ノート:邪馬台国
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[編集] 用字について
「邪馬臺国」は確かに旧字です。
ウィキペディアの本来の方針では旧字は使うべきではないとされています。
ただ、以下の3点を理由に、あえて用いてみました。
- 「ウィキペディアの方針」の実際の運用については、議論が継続した状態であると判断した
(Wikipedia:井戸端/臨時分室4をご参照下さい) - 記事名にならない場合、影響は記事内のみに収まると判断した
- 魏志倭人伝において何と表記されているか(「邪馬臺国」の「臺」の字が何という字であるか)については、邪馬台国論議においては避けて通れない
ご意見がありましたらお願いいたします。 - Gombe 06:49 2003年5月19日 (UTC)
- いちばん始めに邪馬臺国を書いた、おがです。古田武彦氏で有名な説で邪馬臺国か邪馬壹国(邪馬壱国)かという話が出てきます。魏志倭人伝も写本だけが残っているということなのですが、そこでの記述は「邪馬壹国(邪馬壱国)」となっており、実は邪馬台国ではなく邪馬壱国であるということを主張している方もいらっしゃるんです。単なる誤字か書き間違いか意識的に文字を変更したのか(臺=台は天の意味があるらしい)わかりませんが....。
なので、この辺りの論争を紹介するには旧字で紹介することも必要になるかと思い、旧字を入れておきました。旧字を使わなければ論争を紹介できるというわけではありませんので、外していただいても構いませんが、みなさんの意見を尊重したいと思います--おが 07:55 2003年5月19日 (UTC)
- 先程書いたことの趣旨は、邪馬台国の台を臺と書くなら、国も國と書くべきではないのかということでした。漢和字典を調べてみて気が付いたのですが、臺は台の旧字というだけではなくて、そもそも台と臺は異なる漢字なんですね。先程はどちらとも異なる漢字を書いてしまって失礼しました(あの漢字を使うと、ブラウザが参ってしまうみたいです。そのためにちょっと遅れてしまいました)。僕は邪馬台国論争には全然詳しくないのですが、おそらく漢字の発音が大変重要な問題なのだと推測します。したがって、百科事典として、この台は臺であるという情報を書くのは大変意味のあることだと思います。そういうわけで、臺という漢字を使うことに対しては僕は賛成です(JISの第2水準にも入っているみたいだし)。しかし、記事の中にそのことを書いてほしいという感想はありますが。
- ここで書くべきことではないかもしれませんが、異体字の使用に関しては、ある程度寛容でもいいと思います。日夏耿之介が日夏こう之介となってしまったら、カルチャーショックだし、「咒文」が「呪文」になってしまうと、本人はおろか彼の読者も決して認めようとはしないでしょう。しかし、旧字でかかれたものにはなにもかも旧字を用いるというのにも反対です。森鴎外では品がなくてもしょうがありません。出でやる 08:17 2003年5月19日 (UTC)
出でやるさんのリクエストに沿って、おがさんの書かれていた説明を記事中に反映しました。:-)
ご意見をお聞かせ下さい。 - Gombe 02:30 2003年5月29日 (UTC)
- Gombeさんありがとうございます。素晴らしいと思います :-)。--おが 06:52 2003年5月29日 (UTC)
