室内交響曲
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室内交響曲とは、室内楽編成または室内オーケストラのために作曲された交響曲のことである。
目次 |
[編集] 概論
シンフォニエッタや小交響曲などと並んで、交響曲の亜種・変種の一つにほかならない。
小編成の交響曲という発想は、一見すると18世紀の、初期の交響曲やオーケストラへの先祖返りであるかのようである。だが、「室内」といった限定的な語句を加えることは、「オーケストラの団員は何名からか」といった問いが発せられたことに等しい。この意味において室内交響曲の成立そのものは、きわめて現代的な数的思考に基づくものと考えてよい。
[編集] 発祥
歴史をさかのぼると、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリによるピアノと管楽器、弦楽合奏のための《室内交響曲(伊:Sinfonia da camera )》(1900年作曲・出版)に始まり、それからパウル・ユオンの類似した編成の《室内交響曲(独:Kammersinfonie )》(1905年出版)が後に続いた。
基本的に保守的・伝統主義的な傾向をもつ二人の作曲家が、室内交響曲というジャンルを創り出したことは注目されてよい。それは、同時代のドイツ・オーストリアにおける交響曲のあり方への批判を読み取ることが出来るからである。ベートーヴェンの《第9番》やベルリオーズの諸作以来、ヨアヒム・ラフやブルックナーに至るまで、交響曲というジャンルは、創作の意図や着想、楽器編成において膨張を続け、作曲技法においては複雑化を遂げていた。その後のマーラーにおいては、カンタータやオラトリオ、シェーナ、世俗歌曲との融合というように、ジャンルの越境さえ頻繁になる。
ヴォルフ=フェラーリらは、楽器編成の節約によって透明なテクスチュアを実現し、古典的なたたずまいの楽曲構成に立ち返り、標題性を排除することによって、明晰さや簡潔さ、絶対音楽としての節度や客観性を取り戻そうとしたのであろう。しかしながら彼らの試みは、意欲においては新しかったものの、楽器編成そのものは、ルイ・シュポーアやフンメルらの世代に見られた、ピアノを含む大編成の室内楽の域を出なかった。そしてとりわけヴォルフ=フェラーリ作品では、ピアノの活躍が著しく、そのため室内交響曲というより、アルバン・ベルクの《室内協奏曲》の先駆的な存在となっている。
[編集] 発展
1906年にアーノルト・シェーンベルクは《室内交響曲(独:Kammersymphonie ) 第1番》を完成させ、ウィーンで初演を行う。日本時代のクラウス・プリングスハイムは、シェーンベルク指揮のウィーン初演にピアニストとして出演し、シェーンベルク作品と同時上演された、ヴォルフ=フェラーリの《室内交響曲》でピアノを弾いたと回想している。プリングスハイムの記憶に誤りがなければ、シェーンベルクがヴォルフ=フェラーリの先行作品を知っており、それを念頭に置きつつ、「室内交響曲」というジャンルに、独自の概念をもたらし、新たな展望を与えたことが明らかになる。
一つはピアノの排除、もう一つは、「室内楽」としての特性と、「交響曲」としての特性を融合させるということである。室内楽の特性の一つは線的な多声音楽であるということであり、「交響曲」はこれに比べて、和声や音色の探究に比重が置かれがちである。ポリフォニックな交響曲の創作は、シェーンベルク以前に、すでにブラームスやブルックナー、マーラーによって、ウィーン楽派の伝統の中で先鞭がつけられていたが、シェーンベルクは室内楽と交響曲の融合により、その方向をよりドラスティックに推し進めようとしたと見てよい。
「室内交響曲」は、室内楽であるので、色彩の追究よりもポリフォニーの構成に比重が置かれなければならない。しかし室内交響曲は、交響曲でもあるので、和声の探究もないがしろにされてはならない。こうして結果的にシェーンベルクの室内交響曲は、つとに研究者が指摘しているように、「圧縮された交響曲」という性格を持つこととなる。その印象を強めるのは、《第1番》における単一楽章、《第2番》における2楽章制と循環楽想の利用のために、非常に緊密な構成が認められるからでもある。
