日本軍
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日本軍(にほんぐん)とは日本の軍隊のこと。大日本帝国軍とも。
第二次世界大戦で敗戦するまで日本が保持していた軍隊は、しばしば旧日本軍と呼ばれる。旧軍ということもある。戦後の日本では専守防衛のための実力とされる自衛隊がこれに該当するとされるが、日本国憲法第9条では軍事力の保持を禁じている。よって、諸外国の軍隊とは違う概念の、日本独自の領土防衛組織であるといえるので、法制上、同じ系統には含まれない。
自衛隊については詳しくは自衛隊の項目を参照のこと
旧日本軍には陸軍(大日本帝国陸軍)と海軍(大日本帝国海軍)があり、それぞれ陸軍省、海軍省が所轄官庁であった。現代の軍隊には空軍(自衛隊では航空自衛隊)があるが、旧日本軍には空軍は無く、陸海軍がそれぞれ航空隊を保有していた。旧軍の呼称には国軍、帝国軍(陸海軍刑法に登場)、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)などがあった。
当初は、徴兵告諭の「海陸二軍ヲ備ヘ」など海軍を先に表記することもあったが、後世は陸海軍を併記する場合は陸軍を先に表記することが通常となった。
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[編集] 旧日本軍史
[編集] 創設
日本では江戸時代後期に蘭学の興隆によりヨーロッパの軍制が部分的に紹介され、1853年(嘉永6)のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊来航などで対外的脅威により、幕府や諸藩では西洋式軍隊の創設を開始する。幕府はフランス式陸軍を採用し、軍事顧問を招いて装備の導入や軍隊(洋式幕府歩兵部隊)の編成を行い、長州藩、薩摩藩、佐賀藩でも軍制改革が行われる。江戸時代の幕藩体制においては軍事に従事するのは武士階級のみであったが、長州藩で設立された奇兵隊などは、農民や町民などが混成した民兵部隊であった。1867年(慶応3)の大政奉還、王政復古により江戸幕府は消滅して薩摩、長州の軍事力を中核とする明治新政府が成立し、旧幕府軍と戊辰戦争で戦う。
幕府により行われた西洋式軍隊創設は明治新政府に引き継がれる。新政府は富国強兵を国策に掲げ、明治4年2月には長州藩出身の大村益次郎の指揮で天皇の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵10,000人を創設し、常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保した。
1871年4月設立当初は鎮台制と呼ばれる組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱や西南戦争など内乱鎮圧を主たる任務とした。徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後陸軍は師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行した。設立の基礎が明治維新時の薩長軍であったために永らく藩閥支配が払拭できず、陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固めた。72年に陸軍省が兵部省から分離し、78年には参謀本部が独立する。新政府は廃藩置県や廃刀令で武士階級を事実上消滅させた後、73年に徴兵令を施行する。陸軍卿には奇兵隊出身の山県有朋が就任する。山県は普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行う。海軍は当初から英国の海軍制度に倣って編成された。
陸海軍共に初期の仮想敵国はロシアであったが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソ連を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なして軍備をすすめた。明治期においては兵器類は英国などから購入していたが、日露戦争頃から次第に国産化がすすみ、太平洋戦争頃までには大艦巨砲主義を追求した戦艦大和、武蔵に代表される艦艇、軽量戦闘機を追求した海軍零式艦上戦闘機に代表される航空機、など欧米に比肩しうる高性能の兵器を開発・装備した。しかし、一方で明治時代後期に採用された三八式歩兵銃を第二次世界大戦の終結まで使用するなど、兵器の配備についてはアンバランスさが目立った。
