今江祥智
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今江 祥智(いまえ よしとも, 1932年1月15日 -)は日本の児童文学作家。
[編集] 人物
今江駒吉とサキの三男として、大阪市南区島之内に生まれる。父駒吉は、兄が経営する料亭「大市」(だいいち)の仕入れ部長役で、のちに大日本蚕毛株式会社を興し社長に就任したが、1937年、酔って頭部に負傷したことから自宅で療養するようになり、1941年6月、50歳の時に急性脳炎で死亡した。
1936年、渥美幼稚園に入園。幼稚園で配られた「キンダーブック」により、初めて絵本と出会う。1937年、塩町に転居。以後、1945年までここで育つ。
1938年、渥美小学校に入学。当時、名古屋に妻公認の愛人を持っていた駒吉が、妾宅から自宅に帰るときの照れ隠しとして講談社の絵本の新刊を全冊毎月買い揃えたため、『かちかち山』『桃太郎』から『岩見重太郎』『乃木大将』までを刷り込まれ、児童文学に対する素養を育まれる。
1944年、旧制今宮中学校に入学。絵画部に所属する傍ら、海野十三、山中峯太郎、佐々木邦、佐藤紅緑などの少年小説を愛読。幼年学校入学を目指す軍国少年だったが、心臓脚気を患ったため、医者に勉強を差し止められた。
1945年3月、大阪大空襲で焼け出されたため、母の実家がある和歌山県橋本に移住し、ここから旧制今宮中学校に遠距離通学。1945年8月、橋本で敗戦を迎える。橋本では慣れぬ畑仕事を経験したが、1948年に帰阪し、学制改革により新制今宮高等学校2年次に編入。引き続き絵画部で絵を描く傍ら、図書部に入り、ヘルマン・ヘッセ、鈴木三重吉、山本有三、芥川龍之介、夏目漱石などを濫読。さらに、学校新聞の文芸作品募集に応じて「松葉上人」を提出したところ、入選し掲載される。このころ、岩波文庫めあての古書店めぐりに熱中し、中勘助『銀の匙』を読んで感動、座右の書とする。
1950年、同志社大学文学部に入学。上賀茂の医師宅に下宿。英文科だったがヴェルコールやクロード・モルガンやルイ・アラゴンやアランやフランソワ・ラブレーなどの仏文学に傾倒し、辰野隆や渡辺一夫など仏文学者の著書を愛読、さらにロマン・ロラン研究会を設立して顧問に新村猛講師(当時名古屋大学教授と兼任していた)を迎える。この研究会で知り合った上級生の松居直(のち福音館書店会長)から勧められて立原道造や堀辰雄を愛読。このころ、サークル仲間の京大生尾埜善司(のち弁護士となる)の招きで信州追分を旅し、立原や堀にゆかりがある油屋旅館で、偶然に福永武彦や中村眞一郎と逢う。
1952年、文学研究会に所属し、「同志社文学」に評論を発表。田宮虎彦、堀辰雄、桑原武夫などを扱った内容。1953年、「同志社文学」に短篇「夜と人と」「夢の中では瞳は空色になる」を発表。当時はとりたてて児童文学に関心が向いていたわけではなかった。和辻哲郎『古寺巡礼』の影響で奈良や京都の古寺を巡ったのもこの時期のことである。
卒業論文にはヘンリー・フィールディングを、次いでロバート・ネイサンを扱おうとしたが、いずれも教授に拒絶されたためハーバート・リードに決め、英文による卒論「批評家ハーバート・リードの諸相」を提出して、1954年3月、大学を卒業。同年4月、新村の世話で名古屋市の桜丘中学校に英語教師として赴任(初任給9800円)。初めは新村家に寄寓していたが、やがて新出来町なる覚音寺の庫裡の二階六畳に下宿して学校に通勤。この時期の体験は『牧歌』の材料となった。中学校では担任を持たされず、図書館係に任ぜられ、岩波少年文庫の『ムギと王さま』(ファージョン)、『くろんぼのペーター』(ヴィーヘルト)、『おにごっこ物語』(エーメ)、『エミールと少年探偵たち』(ケストナー)、『星の王子さま』(サンテグジュペリ)といった名作群と出会ったことがきっかけで児童文学の魅力に開眼。同年、詩集「四季」および短篇集「野の娘」「仔馬」(いずれもガリ版刷りの私家本)を出したことがきっかけとなり、同人誌「近代批評」に迎えられる。
