島田信廣
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島田 信廣(しまだ のぶひろ、1950年1月28日 -)は、日本の元オートレース選手。長野県出身。11期、元船橋オートレース場所属。2002年10月16日の船橋オートレース場で開催されたGIオート発祥53周年船橋オート祭第10レースをもって引退した。
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[編集] 略歴
- 1985年
- 1986年
- 1987年
- 自身初となる船橋A1(前・後期)となる。
- 1988年5月8日
- 開場32周年記念ゴールデンレース(浜松オートレース場)優勝。呼名は『ウォーズ』。競走タイムは3.461。
- 1989年
- 1990年
- 1月30日、第4回スーパースター王座決定戦(川口オートレース場)でSG初優勝。
- 2月12日、第3回全日本選抜オートレース(伊勢崎オートレース場)優勝。
- 同年のオートレース表彰選手において、最優秀選手賞・最多優勝選手賞を受賞。
- 1991年
- 1992年
- 3月4日、第6回スーパースター王座決定戦優勝。
- 11月5日、第24回日本選手権オートレース(船橋オートレース場)で秋田敬吾、進藤敏彦、飯塚将光、片平巧に続き5人目となる完全優勝を飾る。
- 同年のオートレース表彰選手において、優秀選手賞を受賞。
- 1993年
- 1994年
- 1995年7月28日
- GI第18回黒潮杯争奪戦優勝。
- 1996年
- 2月4日、飯塚将光、小林啓二に次ぎ3人目となる通算100Vを達成。
- 6月10日、秋田敬吾(5期、山陽オートレース場所属)、飯塚将光、広瀬登喜夫(期前、引退)、阿部光雄(6期、川口オートレース場所属)、吉田光(3期、引退)、桝崎正(7期、引退)、小林啓二、二田水潤太郎(3期、引退)に次いで9人目となる通算1000勝を突破。
- 11月6日、SG第28回日本選手権オートレースで、史上初となる2度目の完全優勝。
- 12月18日、開設46周年記念GIオート祭(船橋オートレース場)優勝。
- 12月26日、GI第31回スピード王決定戦(山陽オートレース場)優勝。
- 同年のオートレース表彰選手において、後輩である片平巧(19期、船橋オートレース場所属)と共に最優秀選手賞をダブル受賞。
- 1997年
- 1999年
- 2002年
- 10月16日、この日の第10レースをもって引退。最終戦は2着。
[編集] 遅咲きの鉄人
島田は『鉄人』と謳われた、1990年代に大活躍した選手である。
かつては社会人として普通に働いていたが、1973年にオートレース選手としてデビューした。島田が配属となった船橋オートレース場は当時、島田と同い年でありながら先にデビューを果たしていた「ミスター・オート」飯塚将光の独壇場が長らく続いていた。このスーパースターの影に隠れ、島田がトップに君臨するには長い時間を要した。しかし、主力の1級2気筒車がトライアンフからフジへ変わっていった頃、フジに乗り換えた島田は一気に全国区に登り詰めることとなる。
初めてSGを制覇したのは、1990年のスーパースター王座決定戦だった。その時既に39歳で、中堅からベテランへと移っていく年齢であった。しかしその後、島田は前人未到の同一SG5連覇を果たしたのである。飯塚将光の日本選手権V6は連覇ではなく、第9、10、15、18、19、21回と間を置いての記録であり、この記録は未だに破られていない。他にも、全日本選抜オートレース6回、日本選手権オートレース2回、オールスターオートレースを1回優勝した。1994年に優勝したオールスターオートレースでは、1着入線の田代祐一が審議対象となって20分にも及ぶ審議の結果失格となり、繰り上がって島田が優勝した大会だったが、この優勝によって、実質島田が初のSGグランドスラムを達成した。
晴雨ともに乗れる選手でもあり、続々と後輩選手が登場する中、島田は若手選手達の前に立ちはだかる壁となった。
選手生活は29年間と平均的な選手よりもやや短いくらいだったが、全盛期と言うべき時期が40歳台直前から10数年に亘るという、オートレース界のみならず、公営競技界全体としても非常に珍しい遅咲きの選手であった。そこから、「鉄人」という異名で呼ばれることとなった。また、冬場が滅法強く、「冬将軍」と呼ばれたこともある。多くのベテランレーサーがセアへの乗り換えで苦戦を強いられた中、セアに乗り換わってからも変わらぬ強さを維持し続けた稀有な選手でもあった。しかし、思いもよらぬ形で島田は晩節を汚すこととなってしまった。
[編集] 堕ちた鉄人
2001年から2002年にかけて、島田は選手会船橋支部内でのトラブルが原因で暫く現場から遠のくこととなった。その理由は今もって明らかにはされておらず、様々な憶測が飛び交う要因ともなった。
復帰後、島田は「持病の腰痛が悪化してしばらくレースから遠ざかった」と語ったが、それが偽りであることは誰の目にも明らかであった。復帰はしたものの、島田の動きは目に見えて衰えを感じさせるほどに精彩を欠き、やがて島田は引退を決意するに至った。
引退レースとなった2002年10月16日のGIオート発祥53周年船橋オート祭(船橋オートレース場)最終日、優勝戦進出を果たせなかった島田は一つ前の特別選抜戦に出走し、2着に終わった。そして第10レースと第11レースの合間に、ウイニング・ランとはならなかったものの場内をゆっくり2周し、集まったファンに笑顔で応え、オートレースから去った。
[編集] その後のオートレース界
オートレース界は長引く売上不振を打開すべく「構造改革」を断行した。これにより、島田が引退した翌年度から賞金総額が2割削減されるに至った。更に内部改革を実施し、特にベテラン選手への出走機会を奪うかのような新ランキング制度を実施。その上、レース形態もあとからいって序々に抜いていくという、他のモータースポーツには余り見られないオートレース特有の走りから、単なるスピードレースへと変貌していってしまった。期前から10期以下のベテランレーサーも多くが引退し、「オートレース」という競技の質自体が昔のそれとは変化してしまったと言えるかもしれない。
島田は引退時に「何も思い残すことはないけど、業界のこれからがちょっと心配だね。」というメッセージを残した。インタビューも含め、最後の最後までファンのことを考えた発言が非常に多い選手であった。
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