藺相如
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藺相如(りんしょうじょ、生没年不詳)は、中国の戦国時代の末期に趙の恵文王に仕えた名臣。「完璧」や「刎頚の交わり」の故事のもととなった人物としても有名である。
目次 |
[編集] 概略・経歴
『史記』の「廉頗・藺相如列伝」によると、もとは恵文王の宦官繆賢の客人であった。
[編集] 完璧
趙の宝物「和氏の璧」を巡り、秦が自国の十五城との交換を申し出てきた。条件としては悪くないが、秦に交換する気はおそらくなく、ただ単に宝物が欲しいだけの可能性が高い。かといって相手は強国秦、無碍に断れば侵攻の口実を作る。更に交渉に出向くことは虎穴に入るようなことで、誰も使者へ名乗り出なかった。そこで繆賢が恵文王に自らの客人に藺相如という知勇兼備の才が居りますと申し出、恵文王は藺にこの国難にあたりいかにするべきか問うた。藺は、まず話は受けることで何かあった際の責任は秦にあるようにし、使者が居ないのなら私自ら秦に出向き、城を受け取れなければ壁を必ず持ち帰る(「璧を完うして帰る」完璧の言葉の由来)と申し出、交渉役に抜擢された。そして秦都へ入り、秦王に城を渡す気が無いと見るや、見せていた壁を奪い叩き割るぞと言い、秦王に宝物を持つ際の儀として身を清めさせる。この間に従者に璧を持ち帰らせる一方自らは残り、時間を稼ぐ。後にこれを申し出るが秦王も「(死罪に値するが)殺しても何も得られず、趙の恨みを買うだけである」とこれを許し、璧も城も渡さないということで収まり、藺も無事帰国した。秦相手に一歩も退かず、趙の面子も保ったのである。その後も繩池(べんち)の会など外交面で活躍し、秦に趙を侮らせなかった。
[編集] 刎頚の交わり
その後これらの功績により上卿(大臣クラス)に任命されたが、将軍廉頗が彼の異例の出世を妬み、誰彼構わず藺への不満を言い続けた。特に叩き上げの軍人であるにとっては、弁舌だけで自分と同格になったことが特に気に入らなかったのである。藺はこれに耐え、廉頗と会わぬように病気と称して屋敷に篭り、車で出た際に道で偶然会いそうになったら自ら脇に隠れた。 その日、藺の従者一堂から折り入って話があると言われた。主人の行われたことはそこらの人でも恥とすることであり、最早仕えることは出来ないというのである。 これを聞いた藺は「お前達、秦王と廉頗将軍ではどちらが恐ろしいか」と聞いた。従者達は「勿論秦王です」と言い、藺は「その秦王に渡り合った私が廉頗将軍を恐れる訳がない。私が恐れるのは趙の臣の仲が割れることだ」と答えた。 廉頗は国に不可欠な人材であり、趙の亀裂は強国秦に征される隙を与えるだけ。国の安定のために自らの面子を犠牲にしたのである。それを聞いた従者達は、その深い思慮と器量に頭を下げた。
その話を人づてに聞いた廉頗は心打たれ、藺の前に肌脱ぎ座して茨の鞭を差し出し「この鞭で好きなだけ打ってください。貴方に今まで与えた屈辱を考えれば、それでも足りない」と謝罪を請い、藺も「何を仰られますか、貴方が趙に居るから秦は手出しを出来ないのです」と快くこれを許した。さらに二人は「お互いのために首をはねられても悔いはない」とする誓いを結んだ。これが「刎頚の交わり」の故事の由来である。
[編集] その後
藺相如と廉頗が健在の間は秦は趙を攻めなかった。両名は軍事と政治の正しく車の両輪であり、その才と絆の強固さに手出しが出来なかったのである。しかし長い年月が経ち、藺相如が病に倒れ廉頗も老い、恵文王から孝成王の代へ変わった後に、秦は白起将軍に趙侵攻を命じる。趙は廉頗を総大将として迎撃に出、長平の戦いが起きる。ここで老将廉頗は兵力に劣るものの強い秦軍を見て、篭城戦に切り替えた。相手は遠征軍であり、長引かせるだけで有利となるからである。城を出ろと挑発する秦軍だったが廉頗は全く動じなかった。これに手を焼いた秦軍だったが、孝成王を策にかけ、趙の総大将を名声高いものの実戦経験の無い趙括に変えさせるようにした。藺はこの話を聞くや病の体を押し、孝成王に対し廉頗の解任を止めさせるよう進言した。だが結局聞き入られず、趙軍の総大将は交代する。そして趙括は敵の挑発に乗り城を出、名将白起に戦術の裏を悉く取られ散々に打ち破られて、趙括を含む45万人もの兵士を失うこととなった。慌てて趙王は領土を割譲することで和議を結ぶ。その後藺相如は病死した。また廉頗はその後、魏と楚へ亡命することになった。そして大量の兵力を失った趙は弱体化し連年秦に侵攻され、幾度か耐えるがついに破れることになる。