また、ミッドウェー海戦以降、反攻に転じた米軍に対して、キスカ島撤退など撤退が成功した例を除いて、物量において劣勢な各地の陸海軍部隊は、アッツ島の玉砕以降、投降を拒否して、最後は 万歳突撃を行って玉砕を遂げる部隊が続出した。
[編集] 法的基盤
1889年に制定された大日本帝国憲法においては陸海軍は陸軍大臣の輔弼(ほひつ)、海軍大臣の輔翼(ほよく)責任のもと政府と陸軍省・海軍省の統制下にあると規定されていた。ところが、大日本帝国憲法第11条の条文にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言が統帥権の独立を保障したものとする憲法解釈が次第に行われるようになる。実際のところ明治憲法においては統帥大権も統治大権と同じく大臣の補弼責任の下にあり、決して統帥大権の独立を保障するものではない。
しかし、元々軍部は憲法よりもむしろそれに先行して1882年に制定された軍人勅諭を思想的基盤としており、憲法はからなずしも軍部にとって絶対的な法とはならなかった。大正、昭和期に入ると陸軍参謀本部・海軍軍令部が軍部の頂点としての機能を強めるようになる。
日清戦争、日露戦争を経て大正・昭和期に入るとこの統帥権の独立が次第に政治問題化した(統帥権干犯問題)。満州事変や日中戦争では軍部が政府の方針を無視して戦争を拡大し、それを政府が追認するという事態が生じた。また、昭和期に入って軍部大臣現役武官制が復活したことによって、軍部が陸海軍大臣を推薦しなければ内閣が組織できなくなった。つまり、これによって軍部が強力な政治に対する拒否権を持ったことになる。
このように法的な基盤から見た日本軍はむしろ不完全さが目立つ軍事組織であった。しかし、そのことが軍に政治的活動の余地を与え、後に五・一五事件や二・二六事件をきっかけとして、軍国主義と言われる軍閥支配をもたらした。
[編集] 旧日本軍関連年表
[編集] 明治期
- 1870(明治 3年)兵制統一布告(海軍イギリス式、陸軍フランス式)
- 1871(明治 4年)薩摩長州土佐からの献兵による御親兵が編成される
- 1873(明治 6年)徴兵令の布告
- 1874(明治 7月)佐賀の乱
- 1874(明治 7年)台湾出兵
- 1875(明治 8年)江華島事件
- 1876(明治 9年)熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
- 1877(明治10年)西南戦争
- 1882(明治15年)軍人勅諭発布
- 1882(明治21年)陸軍参謀本部条例・海軍軍令部条例・師団司令部条例公布
- 1889(明治22年)大日本帝国憲法発布
- 1893(明治26年)戦時大本営条例を公布
- 1894(明治27年)日清戦争
- 1895(明治28年)日本軍、下関条約にもとづき台湾を接収
- 1899(明治32年)義和団事変
- 1900(明治33年)軍部大臣現役武官制を確立
- 1900(明治33年)北清事変
- 1904(明治37年)日露戦争(明治38年終結)
[編集] 大正期
- 1913(大正 2年)軍部大臣を予備役・後備役・退役将官からの登用が可能となる
- 1914(大正 3年)シーメンス事件
- 1914(大正 3年)第一次世界大戦
- 1918(大正 7年)シベリア出兵
- 1918(大正 7年)第一次世界大戦終結
- 1919(大正 8年)関東軍司令部条例公布
- 1920(大正 9年)尼港事件
- 1921(大正11年)ワシントン軍縮会議
- 1921(大正11年)シベリア出兵終了
- 1923(大正12年)甘粕事件
- 1925(大正14年)宇垣軍縮
[編集] 昭和期
- 1927(昭和 2年)
- 1928(昭和 3年)
- 1930(昭和 5年)
- 1931(昭和 6年)
- 1932(昭和 7年)
- 1934(昭和 9年)ワシントン海軍軍縮条約破棄
- 1936(昭和11年)
- 1937(昭和12年)
- 1938(昭和13年)
- 1939(昭和14年)ノモンハン事件
- 1940(昭和15年)仏印進駐
- 1941(昭和16年)
- 1942(昭和17年)ミッドウェー海戦
- 1943(昭和18年)
- 1944(昭和19年)
- 1945(昭和20年)
- 1946(昭和21年)
[編集] 陸海軍共通の特務機関
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
自衛隊史については自衛隊を参照のこと。