フルコンタクト空手
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フルコンタクト空手(フルコンタクトからて)は、直接打撃制ルールを組手試合で採用する空手のスタイルおよびその流派のこと。伝統派空手で一般に採用されている寸止めやライトコンタクトの試合規則からは区別される。狭義には、極真会館に代表される防具なしの直接打撃制空手を指し、広義にはグローブ空手および防具空手を含む。
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[編集] 歴史
フルコンタクト空手は一般に伝統派空手から派生した空手の亜流のように理解されているが、フルコンタクト空手で採用されている直接打撃制ルール自体は、寸止めルールよりも遙かに古い歴史をもつ。
[編集] 沖縄時代
沖縄では琉球王国時代から、那覇の遊郭・辻町で掛け試し(琉球語:カキダミシ)と呼ばれる野試合が行われていた。掛け試しはしばしば辻斬りのように解説され、実際そのような問答無用の勝負も確かにあったが、一般には立会人をともない、ルールに則ったフルコンタクトもしくはライトコンタクトによる組手試合であった[1]。日が暮れると、提灯を掲げて試合を行い、ある程度勝負がつくと立会人が試合を中止させた。試合後は講評を行い、それぞれの技や熟練度について、立会人も含めてお互いにアドバイスをしたのである。掛け試しの実践者は無敗を誇った本部朝基が有名だが、屋部憲通、喜屋武朝徳、摩文仁賢和など当時の大家の多くも掛け試しを行って、組手技術の向上を目指していたのである。
[編集] 戦前
空手が本土に伝えられた時、この伝統はいったん途切れるが、これは船越義珍が自由組手や組手試合を否定したことが直接の原因である。船越が空手の試合化を否定した動機は不明だが、初期の高弟であった大塚博紀(和道流)や小西康裕(神道自然流)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はほとんど知らなかったという[2]。このため、初期の本土空手は型の稽古が中心で、組手はほとんど行われていなかったのである。
しかし、日本武術では当時すでに柔道や剣道などで試合が行われており、空手に試合がないというのは、本土の空手修業者にとっては理解しがたいことであった。このため、昭和2年(1927年)、東京帝国大学の唐手研究会が独自に防具空手を考案し、空手の試合を行うようになった。これを主導したのは坊秀男(後の和道会会長・大蔵大臣)らであったが[3]、これに激怒した船越は昭和4年(1929年)、東大師範を辞任する事態にまで発展した。この後数年間、東大は師範のいない暗黒時代が続き、この時いったん空手の試合化の芽は絶たれたのである。本土ではほかに、摩文仁賢和や山口剛玄(剛柔会)なども独自に防具空手を研究していたが、制度として定着するまでには至らなかったようである。いずれにしろ、戦前の空手家たちが目指したのは、防具着用による直接打撃制空手であった。
[編集] 戦後
戦後、防具空手は九段下にあった練武会の前身・韓武館(館長・尹曦炳(インギヘイ))で復活する。昭和21年(1946年)には、早くも韓武館で防具組手の大会が開催された。この時、防具は剣道の防具が用いられた。これは当時、武道禁止令によって剣道が禁止されていたため、剣道の防具が余っていたからである。韓武館の防具空手を主導したのは、戦後の空手言論界をリードした金城裕(当時、副館長)であった。この韓武館には大山倍達もよく顔を出して巻藁などを突いていたが、この時、大山は防具空手にあまり関心を示さなかったと言われる[4]。
一方、韓武館の防具空手とは別に、グローブ着用による直接打撃制の空手試合の実現を目指す空手家がいた。本部朝基の高弟で、日本拳法空手道の開祖・山田辰雄である。山田は昭和30年(1955年)頃からグローブ着用による組手の稽古を始め、アマチュアボクシングの試合にも門弟を参加させていた。また、これより前の昭和26年(1951年)頃から、大山倍達や森良之佑(日本拳法)らも出稽古に訪れ、山田の実戦空手を吸収していった[5]。
昭和34年(1959年)11月、山田は新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」の構想を明らかにし、フルコンタクトによる空手の試合化実現を目指すと発表した。また、この頃、ムエタイの選手を招聘して、ムエタイの研究も始めた。また、後にキックボクシングを誕生させる野口修とも、この頃親交を結んでいる。昭和37年(1962年)、山田は後楽園ホールにて、第一回空手競技会を開催した。これは、のちのフルコンタクト空手誕生につながる画期的な試みであったが、当時の空手界からは黙殺され、新聞記事でも酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わり、昭和42年(1967年)、山田は志半ばで死去する。しかし、山田のまいた種は、一方は野口修によるキックボクシングの誕生、他方は大山倍達によるフルコンタクト空手の誕生へと受け継がれていくことになる。
