フローレンス・フォスター・ジェンキンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
フローレンス・フォスター・ジェンキンス(Florence Foster Jenkins、1868年 - 1944年11月26日)は、米国のソプラノ歌手で、その歌唱能力の完璧な欠如で名高い。
ペンシルベニア州で生まれたフローレンス・フォスターは、幼い頃から音楽教育を受け、音楽留学の望みを持っていた。しかし父親が費用の支出を拒んだので、彼女は医師で後に彼女の夫となったフランク・ソーントン・ジェンキンスとフィラデルフィアに駆け落ちした(夫とは1902年に離婚した)。彼女はそこでピアノ教師をして生活していたが、1909年に父親が亡くなると、両親と前夫から反対されていた歌手への道を歩むために十分な遺産を相続する。そこで彼女はフィラデルフィアで音楽生活をはじめた。ヴェルディ・クラブを創立して基金を積み立て、歌唱のレッスンを受け、初めてのリサイタルを1912年に開いた。
彼女の演奏したレコードを聴くと、ジェンキンスは音程とリズムに関する感性が殆ど無く、極めて限られた声域しか持たず、一音たりとも持続的に発声できないことが明らかである。伴奏者が彼女の歌うテンポの変化と拍節の間違いを補って追随しているのが聴かれる。それにも関わらず、彼女はその型破りな歌いぶりで大変な人気を博した。聴衆が愛したのは明らかに音楽的能力でなく、彼女の提供した楽しみであった。音楽批評家たちは、しばしば彼女の演奏を皮肉まじりに説明し、それがかえって大衆の好奇心を煽る結果となった。
音楽的才能が全く無かったにも関わらず、ジェンキンスは自分が偉大な音楽家だと固く信じていた。彼女は自分を名高いソプラノ歌手フリーダ・ヘンペルやルイーザ・テトラツィーニに比肩しうると考え、自分の演奏中にしばしば聴衆が笑い出すのを、ライバルが職業的な競争心からやらせているのだと思い込んだ。しかし、彼女は批判に気付いており、「皆さん私が歌えないとおっしゃいますが、私が歌わなかったといった人はいませんわ」などと述べた。
ジェンキンスがリサイタルで立向かった音楽はモーツァルトやヴェルディ、R.シュトラウスなどの一般的なオペラのレパートリー(そのどれもが彼女の演奏技術を大きく上回る)、ブラームスの作品やホアキン・バルベルデの『カーネーション』(お気に入りのアンコール曲)などの歌曲に加え、彼女と伴奏者(Cosme McMoon)が自ら作詞作曲した歌曲などを交えたものであった。彼女はしばしば衣装にも凝り、時には翼のついた金ぴか衣装をまとって現れた。そして『カーネーション』を歌うときには扇をはためかせ、髪に挿した大量の花を見せびらかしながら聴衆に花を投げたものである。
聴衆はもっと多く出演を望んだが、ジェンキンスは少数の気に入った会場でたまにしか演じないようにしていた。そして、彼女はニューヨーク市のリッツ・カールトンホテルの舞踏会場で年ごとのリサイタルを開いた。彼女のリサイタルに出席できたのは、彼女の忠実なファンクラブの婦人とその他特に選ばれた人々だけであった。彼女は羨望の種であった切符を自ら配布していたのである。1944年10月25日、76歳の彼女はついに公衆の希望に応じてカーネギー・ホールの舞台に立った。演奏の期待が高かったため切符は公演の何週間も前に売り切れた。ジェンキンスが亡くなったのはその1ヵ月後のことである。
ジェンキンスの32年のキャリアは、大衆むけの手の込んだジョークであるという説がある一方、彼女はカーネギー・ホールでの演奏を批評家から物笑いの種にされたために死んだのだという、これと対立する説もある。しかしながら、どちらの説にも殆ど証拠は無い。あらゆる状況から、フローレンス・フォスター・ジェンキンスは彼女の芸術家生活全体に満ちた充実感を確信して、幸せに無くなったことがうかがわれる。
ジェンキンスのレコードは2種類のコンパクト・ディスクで発売されている。『人間の声の栄光(????)』(RCAビクター。なお????はタイトルの一部である。)と『ハイ-Cの殺人者』(ナクソス。「キング・オブ・ハイ-C」の捩り)である。2001年、クリス・バランスによるジェンキンスを扱った演劇がエディンバラ演劇祭で上演された。