おがさんの書かれたお手紙では僕は邪馬台国論争には全然詳しくないのですがとあります、邪馬台国について児島宮の担当が記した記載であり、 信用の是非は宮の存在であるのです、之までほとんどはっきりして、いなかった 歴史は何故なのかにつきるのです。 そこに価値がある事はまだ何方も気がついておられません、現段階では日本人すらはっきり解釈出来る方はまだ見えなかったのも根拠でしょう。だが現在大学や研究者に広く受け入れられるようになった のも、自賛ではなく、事実なのですから、まだ児島宮の実態も判断出来ない方の ご否定は段に残念で御座います。古代天皇の血を受け継ぐ家はあまりありません 然るに、当社は菊紋の本家としてお知らせする次第で御座います。
(↑この部分、2005年2月15日 (火) 20:38 (UTC) に219.162.189.110さんにより追記。以下の「編集内容の論拠の確認 (2004年12月)」の節に関連?) (←Gombeにより註記)
註:210.231.192.67さんによる 2005年8月20日 (土) 09:48(UTC)の編集は、台与の当日最新版から引いて追補したものであると思われますので、こちらにメモっておきます。 - Gombe 2005年8月21日 (日) 17:04 (UTC)
Wikipedia(ウィキペディア)の邪馬台国はうわぺの邪馬台国でしかありません。 それは邪馬台国とはが、うわべだけ、になっているのです。 うわべとは表の邪馬台国でしかありません、これでは日本の歴史もうわべの歴史になってしまっています。 きっと後悔するでしょう。古代史会員
[編集] 邪馬台国に言及した文献について
よく知りませんが、「邪馬台国があったとされる根拠は魏志倭人伝のみに残されている。」も他の部分(や記事「台代」)の記述と比較すると、疑問ですね。邪馬台国の名称は他の書物にもあるんですよね?(これらは証拠とならないという意味?)多分、「位置に関する記述が魏志倭人伝のみ」という話なのかと思ったのですが。 Kozawa 02:42 2003年12月8日 (UTC)
- 当時執筆に加わった者ですが、自分でもいくつかの史料に当たった覚えがあるのですが、よく覚えていません(^^; ご指摘の部分については、「邪馬台国の位置に関する情報を記した史料は魏志倭人伝のみである」とでも書き直す方が、より妥当なんでしょうか。暫定的にはそれで良さそうな気がいたします。
- 北史東夷伝など(台与参照)については調べておきます。
- - Gombe 12:08 2003年12月10日 (UTC)
調査すべき点、メモ:
- 魏志倭人伝以外に邪馬台国について記した史料が、本当はどれだけあるか
- それぞれの史料で、邪馬台国の位置についてどのように書いてあるか
- それぞれの史料で、「邪馬臺国(邪馬台国)」「邪馬壹国(邪馬壱国)」「臺與(台与)」「壹與(壱与)」いずれの表記を使っているか
- Gombe 12:15 2003年12月10日 (UTC)
- 上への回答になりますかどうか、有名どころの史料を…
- 魏志倭人伝 南宋本の紹熙本系百衲本の画像 - 邪馬壹國または邪馬一國(東京静嘉堂文庫所蔵の北宋本を清代に復刻した写本等)・女王國 / 帶方郡の東南大海の中・帶方郡より一萬二千餘里 (帶方郡より狗邪韓国までは七千餘里) / 壹輿または一輿(同前)
- 後漢書倭伝 - 邪馬臺國・倭奴國・倭國・女王國 / 韓の東南大海の中 / -
- 宋書倭国伝 - 倭國 / 高麗の東南大海の中 / -
- 隋書タイ(=にんべん+妥)国伝 (版本の部分) - タイ(=にんべん+妥)國・邪靡堆・邪馬臺・タイ(=にんべん+妥)奴國 / 百濟・新羅の東南 / -
- 梁書諸夷伝 邪馬臺國・倭國 / 帶方より一萬二千餘里 / 臺輿
- 旧唐書倭国伝 - 倭國・倭奴國 / 京師を去ること一萬四千里・新羅東南の大海の中 / -
- - 2005年2月18日 (金) 18:06 (UTC)
