文公 (晋)
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文公(ぶんこう 紀元前696年 - 紀元前628年 在位紀元前636年 - 紀元前628年))は中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握った。晋随一の名君。春秋五覇の一人。
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[編集] 晋の公子
父献公の寵姫である驪姫が、自らの息子・奚斉(けいせい)を跡継ぎにしようと画策したため、重耳の兄で太子である申生(しんせい)は強いて自殺させられる。そのため、第二子であった重耳と第三子である弟の夷吾は国外に逃亡して難を逃れた。後に夷吾は晋公の座に迎えられ、恵公と呼ばれる。
その後、重耳とその部下達の長く苦しい亡命の旅が続く。その年数十九年。その距離一万里。
[編集] 放浪時代
一行はまず衛を目指した。金の無い一行は飲まず食わずで進み、途中途中で食べ物を乞いながら進んだ。乞食である。そのような苦しみを支えていたのは重耳であり、衛の君主への信頼であった。衛の主は名声高く、晋の公子を遇する術も知っていると思われたからである。衛の君主は重耳を饗さなかった。一日だけは認めるが、二日めには国外に出ろと言ったのである。
それから四日後、五鹿という場所にさしかかった。近くの老農夫に食べ物を頼んだ所、器に土を盛って出された。激怒した重耳は農民を殺そうとしたが、狐偃(こえん)に「民が土を差し出したという事は天がこの土地を公子に下げ渡したという事です。めでたい事ではないですか。受け取りなさい」と止められ、重耳はこの農民に丁重に礼を言った。
そのような事がありながらも旅を続け、一行は東の斉にたどり着いた。桓公はみすぼらしい亡命公子に過ぎない重耳に80頭の馬を贈り、また娘を重耳に娶わせ大いに歓待した。桓公自身も若い頃に流浪の経験があったための配慮と言えるかもしれないが、名宰相管仲の才能を一目で見抜く眼力に重耳がかかったためとも見られる。
重耳が桓公に見えたとき、管仲は既に没し、桓公自身も晩年にかかっていた。桓公には子が大勢おり太子が無事後を継げるかを心配した桓公は、重耳に後事を託そうとした。重耳は管仲亡き後の斉で大いに栄達できると喜んだが、部下達は「我々は天下を宰領する覇者の部下になるために公子についてきたのであって、斉の陪臣になりに来たのではない」と憤り、重耳が酔った隙に車に乗せて斉から連れ出してしまった。
馬車の中で夢から覚め、事態を把握した重耳は怒り狂ったものの、部下の気持ちを汲み取り、晋に帰る事を考えるようになった。
斉を出た後、衛と曹に入ったがまたしても無礼な扱いを受け、すぐに出国し宋に入った。 宋は当時、楚との戦争に敗れたばかりであったが襄公は重耳に桓公と同じく80頭の馬を贈り歓待した。
宋を出た後、一行は楚に入った。楚の成王は亡命公子の重耳に諸侯と同じ格式でもてなし、「もし貴方が国に帰り、晋の君主になる事ができたら私に何をお返ししてくれるでしょうか?」と聞いた。重耳は「もし王と戦う事になったら三舎(軍が三日で行軍する距離)だけ軍を退かせましょう。」と答えた。成王の部下の子玉は亡命公子に過ぎないくせに、楚王に向かって生意気なと、憤り重耳を殺そうとしたが、成王は「天が興そうとするものをどうして止められようか」と子玉を止めた。
[編集] 帰国
紀元前637年、晋で恵公が死に、秦に人質になっていた太子の圉(懐公)が逃げ出し晋公(懐公)の座に就いた。人質に勝手に逃げ出された秦の穆公は怒り、重耳を晋公につけようと楚から呼び戻した。
十二月、秦軍を後ろにつけた重耳は晋に入る。評判の悪い恵公とその息子の圉についていこうとする者は少なく、程なく重耳は晋公に就く。実に六十歳の新君主である。
晋公になった重耳は天下経営に乗り出す。
[編集] 覇者として
紀元前635年、反乱にあって逃亡してきた周の襄王を保護し都の反乱を鎮める。
紀元前632年、楚に攻められた宋を救援するため軍を発する。成王と対陣したが成王は分が悪いと見て軍を引き上げた。しかし楚軍の中でも子玉だけは退かず晋軍と決戦した。戦いが開始され、重耳は約束どおりまず全軍を三舎退かせた。その後一旦撤退し、城濮の地で子玉と対決しこれを打ち破った。これを城濮の戦いと呼び、これにより重耳の覇者としての地位が決定付けられた。
紀元前628年、死去。 混乱の続いた晋を安定させ、覇業をもたらした功績から、諡号の中では最上級の「文」を諡され、以後、「文公」と呼ばれる。
在位期間は九年と短いもののその中で行った事は覇者の名にふさわしく、桓公と並んで春秋五覇の筆頭に数えられる。