管仲
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管仲(かんちゅう ? - 紀元前645年)は、中国の春秋時代における斉の政治家である。諱は夷吾である。字が仲である。後に管子とも呼ばれる。桓公に仕え、桓公を覇者に押し上げた。
[編集] 略歴
若い頃に鮑叔と親しく交わり、ある時金を出し合って商売をしたが、失敗して大損した。しかし鮑叔は管仲を無能だとは思わなかった。商売には時勢がある事を知っていたからである。また商売で利益が出た時に管仲が利益のほとんどを独占したが、鮑叔は管仲が強欲だとは思わなかった。管仲の家が貧しい事を知っていたからである、このような鮑叔の好意に管仲は感じ入り、深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲は鮑叔の友情に「私を生んだのは父母だが、私を知る者は鮑叔である」と言った。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ。
管仲は斉に入って公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないので、管仲は公子糾と共に魯に逃れた。国内の反対派に襄公が殺されると同じように国外に逃れていた鮑叔・小白との争いになった。管仲は小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から矢を射て、小白の腹に命中させた。矢には毒が塗ってあったので小白を殺したと喜び勇んだが、実際には腰巻の止め具に当たっており、小白は無事であった。またこの時とっさに小白が死んだ振りをしたために管仲は小白が死んだと思い込み、その事を知らず、魯から悠々と斉に戻ってきた糾の一行は急いで斉に入った小白の軍に蹴散らされて、魯に逃げ込んだ。
[編集] 覇者の宰相
その後、鮑叔の推薦により許されて、一躍小白こと桓公の宰相となった。桓公は糾を助けた魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印のときに魯の将軍曹沫は自らの敗戦を償おうと、桓公の首に匕首を突きつけて領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、終わった後に怒って領地は返さないと言ったが、管仲は例え脅迫の結果であろうとも一度約束した事を破って諸侯の間での信望を失ってはいけない。と説いて領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。
管仲は内政改革にも当たり、周代初期以来の古い制度である公田法を廃止し、斉の領土を21郷に分けてきめ細かい政治が行えるようにした。五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせ、物価安定策、斉の地理を利用した塩・魚による利益などによって農民層の生活を安定させ、他国から流れ込んでくる人材を積極的に登用した。
これらの政策により大幅に増加した国力を背景に桓公は覇者への道に乗り出した。周王室内部の紛争を治め、南から北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。この功績により桓公は周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。
後世に管仲の著書とされている『管子』の中の有名な言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」の言葉がある。まず民生の安定があってこそ政治が行えると言う考えだが、かと言って管仲が礼節を無視したわけではない。桓公の命令で周王室の内紛を鎮めた時に、喜んだ周王は管仲を賞して上卿にしようとしたが、管仲は「私は陪臣でしかないのでそのような待遇は受けられません」とあくまで固辞した。曹沫の一件も同じ理由からで何より言行一致と信用を重んじたのである。
紀元前645年に死去する。管仲死後の桓公はまったくだらしなくなり、管仲が近くに寄せては駄目だと遺言した三人の奸臣(=三貴、開方(姫開方、啓方とも。衛の公子で母国から離反)・易牙(料理人。己の出世のために息子を殺害し、食肉にして桓公に献上した)・竪刁(宦官))を近づけるようになり、桓公の死後に激しい後継争いが起こり桓公の死骸が埋葬されず腐敗し放置される有様であった。そして管仲が引き寄せた斉の覇権は晋の文公に移ってしまった。