行司
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行司(ぎょうじ)とは、相撲において、取組の有利・不利を判断し、勝者を判定する役目の者である。
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[編集] 概説
行司は勝負が決まった段階で、どちら側が勝ったかを軍配によって示さなければならない。力士同様各相撲部屋に所属する。
大相撲においては、取組中にも掛け声をかける、はずれたさがりを土俵の外にのける、観戦の邪魔にならないように移動する、緩んだ廻しを締め直す、水入りの場合に両者の立ち位置や組み手などを決めるなど、様々なことをこなさなければならない。
行司の判定に対して勝負審判などが異議を申し立てた場合には、物言いとなり、協議がなされる。
行司にはほかにも番付を書く、決まり手をアナウンスするなどの仕事がある。
上下の差が顕著な相撲界においては行司も例外ではなく、裁く階級によって行司の装束も大きく変わる。行司の定員は45人、定年は65歳。
最高格である立行司は、かならず短刀を差している。昔、行司が軍配を差し違えてしまった場合、切腹するという規則があったからである。しかし実際に切腹した行司はいない。現在、切腹することはなく(ただし、進退伺いを出すのが慣例)、古来からの習わしとして装着している。
[編集] 役割
行司は、大相撲の進行および勝負の判定を行う審判としての役目が目立つが、他にもさまざまな役割がある。本場所では、十両土俵入り、幕内土俵入り、横綱土俵入りの誘導役を務めたり、顔触れ言上(かおぶれごんじょう)と呼ばれる明日の取り組みを土俵上で読み上げたり、取り組みの決まり手を場内アナウンスしたり、取り組みの決まり手及び勝敗結果の記録などの仕事に携わる。
また、根岸流と呼ばれる独特の相撲文字で隙間がないようにして番付表を記載する。これは満員御礼になるように客がびっしりと入るようにとの願いを込めて、書かれるものである。さらに、審判部の指示に基づいて番付編成や取り組み編成の補佐をする。巡業においては、交通機関や宿泊先の手配、部屋割りなど先乗り親方の補佐をする。所属している部屋においては、番付の発送、冠婚葬祭の仕切り、人別帳の作成などの仕事に携わる。本場所、地方巡業、各相撲部屋の土俵開きにおいては、土俵の安泰を願って司祭を務める。本場所の司祭は、立行司の木村庄之助、式守伊之助が交互に担当する。
[編集] 階級と装束
階級 | 房色・菊綴 | 履物 | 装束 |
---|---|---|---|
立行司(木村庄之助) | 総紫 | 白足袋、草履 | 夏用は麻薄地・冬用は絹厚地、短刀、印籠 |
立行司(式守伊之助) | 紫白 | 白足袋、草履 | 夏用は麻薄地・冬用は絹厚地、短刀、印籠 |
三役格行司 | 朱 | 白足袋、草履 | 夏用は麻薄地・冬用は絹厚地、印籠 |
幕内格行司 | 紅白 | 白足袋 | 夏用は麻薄地・冬用は絹厚地 |
十両格行司 | 青白 | 白足袋 | 夏用は麻薄地・冬用は絹厚地 |
幕下格行司 | 黒または青 | 素足 | 木綿地 |
三段目格行司 | 黒または青 | 素足 | 木綿地 |
序二段格行司 | 黒または青 | 素足 | 木綿地 |
序ノ口格行司 | 黒または青 | 素足 | 木綿地 |
行司の階級の昇降は原則年1回で、9月場所後に開催される番付編成会議で審議した後に理事会において決定し、翌年1月より適用される。行司の定員は規定により45名以内、十両格以上の定員は22名以内と定められている。立行司を除いて、それぞれの格の行司を何名にするかは特に規定されていない。
行司の昇格・降格は必ずしも年功序列ではなく、土俵上の態度、裁きの良否、かけ声・声音、指導能力などが加味され、成績優秀であれば先輩の行司を飛び越して昇進することもある。降格規定もあり、幕下格行司および十両格行司は年9回以上、幕内格行司および三役格行司は年6回以上差し違いをすると、一枚降格の処分となる。ただし一場所で3回以上差し違いをした場合は、無条件で一枚降格処分となるのが原則だが最近は余り厳格ではない。
こうした行司の成績考課は本場所、巡業ごとに、審判部長、審判副部長、巡業部長、指導普及部長、監事によって行われ、理事会に成績考課表が提出される。ただし特別な失態がない限り、ワンランクずつ昇格するのが慣例となっている。なお、立行司に関しては成績考課から除外され、自己の責任においてその進退が委ねられている。
行司の番付は力士の番付とは独立しているので、幕内格行司であっても十両の取組を裁いたり、十両格行司であっても幕下の取組を裁くことはある。力士同様、十両格と幕下格以下は明確に待遇に差がつけられており、本場所では幕下格の行司に替わって、十両格の行司が土俵に上がると幕下の取組であっても土俵の照明が明るくなる。