ちなみにシェーンベルクの2作目は、完成まで30年を要したものの、着想じたいは《第1番》の完成と同時期の1906年にさかのぼることが分かっている。《第2番》の楽器編成は、楽器数が15しかない《第1番》より充実しており、ポリフォニックな《第1番》とは対照的に、和声的な響きの充実と色彩感の追究に主眼が置かれていることが明らかである。
シェーンベルクの試みに続いて、ウィーンで1916年にフランツ・シュレーカーが、その後フランスでダリユス・ミヨーがこのジャンルに取り組んでいる。もっともミヨーの室内交響曲は連作であり、シャルル・グノーの前例に従って《小交響曲 仏:Petite[s] symphonie[s] 》との呼称ももっている。
ショスタコーヴィチのケースは、もともと弦楽四重奏曲が原曲であるうえ、ルドルフ・バルシャイによる編曲に作曲者自身が作品番号を与えた特異な事例であり、他の作曲家の室内交響曲と同列に扱うことはできない。しかしソ連では、1920年代にニコライ・ロスラヴェッツや、ロシアにおけるシェーンベルクの崇拝者ガヴリイル・ポポーフによって、室内交響曲の作曲が試みられており、ショスタコーヴィチ自身の最初の交響曲も、実質的に一種の室内交響曲と呼べなくない。
シェーンベルク自身の周囲では、ハンス・アイスラーやハンス・エーリヒ・アポステルらのほか、シュレーカーの門人に試みた者が多少いるに留まる。韓国の作曲家イサン・ユンは2曲の室内交響曲を残し、ジョン・アダムズや田村文生の作品は、シェーンベルクへのオマージュであると同時にそのカリカチュアであることで有名である。
[編集] シェーンベルクの室内交響曲
[編集] 第1番 作品9
《15の楽器のための室内交響曲》と命名された第1番は、フルート、オーボエ、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット、コントラファゴット、ホルン2、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという編成で書かれた。作品9がオリジナルの編成であり、作品9bは通常のオーケストラ編成に拡張されている。作品9bの音源は、WEITBLICKレーベルのハインツ・レーグナー指揮の音源により確認することが可能である。
後にシェーンベルクはこの作品をピアノ連弾用に編曲する。アルバン・ベルクも二台ピアノ用に編曲し、ヴェーベルンもフルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの五重奏に編曲している。各ヴァージョンごとに既にいくつかの録音が存在する。
オリジナル編成では管楽器が弦楽器の数を、倍も上回る。これは当時の常識では考えられないほどに斬新であった。大量の弦楽器が管楽器をカヴァーするのがオーケストレーションと考えられていた常識に、真っ向から対立したのである。全奏では非常に鋭い音色になるのが特徴的であり、作品9bのフル・オーケストラ版においても、この特徴は顕著である。ストラヴィンスキーが弦楽器の叙情性を嫌い、管楽器を偏愛することになる20年以上も前の話である。
[編集] 第2番
Stub
[編集] 問題点
「室内交響曲」が交響曲の亜種ないしは変種である以上、室内交響曲と、先述のような他の変種との間に、本質的にどのような異同が見られるかを、個々の例に基づき調査・分析することが必要である。
それには、グノーの《小交響曲》やその同類(ブリテンの《シンプル・シンフォニー》やコープランドの《ショート・シンフォニー》)、ラフ、リムスキー=コルサコフ、ヤナーチェク、ミャスコフスキー、マルティヌーらの《シンフォニエッタ》、メンデルスゾーンの《弦楽のためのシンフォニア》、さらに大作曲家の習作的作品(ビゼーの《交響曲ハ長調》やプロコフィエフの《古典交響曲》)との比較研究が不可欠になるものと思われる。またヴェーベルンは、シェーンベルクの《室内交響曲 第1番》を熱心に研究し、ピアノ五重奏曲へと編曲したにもかかわらず、なぜ自作の《交響曲》を「室内交響曲」と呼ばなかったのかなど、関連して考察すべき問題が残されている。ダリウス・ミヨーは6曲の「手のひら交響曲」を残している。
一説にはこの傾向は第一次世界大戦後のストラヴィンスキーの『兵士の物語』に見られるように、来るべき経済不況による徹底的な縮小編成を先取りしたものとも考えられ、更に弦楽のソロ編成によって管弦楽全体の新しい音色の追求が挙げられる。