東宝争議
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東宝争議(とうほうそうぎ)は、1948年(昭和23年)に日本の大手映画製作会社「東宝」で発生した労働争議。警察およびアメリカ軍の介入によって解決されたが、一労働運動に軍が介入したことが後に波紋を広げた。
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[編集] 事件概要
[編集] 背景
東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、1945年(昭和20)12月に東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議にも加盟し、会議の申し合わせなどによってストライキを繰り返した。もともとが他の映画制作会社よりも開放的な社風だったこともあって(今井正や山本薩夫など共産党員が戦争中から所属していた。)、労働運動は一挙に盛り上がり、5600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。
しかし、頻発するストによって映画制作はままならず、1946年(昭和21)の製作本数は18本で他社の半数までに落ち、嫌気が差した大河内伝次郎や長谷川一夫、原節子といった東宝の看板スター俳優10名と渡辺邦男監督などが組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱して、これらの人々は新東宝を設立した。
東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用した。
[編集] 紛争勃発
1947年(昭和22)12月、GHQ/SCAPは東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。新社長に就任した元東大教授の渡辺鉄蔵(法学博士)は、「反共の闘士」として有名な人物で、従組との対決姿勢を明確にしていた。
1948年(昭和23)4月8日、会社は人員整理のため1200名の解雇計画を発表した。従組は激しく反発し、4月15日にカメラや資材を従組の管理下においてボイコット、砧(きぬた)撮影所を占拠し、正面入口にバリケードを作って立てこもった。
5月1日、メーデーの日に会社は休業を宣言した。従組は東京地方裁判所に会社の営業再開を求める仮処分を申請したが、会社側も占有解除を求める仮処分を申請し対抗した。
8月13日、東京地裁は会社の申請を認め、占有解除の仮処分執行を決定した。翌8月14日に裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、従組800名が立て篭もって入場を拒否した。
8月19日午前8時30分、警視庁は仮処分の執行援助の為に2000名の警官隊を出動させ、砧を包囲した。しかし、すでに米軍がGHQの指令で動いており、カービンで武装したMPがジープ6台に分乗して、警官隊の到着前に砧に集結していた。続いて歩兵一個中隊、装甲車6台、戦車3台が大げさに出陣し、撮影所の周辺を取り囲んだ。さらに、上空には米軍航空機が3機編隊で飛び回っていたが、これには第8軍第1騎兵師団司令官のチェイスが同乗し、空中から作戦を指揮していた。これ故“来なかったのは軍艦だけ”とまで評されている。
午前9時30分、執行吏と会社側代理人の弁護士が従組に退去を要請した。軍に包囲された以上、力での抵抗は不可能と悟った従組は、職員会議を開いて仮処分の受け入れを決定した。午前11時過ぎ、組合員は互いに腕を組み、インターナショナルの歌を歌いながら撮影所を退去したが、五所平之助監督やニューフェースの若山セツ子、久我美子、中北千枝子といった俳優も数多く参加していた。続いて執行吏が所内に入り、仮処分執行の公示書を掲示して事件は終結した。
最高司令官マッカーサーは、東宝争議は共産党が指導しているとみなし、軍の出動を指令したと述べている。米軍の露骨な介入に対し「来なかったのは軍艦だけ」と驚愕を持って知れ渡った事件であったが、翌8月20日の朝刊各紙では、米軍介入が日本国民に知れ渡り、評判を落とすことを恐れたGHQ/SCAPの検閲によって、東宝争議の「解決方法」が報じられることは無かった。
[編集] 米軍出動
1947年(昭和22)の二・一ゼネストは、官公庁の大型労働争議であっただけに、「国民の福祉に反する」という理由でGHQ/SCAPが介入するには、理が一応はあった。また、中止方法も指導者に中止を放送させるという、強引だが「平和的」な解決策をとった。ところが、この事件は一企業の労働争議であったにもかかわらず、裁判所の仮処分を拒否したと見ると、武力を持って労働運動を解散させるという荒業を行った。この変化は、マッカーサーの米国での位置の変化に在るという説がある。
二・一ストの際、最高司令官マッカーサーは翌年の米大統領選挙に共和党から出馬するつもりで、米国民の目線を非常に気にしていた。共和党は労働組合が大きな支持基盤となっており、日本の労働運動を露骨に弾圧して評判を落としたくなかったため、スト決行の直前まで、直接動くことは無かった。増して、軍を出動させることはもってのほかであった(当時、米国でも共産党は合法である。なお、かつてマッカーサーは、ワシントンD.C.に集まった退役軍人のデモを、共産党に操られているとして武力で解散させたことがある)。
しかし、6月の共和党大統領候補の予備選挙でマッカーサーは惨敗してしまい、候補に選出されなかった。このときからマッカーサーは米国民の目を気にせずに済むようになり、東宝争議はその次期に重なって強制解散させられたというものである。
また、実際に47年2月よりも48年8月は、ベルリン問題などでソビエト連邦率いる共産主義の脅威が席巻しているときであり、ソ連の台頭を容認できないアメリカとしては、日本での共産主義的な芽も、早いうちに摘んでしまいたかったとの見方もできる。
どちらにせよ、GHQ/SCAPがもはや労働運動に味方しない事を誇示した事件でもあった。
[編集] 余波
東宝争議は日本の映画界に大きな爪あとを残した。東宝は争議を乗り切ったものの、映画製作どころではなくなった。第二製作部を母体とした新東宝に製作を完全に委託して、自らは製作を中止し、映画配給に徹しようとした。しかし新東宝が裏切って自社配給を宣言したので自社製作を再開した。新東宝はスターが相次いで流出して結局1961年に倒産した。争議の首謀者である今井正、山本薩夫、亀井文夫といった共産党員の監督は解雇されて(今井は自主的に退社)大手映画会社からも敬遠されたので独立プロを設立した。
山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明といった監督も退社して「映画芸術協会」を設立し、新東宝、大映、松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。また、藤本真澄、田中友幸らプロデューサーも退社し、個人プロダクションを設立して他社配給の映画製作に当たった。相次ぐ人材の流出に悩まされた東宝は低迷した。東宝が黄金時代を迎えるのは、森岩雄が追放解除となって東宝に復帰し、黒澤、成瀬、藤本らが復帰した1950年代中頃からのことであった。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 三好徹 『興亡と夢 - 戦火の昭和史 - 』 5巻 (集英社)ISBN 4-08-772589-8
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