魏志倭人伝以外に邪馬台国について記した史料が、本当はどれだけあるか それぞれの史料で、邪馬台国の位置についてどのように書いてあるか それぞれの史料で、「邪馬臺国(邪馬台国)」「邪馬壹国(邪馬壱国)」「臺與(台与)」「壹與(壱与)」いずれの表記を使っているか
①倭人伝以外の資料はたくさんあります 【シュメール神話】に基ずく『山海経』『晋書』『奈良の梨神話』 『桃太郎』『古事記の黄泉の国』日本の神話のすべてに記している これは陰と陽の中心に神が存在している、三角形にある
②謎解きは三角形の秘密が日本人の正体となっている(児島) http://www.progoo.com/rental/img_bbs2/bbs.php?pid=24747 位置に関しては、東夷が倭人の国と記している東北縄文人や殷の民族達 二度目の渡来は秦の始皇帝時除副一団の北部九州入り 伊都の平原と上げているのが真実、ここに王ありとも記してする
③卑弥呼も一族の)」「臺與(台与)」「壹與(壱与)」もこの時は魏の 国の勢力に押された女王とあり、現にこの時は男王は居た訳で、王とは 中国では皇帝を指している、倭国では巫女の王としているだけで、後漢 が滅亡するまでの期間に外国の高祖は女王と、そう呼んでいたのです 天皇や天子に至っては後継者は嫡男が継ぐのがしきたりである 女は王の身内から、選ばれるのがしきたりで、その子が幼少なれば 女親が天皇となるか、又はその身内から選ばれるのがしきたり也 女の産んだ男の嫡男しか天皇になれないのもしきたり、次男は臣也 血族とは女の嫡男が古代から受け継がれていて、以外は天子とはなり得 ないし、仮の天皇にしかならない
詳しくは掲示板にて公開中 http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html http://www.progoo.com/rental/simple_bbs/bbs.php?pid=24509 担当 (児島)
[編集] 編集内容の論拠の確認 (2004年12月~)
おそらく独自の研究結果の発表であるか、異説であるとしても十分な学術的説明が為されていない内容が、IP参加者の方から投稿されていましたので、こちらへ転記しておきます。(邪馬台国 2004年12月1日 (水) 11:11(UTC)における 219.162.194.90氏の編集)
邪馬台国は三世紀後半に存在する、然し卑弥呼は247年までの時期で 倭国と呼ばれる範囲内の伊都国の女王は倭王である。 倭国に始まる国々は卑弥呼以前の王は男が王と中国書物には記され、 100ヨコクあるとしている、卑弥呼は107年に女王になるがまだ倭国 全体を統治してはいない、この時30国と記す。 卑弥呼は戦乱中、それがもとで卑弥呼は亡くなった(247年)と記す。 台与は14歳になるも、女王に代えられ継ぐと記し、一時期間の事であり 直ぐに後代し男王が、中国晋帝に貢献し爵の拝受を受けたのはウガヤであり 妻は玉依姫で、伊都から出雲へ使いを出して、お前の土地(葦原水穂の国)と お前のところに社を建て、吾が土地(奈良の後の三輪山)にお前の神を祀る と交換条件を出し、これに大国主は子の事代主と相談し、あなたの意見に 何の異論もありませんと、語り伊都の王(中国夏王朝系と倭国王系の融合)に より生まれたのがウガヤフキアエズ、という。伊都の倭王ウガヤは妻と共に 大国主の土地に降臨(移る意味)して、中国文献によれば倭は名前がよくない からと、記し安邑(夏王朝の都名)に因み夜須(安)と命名した。 これにより、安は統治が一括し国々はこれに従った。これを邪馬台国という、 邪馬台国は時期が短い期間なので「記紀)には年代を記さず国名だけを記す。 まだ日本全土の統治ではなく夷(殷の時夷人)国(東北)等の統一までは神武東征を待たねばならない。(後半は祝詞参考)
