では車体の細部仕様に差異が見られたが、今回は菱枠台車に統一された。
[編集] 車体
車体長18mの軽量半鋼製車体を採用する。キニ4形と同様に主要部にリベット接合が残されていたが、流線型前頭部の採用で近代的な印象を与えることに成功している。
窓配置および座席配置はキニ4形に準じるが、運転台側の乗務員扉が廃止されたため、、1D(1)2(1)D10D(1)3および3(1)D10D(1)2(1)D1(D:客用扉および荷物扉、(1)は戸袋窓)[1]となった。
前面デザインについては、日車製は自社が前年に手がけた京阪60形に準じつつ改良を実施しており、左右窓を2段上昇式とし、中央の運転大部分を固定の1枚窓とした3枚窓構成で、ヘッドライトを屋根の高い位置に流線型のケーシングに納めて取り付けてあった。これに対し、川車製は中央の運転台部分を含めて3枚とも2段窓で、通常型のヘッドライトが中央窓の直上に取り付けられ、更に床下にはこの時期の川車製気動車特有のカウキャッチャー(大型排障器)が装着されていた。
いずれにせよ、これらは気動車設計の試行期を完全に脱してからの作品であり、その設計は当時の技術水準において極めて洗練されたものであった。
[編集] 台車・主要機器
台車は上述の通り、全車ともキニ4形用と共通の菱枠式軸バネ台車であった。
エンジンは、キニ4形のウォーケシャ6RBに代えて鉄道省がキハ40000・41000形用として設計した制式ガソリン機関であるGMF13(縦型6気筒 定格出力100hp)が発注時にメーカーに対して指定され、全車ともこれを搭載して竣工した。
ただし、1935年製は日車が機関製造に参入前であったため、いずれも川車製GMF13同等品であるKW127が搭載されたが、1937年製は参入後であるため日車製NSK120(GMF13同等品)が搭載された。
江若は平坦線ゆえにこのクラスで事足りていたが、本来この18m級120人乗り大型車体には、GMH17(定格出力150hp)クラスの大型機関搭載が妥当であり、戦後になって一旦日野製DA54Aディーゼルエンジン(縦型6気筒 公称出力80hp)への換装が実施されたものの、比較的短期間で倍近い出力のDMH17B(縦型8気筒 定格出力170hp)への再換装が実施されており、やはり100hp級機関では出力不足であったことが伺える。
変速機は機械式で、こちらもキハ41000用が流用された。
[編集] 江若鉄道での運用
就役開始後、戦後までの経緯はキニ4形と同様であるが、本形式のトップナンバーであるキニ9に限っては、代燃車化を目論んで、1942年[2]に梁瀬式隔膜形圧縮ガス装置の取り付けが実施された。
これは琵琶湖沿岸の草津付近で産出される天然ガスを燃料として使用するものであるが、天然ガスを燃料とする場合、各装置について適切な整備が実施されている場合でも、ガソリン使用時の約8割に出力が低下するため、もともと機関出力が許容下限に近かった本形式の場合、その実用には困難がつきまとい、さらに江若の場合沿線に陸軍師団や演習場が立地していて兵員輸送に伴うガソリンの特配が受けられる状況にあった[3]こともあり、事実上天然ガス動車としての使用実績は皆無に等しかったという。
もっとも、1946年に11~13と共に代燃車化改造申請が出されるまで、キニ9の天然ガスの併用認可はそのまま保持されており、やはりこれはガソリン特配に対するエクスキューズとして実施されたものであったと考えられる。
戦後は上述の通り、陸軍に代わって皇子山にキャンプを設置したアメリカ軍の威光により、1948年より機関の日野DA54Aディーゼルエンジン(縦型6気筒 公称出力80hp)への換装を実施したが、この際他私鉄のように代燃装置設置を義務づけられることもなく、そのまま機関換装を行うだけで認可が得られており、しかもその認可自体が、既に機関換装が実施されて実用に供されているという現実を追認する性質のものでしかなかった。また、この時期には戦中戦後の客車代用としての、あるいは過積載による極めて過酷な使用状況が原因で台枠垂下が発生したことへの対策として、連結器の日車製水津式軽量自動連結器および川車製簡易式連結器[4]から鉄道省基本型(柴田式あるいは並形ともいう)自動連結器への交換と、床下へのトラス棒の装着が実施され、連結運転時の衝撃緩和と連結器破損防止、それに車体強度の向上が実現した。
