グリゴリー・セミョーノフ
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グリゴリー・ミハイロヴィチ・セミョーノフ(Семёнов, Григорий Михайлович, 1890年9月13日 - 1946年8月30日)はロシア革命当時ザバイカル・コサックの統領(アタマン)であり、極東三州の独占的利権を確立しようとする日本軍参謀本部によって、反革命勢力の軍事指揮官に擁立された。
[編集] 概要
セミョーノフはザバイカルのコサックを父、モンゴル人を母に、外蒙古で生まれた。
1918年9月、イギリスに擁立されたコルチャークにより、オムスクに全ロシア臨時政府が成立すると、セミョーノフはコルチャークからザバイカルの統治権限を受けるが、両者の戦略や思想の食い違い、英仏軍と日本軍の思惑の相違があり、その反目の深刻さは軍事作戦面での共同までも妨げていた。
彼の粗暴で専制的な素行は、民意による政権樹立を名目とするアメリカにとって、極東から日本の勢力を排除するための口実となり、日本のシベリア出兵継続を危うくさせた。
赤軍に押されてオムスク政府が崩壊する際、500トンとも言われる帝政ロシア中央銀行の金塊の一部を入手して日本の朝鮮銀行に輸送した。続いて列国のシベリア撤退に伴い日本軍の後ろ楯を失い失脚、1921年にウラジオストクを脱出した後上海、アメリカ、日本を転々とする。
1945年8月、大連にいたセミョーノフは赤軍に捕縛され1946年8月モスクワで国家財産略取のかどで絞首刑を執行された。
同将軍に関しては、吉野松夫氏という人物と関わりがあり、「(吉野氏は)元関東軍ハルビン特務機関員で、白系露人工作を担当、チョウル白系開拓団の監督官とも 言うべき形で副村長をしており、セミョーノフ将軍の姪を妻にしていたといわれる。 終戦時にはハルビンでソ連側に逮捕されたが、特務機関員なのにもかかわらずシベリヤ送りにもならずに、 二十一年大連経由で引き上げてきた。もちろん、妻やセミョーノフ将軍が処刑されたことはいうまでもないことである。 その後、露語に巧みなことから日ソ通信社や旧朝連(朝鮮人連盟)に関係、二十七年に 日ソ貿易商社進展実業の通訳として、樺太炭の摘み取りのため樺太へ出張したこともあるという人物である」という記述も見受けられる。三田和夫著「赤い広場―霞ヶ関 山本ワシントン調書」20世紀社 昭和30年 pp.80~81