転記は以上です。 - Gombe 2004年12月1日 (水) 11:46 (UTC)
12月1日と同様の記述がIP参加者の方から投稿されてゐましたので、こちらへ転記しておきます。(邪馬台国 2004年12月9日 (木) 08:19(UTC)における 61.207.255.233氏の編集。219.162.194.90と同じアクセスポイントです)
後期267年頃卑弥呼亡き後鵜茅葺合逗尊と玉依姫は伊都国から 高千穂の峰(山の峠、前原日向峠)を越えて、猿田彦が道案内を仕り早良に 出た、この後奴国(筑紫野市)を通り抜けて安国(大国主の土地、後の夜須をいう) に入りこの年安国を祝詞では平らけくと記す。 伊都の倭王から北部九州の統治者となった王は夜須に筑紫城(字松延)を建て、 この地で四人の子供をもうけた。 やがて三男のイワレ彦は父の死にともない墓を造る、名前を(平山稜)とした。 後の文献で『日下部文書』なる古代書によれば、一羽の鷹が舞い降り、水溜りから人の気配に驚き飛び立ったので、墓名を鷲尾と名付けたという。 字松延にも同じ由来が伝承していて、早鷹社がある。 やがてイワレ彦は周りの国の者達を集めて遠賀港から船出した。 この期間は短い期間の為記されていないが、中国は倭王の居る安国を山に囲まれていたので、邪馬台国と後に記した。270年頃までを邪馬台国という。 鵜茅葺合逗尊を祀る社・児島宮
転記は以上です。 nnh 2004年12月9日 (木) 08:40 (UTC)
邪馬台国 2004年12月9日 (木) 08:46(UTC)における 61.207.255.233氏の編集を転記。変な所で文章が切れてゐるので、どこかからの転載の可能性もあります。
邪馬台国の王を祀る日本最初の社、その名は平山大明神から名付けられ、 平山宮という、起源は古く西暦270年創建された。 イワレ彦(後の神武)の城は筑紫城或いは筑紫宮と記録されている。 字松延にあり、神武東征により、松延は権力者がいなくなり、この地に 残った倭族が荒らしまわり、その形は消えてしまう。 やがて300年天皇神功皇后は地元の嘆願書に対し、天皇の土地を荒らす 不届き者がおり、成敗にでかけた、共に忠臣の武内宿根を伴い征伐に船で 出かけ港に着く、香椎から宇美(不彌国)を通り大宰府から山越えし、砥上 山の頂きから昔の話を思い出した、昔この地に筑紫城があるときいた
転記は以上です。nnh 2004年12月9日 (木) 09:23 (UTC)
12月1日と同様の記述は児島宮祭主が担当して記しました。これまでの 邪馬台国論はご指摘のように転載はしていません、著作権も邪馬台国に 関しては所持しており、歴博の諸氏の方にも連絡済でございます。 又柳田康男、西谷正、奥野正男、古田武彦氏にも承諾済です。
(ここまで60.40.217.208さん 2005年1月23日 (日) 09:42 (UTC))
邪馬台国ではなく、倭国が正しい発音である、然るに卑弥呼は倭国(卑人 の国、又は夷国の女王が正解)である。ホームページ掲示板(邪馬台国を 語る掲示板)(豊葦原国から邪馬台国夜須へ)で公開しています。 担当児島宮祭主天皇とはなんぞや・
(ここまで211.129.254.230さん 2005年1月 24日 (月) 00:06 (UTC)
【邪馬台国】 「邪馬台国の時期」と異物