続いて、1950年代中盤に入るとDMH17B(縦型8気筒 定格出力170hp)への機関の再換装が実施されたが、出力アップに伴う排気管容量の不足が露呈したためか、浜大津寄り前面の左隅に床下から屋根上までカバー付きの排気管を立ち上げるという、いささか乱暴な改造工事が実施され、「びわこ」スタイルの流線型が大きく崩されることとなった。
その後、1960年3月にキニ12が大鉄車輌工業で車体更新工事を実施され、キハ12へ改番された。
主な改造内容は、荷物室の撤去と側面窓配置の全面的な変更による等間隔配置化で、窓配置d1D(1)5(1)D1d(D:客用扉、d:乗務員扉、(1):戸袋窓)の左右対称レイアウトとなり、側窓は上段Hゴム固定、下段アルミサッシ上昇式となり、これに合わせて全面張り替えとなった外板はノーシル・ノーヘッダーの平滑な全溶接組立となった。また、室内灯も蛍光灯化されており、内外共に大幅に近代的な仕上がりとなった。
もっとも、前面の左右上段と中央窓を元のサイズより一回り小さい寸法でHゴム支持化した結果、「まるでアイスホッケーの面のような」などと形容される異様な前面形状となってしまい、お世辞にも美しいとは言い難い外観となってしまった[5]。
これ以外の各車はそのまま使用されていたが、本形式唯一の川車製であったキニ10は1964年に機関一式を下ろして付随車化され、ハニフ10となり[6]、続いて1965年には両端を切妻化の上貫通路を設置し、荷物扉を埋め、連結器を遊間の少ない日本鋼管製NCB-II密着自動連結器に再交換し、更に総括制御用信号線を引き通して新構想の「気動車列車」用中間車に改造され、ハ5010(C22M)と改番された。
この改造によって窓配置が5(1)D10D(1)3となったハ5010はキハ5121(L29SM:旧キハ18)とキハ5122(L29SM:旧キハ19)の中間車として組み込まれ、ラッシュ時に威力を発揮したが、その反面編成両数の増減が困難となって閑散時の使用に適さず、日中は三井寺下の車庫で待機状態に置かれることとなった。
[編集] 江若鉄道廃止後
1969年の江若鉄道線廃止時に、キニ9・11はそのまま三井寺下車庫で解体処分された。
これに対し、ハ5010は関東鉄道竜ヶ崎線へ譲渡され、1971年のワンマン化実施で一旦常総線へ転属してキハ900形に挟まれて使用され、この間にキサハ71へ改番された。その後、筑波線へ再転属し、ここで1974年まで使用された。
また、更新車であるキハ12と、本形式のラストナンバーであるキニ13はDD1352と共に岡山臨港鉄道へ譲渡され、キハ5001・5002となったが、キハ5002は未更新のため老朽化が著しく、水島臨海鉄道からのキハ7000形導入後、1980年に廃車解体された。残るキハ5001は1984年の同鉄道廃止まで使用された後、岡山市内にある岡山旭川荘厚生専門学院に車体が保存されている。
[編集] 脚注
- ↑ 浜大津寄り運転台直後の荷物扉と戸袋窓1枚分が荷物室スペースとして確保された。
- ↑ 記録上は1943年3月10日認可であるが、天然ガス消費実績記録は1942年度と1943年度にまたがっており、しかもその大半は1942年度に消費されていて、1943年度の消費量はごくわずかであった。つまり、認可時点では江若側は天然ガス動車の将来性をほぼ見限っていたと見られる。
- ↑ それでも全車の気動車としての運行は不可能であったらしく、一部については客車代用としての使用がなされていた。
- ↑ 川車製気動車は初期の例外と軽便鉄道向けを除き、日車開発の簡易式連結器を装着して出荷されており、キニ10もその例外ではなかった。なお、簡易式連結器は強度が低く、実用上限は25t前後であるため、客車代用で長大編成の先頭よりに組み込まれた場合、機関車の牽引力と後続車両の荷重に耐えられず破損する恐れがあり、混乱期には実際に各社で破損が発生し、その大半は並形自動連結器への交換を余儀なくされている。なお、この時取り外されたキニ9・11~13の水津式軽量自動連結器は、国鉄から払い下げられたキハ14~17(元キハ41000形)の簡易式連結器の交換に役立てられた。
- ↑ この改造は余程不評であったのか、キニ12 1両で打ち止めとされ、これに準じた側面を備えるキハ30が前面貫通式として同じく大鉄車輌工業で1963年に新造されるに留まった。
- ↑ 原因は不明であるが、日車製と微妙に異なる仕様であったことが一因と考えられる。