陳勝
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陳勝(ちんしょう ?-紀元前209年)は秦代末期の反乱指導者。字は渉。劉邦や項羽に先んじて秦に対する反乱を起こし、他の反乱の呼び水となったが秦の討伐軍に攻められて敗死した。後、漢の劉邦に隠王と諡された。
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[編集] 出生から反乱まで
陳勝は若い頃日雇い農夫をしていた。仲間に対して大きなことを言っていたため馬鹿にされたが、陳勝は「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(燕や雀のような小さな鳥にどうして鴻鵠の大志がわかろうか)と意に介さなかった。
紀元前209年、兵士であった陳勝が秦の官吏に命じられて人夫を護送していたところ、途中の道で大雨に遭いどうしても期日に間に合わなくなった。秦の法律では人夫が現場に1日でも遅れた場合、死刑である。追い詰められた陳勝は仲間の呉広とともに指揮官を殺害、軍隊を扇動して反乱を起こした。このとき陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になるのに家柄が必要なわけではない。誰でもそういった顕位に登ることができるのだ)という名言を吐いた。
[編集] 反秦挙兵
陳勝の反乱軍は瞬く間に膨れ上がり、旧楚の首都陳城を占領し、楚を復興したという名目で国号を張楚とし王位に就き、これに応じ地方の将軍や農民らが反乱を起こした。項梁・項羽・劉邦もそのなかの一人であった。
勢いに乗った陳勝は呉広に命じ咸陽に向けて遠征軍を起こす。しかし、この軍は秦の章邯に大敗し、元々農民であった呉広に軍の指揮能力がないと見た田臧がクーデターを起こし呉広を殺害する。陳勝も泣く泣く田臧による呉広殺害を認めた。だが、田臧軍も章邯軍に壊滅させられることとなった。陳勝自身も大軍を率いて章邯と会戦するも大敗を喫し、前208年に形勢が悪化したとみた御者の荘賈に殺された。ちなみに、荘賈はその後元陳勝配下の呂臣によって殺害される。
[編集] 陳勝呉広の乱とは
結局、陳勝呉広の乱は陳勝が王位に就いてから半年で鎮圧されたが、この反乱は項梁・項羽・劉邦に引き継がれることになり、劉邦が中国統一を果たすと陳勝の墓を守るために村が作られた。農民出身の陳勝と呉広が起こした、有史初の農民反乱。失敗に終わったとはいえ反乱の先駆けとなった陳勝と呉広の功績は大きく、後世物事の先駆けを表す言葉として陳勝呉広と言われるようになった。
[編集] 陳勝の末裔について
唐の代表的な僧侶である玄奘(陳偉)は頴川陳氏で陳勝の末裔という。また陳舜臣氏も福建省~台湾の陳氏だが、元を辿れば陳留(頴川)陳氏の末裔であると舜臣氏本人が懐疑している(陳舜臣ライブラリーより参照)。