邪馬台国は何時の時期になるのだろうと憶測は飛んでいるが、伊都前原井原遺跡 から三番目の王の墓が発掘されていて、この井原の異物がその墓の人物の時期を 見出す事ができる。それは木棺墓に秘められており、この時期の遺物は北部九州 全体の遺跡に見出せ特に竪穴住居、土壙、土壙墓、甕棺墓、木棺墓、石蓋土壙墓、箱式石棺墓、落し穴 主な遺物 弥生土器、土師器、須恵器焼塩、壷、鉄鏃、土錘、石製紡錘車、小形?製鏡、石包丁、石剣、刀子 等が特徴のようです。 これは倭国末頃から邪馬台国の間に見られる痕跡です。 方格規矩鏡(ほうかくきくきょう) 縁は平縁、鈕は半球形のもので、 規矩文の間に、玄武・白虎・青龍・朱雀の四神を配したものを 方格規矩四神鏡といいます。 福岡県井原遺跡、同県須玖遺跡、同県平原遺跡、夜須町鬼神山遺跡、 長崎県壱岐の 加良香美貝塚から伊佐座式といわれる土器に伴うことから、 弥生時代後期に位置し。方格規矩鏡には、さらに規矩文の間に霊獣 ・鳥文・過文などを入れた鳥文鏡や過文鏡などがあります。 ー韓・楽浪郡と交易した(原の辻貿易)ー 井原塚廻(いわらつかまわり)遺跡,初期須恵器段階の陶質・軟質の鳥足紋土器が出土している。 公開された方格規矩四神鏡は、中国・後漢製で直径十九センチ。一部は散逸していたが、四神の朱雀(すざく)や玄武の模様が確認され、両面に赤色顔料の朱が施されていた。弥生時代後期(一―二世紀)の遺構から出土。当時の権力者が所有していたとみられ、装飾用ガラス玉約百七十個とともに出土した。 楽浪土器は朝鮮国でき公孫氏が王の時頃になる。(武王からこの後始末された) 楽浪郡と帯方郡の消滅後に伊都の王は爵を皇帝から拝し邪馬台国へと時代はなる。 【児島宮刊行会著作】 掲載に関しては許可が必要ですが、児島宮と記されれば不要です。
(↑この部分、2005年2月19日 (土) 09:32 (UTC) に221.190.117.151さんにより追記) (←Gombeにより註記)
[編集] 位置についてのノート
本文に「魏志倭人伝に書かれている方角表記や距離表記をそのとおりにたどると、日本列島のはるか南方の海中になってしまう」とある。 しかし、 魏志倭人伝には、
- 帯方郡より一万二千里余り
- 帯方郡より狗邪韓国までは七千里余り
と記載されている。 すなわち、 狗邪韓国から魏志倭人伝にいう邪馬壹国までは五千里ほどということになる。
帯方郡-狗邪韓国が韓半島内のことであり、 狗邪韓国が韓半島南岸付近であるとするならば。 帯方郡-狗邪韓国間の距離より短い五千里ほどで、 韓半島南岸から九州を通り越して「日本列島のはるか南方の海中」に到達するのは無理があるであろう。
※ 帯方郡が、 瀋陽や長春あるいはそれよりも遠方にあったとするなら、 別ですが。
また、 一里は 430m よりも遥かに短い距離を指していることとなる。
※ 一里 = 430m で計算してしまうと、 七千里≒3000km となり、 帯方郡はロシアにあったことになってしまいます。
- 2005年2月20日 (日) 11:35 (UTC)
[編集] 日本語読み
「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれているが、これは伝写の誤りまたは字の書き換えで、「邪馬臺國」(日本語読み「やまたいこく」)が正しいとされており、これが学界の定説となっている。
上記の証明はどのようにされたのでしょう?私の知る限りではありませんが。--202.157.10.22 2006年9月26日 (火) 05:16 (UTC)
[編集] 邪馬台国の位地
銅鐸による説があります。銅鐸のページへ
簡単に説明しますと、弥生時代頃に遡る銅鐸の文化は、邪馬台国に在ったのでしょうか? かの有名な魏志倭人伝にもその記述がありませんよね。
そこで、やはり鏡の国、邪馬台国は九州地方に在ったんじゃないでしょうか?
また、近畿には、銅鐸文化を持った王族があって、結局、鏡の勢力が勝った。 日ノ本の国の建国神話に似ていますがね・・・でも実際、中国の殷は存在してたんですから。信じたくもなります。
銅鐸自身が、未だ不明なので、辻褄の合う仮説に過ぎませんが・・・燈之守刹那 23:06 2006年11月20日 (UTC)