[編集] 呼び上げ
[編集] 取り組み
「琴××に○○山」というように、四股名の間に「に」をつけて一声で呼び上げる。三役以上の取り組み、中入り前の一番、十両最後の一番では四股名の前に「かたや」「こなた」をつけて二声で呼び上げる。すなわち、「かたや琴××、琴××、こなた○○山、○○山」となる。三役以上の取り組みでは、一方が平幕でも二声で呼び上げる。中入り前の一番では、二声の後に「この相撲一番にて、中入りでございます」と呼び上げる。
[編集] 結びの一番
「番数も取り進みましたるところ、かたや朝青龍、朝青龍、こなた白鵬、白鵬、この相撲一番にて、本日の打ち止め」と呼び上げる。千秋楽の場合には、最後のところが「この相撲一番にて、千秋楽」となる。天覧相撲の場合には、「この相撲一番にて、本日の結び」となる。
[編集] 出世披露
新弟子が前相撲を取り、そこで成績優秀な場合に翌場所から序ノ口に番付が掲載され、そのお披露目が行われる。この儀式は新序出世披露と呼ばれ、中日(なかび)の三段目取り組みの途中に行われ、幕下格行司が口上を呼び上げる。
「これに控えおります力士儀にござります。ただ今までは番付外に取らせおきましたるところ、当場所、日々成績優秀につき、本日より番付面に差し加えおきまするあいだ、以後相変わらず、ご贔屓、お引き立てのほど、ひとえに願い上げ奉ります」と呼び上げる。
[編集] 顔触れ言上
幕内以上の翌日の取り組みを一番ずつ一枚の和紙に相撲文字で書き、明日の取り組みを土俵上で披露する。この儀式は顔触れ言上(かおぶれごんじょう)と呼ばれ、横綱土俵入りの後、中入り取り組みの前に行われ、三役格行司が口上を呼び上げる。
「はばかりながら、明日の取り組みをご披露つまかります、琴××に○○山、朝△△に□□里、…(中略)…、右、相つとめまするあいだ、明日もにぎにぎしく、ご来場をお待ち申し上げます」と呼び上げる。
[編集] 掛け声
行司の掛け声の中で最も特徴的なのが、「はっきよい、残った、残った」である。「はっきよい」とは、力士が動かない場合の掛け声であり発揮揚揚を意味している。「残った」とは、力士が技をかけている場合の掛け声であり頑張って残れを意味している。
- 時間制限前:「かまえて」「見合うて」「油断なく」など
- 時間制限後:「時間です」
- 立会い:「待ったなし」「手をついて」「腰を下ろして」など
- 立会い不充分:「まだまだ」「待った」
- 勝負中:「はっきよい」「残った」
- 廻し不充分:「まわし、待った」
[編集] 行司家と行司名
江戸時代までは、木村家と式守家以外に岩井家、木瀬家、長瀬家、服部家、吉岡司家、吉田司家などが存在したが、現在では木村家と式守家だけが残っている。行司は各相撲部屋に所属しているため、一門や部屋ごとでそこに属する行司が木村家か式守家であるか決まっている。そのため入門した時点で、木村家を名乗るか式守家を名乗るかは事実上決定している。
なお入門時に木村(式守)家を名乗った場合、途中から式守(木村)家を名乗ることも可能である。しかし伝統を重んじる角界では、改名することを慣例的に行わない。入門するとまず自分の本名を名乗ることが多いが、経験を積んでいくにつれて先輩の行司名や以下にあげるような由緒ある行司名を名乗って三役格まで進み、立行司の伊之助、庄之助へと昇進していく。
[編集] 主要な由緒ある行司名
[編集] 行司をめぐる主な出来事
- 1791年(寛政3年)6月11日征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲の際、町奉行池田筑後守から吉田司家は認められなかったが、6月10日になって老中戸田采女正から行司を命じられ、一晩で土俵を作った。
- 1827年(文政10年)吉田司家は江戸幕府により「江戸相撲方取締」という役を認められた。
- 1927年 - 大阪相撲との合併で大阪相撲の立行司・木村玉之助が加わり立行司は3人になる。
- 1951年 - 副立行司を新設、木村玉之助は副立行司に降格。
- 1958年 - 各部屋に所属していた行司は「行司部屋」として独自の部屋に所属となる。
- 1960年 - 行司定年制実施、行司の年寄襲名も不可能になる。副立行司を廃止。
- 1971年 - 25代木村庄之助以下行司全員が初のストライキを起こす。12月25日には協会に所属する行司30人が辞表を提出した。直後の1972年初場所で差し違いした25代庄之助は出場停止となるが、3月に定年を待たずして退職した。
- 1973年 - 行司部屋が廃止され、再び各相撲部屋の所属になる。
- 1993年 - 28代木村庄之助、27代式守伊之助が相次いで定年退職し、史上初の立行司不在となる。結びの一番を三役格の3人が交互で担当し伊之助を争った結果、式守錦太夫が昇格(後の29代庄之助)。