[編集] 極真カラテの誕生
大山倍達が始めたフルコンタクト空手は、しばしば空手界からは異端視され、また本人もそのような受け取られ方をある種肯定していた側面はあるが、実際にはその起源は大山倍達が所属していた剛柔流にある。山口剛玄や曺寧柱らが率いた本土の剛柔流は、戦前から独自に「チョッパー」と呼ばれる防具空手を、戦後は「当て止め」というライトコンタクト空手を実践していた[6]。剛柔流は後に寸止めルールに移行するが、大山が学んでいた頃の剛柔流は、防具空手もしくはライトコンタクトによる空手だったのである。
大山はその後、山田辰雄や森良之佑との親交を通じて、ますます直接打撃制空手の実現へと傾斜していくが、そもそも彼の空手修業の出発点からして、「当てる空手」は当たり前だったのである。大山は昭和31年(1956年)、東京池袋に大山道場を開設した。当初は剛柔流所属であったが、この当時からすでにフルコンタクトによる組手練習を行っていた。後にルール上の対立から袂を分かち、昭和39年(1964年)、大山は正式に国際空手道連盟極真会館を立ち上げる。昭和44年(1969年)9月には、直接打撃制による第一回の全日本選手権を開催した。
発足当初は町道場規模であったが、昭和46年(1971年)から大山を主人公にした漫画「空手バカ一代」の連載が始まると、爆発的なブームが起こり、極真会館は急成長を遂げていく。極真カラテの成功は、漫画人気によるところが大であるが、それ以外にも大山の精力的な執筆活動、メディアを通じての宣伝など、実戦空手家の系譜としては異例の優れた商業主義的感覚に負うところが大きかった。こうして、戦前から再三挫折を余儀なくされてきた直接打撃制空手は、極真会館がはじめて定着させることに成功し、社会的認知を得たのである。
[編集] 流派
フルコンタクト空手と呼ばれるスタイル、流派には以下のようなものがある。
- 極真会館に代表される直接打撃制空手。素手、素面で顔面以外の部位への突き、蹴りを決めてそのダメージにより勝敗を決する。投げ技、掴み技は基本的にないが、流派によっては認めているところもある。極真会館、新極真会及びその分派である正道会館、芦原会館、極真館、士道館、佐藤塾、国際大山空手、誠道塾、円心会館、勇志会、広心会、および少林寺拳法の流れを汲む白蓮会館などが主な流派である。
- アメリカで、伝統派空手、ボクシング、テコンドーをもとに作り出された格闘技。パンチ、キックで攻撃するが、ローキック、膝蹴り、首相撲は行わない。テコンドーのような回転技を多く使う。マーシャルアーツ、アメリカンカラテ、アメリカンキックボクシングとも言う。
流派によっては、「空手」と称しながらも、手技はボクシング、足技はキックボクシングの影響を強く受けているところもあり、沖縄伝来の「空手」の技は基本や型の中でしか見られず、それらはあまり重要視されないため、古流空手や伝統派空手に見られるようなスタイルとは、大きく違うスタイルに変わってしまった流派もある。
[編集] 脚注
- ↑ 摩文仁賢和・仲宗根源和『攻防拳法・空手道入門』収録の摩文仁賢榮「空手道入門・解題」213頁参照。
- ↑ 『空手道』収録の寄稿文、大塚博紀「明正塾前後」の55頁、ならびに小西康裕「琉球唐手術の先達者」の58、59頁を参照。
- ↑ 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』147頁参照。
- ↑ 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』収録の金城裕「解説『拳法概説』復刻をめぐって」265頁参照。
- ↑ 『フルコンタクトKARATE』1994年5月号収録の「孤高の達人・山田辰雄と日本拳法空手道」27頁参照。
- ↑ 小島一志・塚本佳子『大山倍達正伝』366、534頁参照。
[編集] 参考文献
- 摩文仁賢和・仲宗根源和『空手道入門―攻防拳法』(復刻版・普及版)榕樹社 2006年 ISBN 4898051189
- 『空手道 保存版』創造 1977年
- 儀間真謹・藤原稜三『対談・近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社 1986年 ISBN 4583026064
- 三木二三郎・高田瑞穂『拳法概説』東京帝国大学唐手研究会 1930年。(復刻版)榕樹書林 2002年 ISBN 4947667710
- 『フルコンタクトKARATE』1994年5月号 福昌堂
- 小島一志・塚本佳子『大山倍達正伝』新潮社 2006年 ISBN 4103014512