1957年、「近代批評」に立原道造論やエーリヒ・ケストナー論を、「詩と評論」に谷川俊太郎小論を発表。さらに松居の勧めで童話を書き始め、当時松居が編集していた「母の友」に「ネコのクロクロ」「トトンぎつね」を載せる。1958年、「母の友」に「アメだまをたべたライオン」「三びきのライオンの子」「四角いクラゲの子」「ぽけっとくらべ」などを続々と発表。1959年、「近代批評」に発表した連作童話「小さな神様たち」12篇がきっかけとなり、「岐阜タイムス」に「山のむこうは青い海だった」を連載(挿絵は長新太)。
1960年、松居直の勧めで教職を辞して上京、小金井に下宿して福音館書店に勤務。編集者として児童文学に関わることを望んでいたが、意に反して「英語発音小辞典」「ピクチュア・カード」など英語関係の学習書籍を担当させられた。木島始の世話により、同年10月、理論社から『山のむこうは青い海だった』を上梓。1961年、松居の世話で日本リーダーズ・ダイジェスト社に移り、漫画誌「ディズニーの国」の編集を担当。(この時の編集長が三井財閥の御曹司だったことから、後年『大きな魚の食べっぷり』が生まれた。)当時珍しかった週休二日制の会社であることを利用し、余暇は創作に打ち込む。秋に千江夫人と結婚。1962年、三井編集長の急死により「ディズニーの国」誌の編集長となり、手塚治虫や北杜夫など多数の執筆者と交際するが、1964年、同誌の廃刊に伴い、理論社の嘱託編集者に転じる。この間、1963年10月に長女冬子(のち女優となる)が誕生。1966年、『海の日曜日』によりサンケイ児童出版文化賞および厚生大臣奨励賞を受賞。
母の死をきっかけに東京を離れ、1968年4月、京都市に移住。同年から中川正文の世話で聖母女学院短大講師となる。
「母の友」に1967年4月号から1968年3月号まで連載し、1970年11月10日に福音館書店から出版した長篇『ひげのあるおやじたち』の第8章「八ばんのとうちゃん 非人頭甚五」における「非人たちは、いつもどこか死人のにおいがした」(112-113ページ)などの表現や、非人部落の描写である「なんともかともいえぬにおいが、下のほうからむっとのぼってきたのだった。目のなかにまでしみるようなにおいだった」(116ページ)などの表現が部落差別を助長しているとされ、部落解放同盟から糾弾を受ける。これに対して今江は、1971年4月、「日本児童文学」誌に「わたしの中の"差別"」と題する反省文を発表し、早々と『ひげのあるおやじたち』を絶版にすると決定(以後、全集にも収録していない)。この対応を”表現の自由を主張しないのは立派だ”と土方鉄や宅間英夫ら部落解放同盟の関係者から讃えられた今江は、これ以後『タンポポざむらい』など差別に関する作品を執筆した時は宅間らに検閲を乞うに至った。その他、部落解放同盟大阪府連合会に招かれて講演をおこない、さらに部落解放文学賞童話部門の選考委員を10年以上務めるなど、糾弾に事実上屈服した形となっている。
1971年春、千江夫人と協議離婚し、娘と二人暮らしになる(この時の経験が『優しさごっこ』『冬の光』の題材となる)。1973年、『ぼんぼん』により日本児童文学者協会賞受賞。
1981年、教授会の煩雑さに閉口し、自らの全集の刊行を機に聖母女学院短大教授を辞任。以後も2年間、同校で非常勤講師を務める。季刊誌「飛ぶ教室」を光村図書からプロデュース。1985年3月、理論社編集者の成澤栄里子と再婚。1988年、『ぼんぼん』から『牧歌』に至る四部作で山本有三記念路傍の石文学賞を受賞。
シャンソンを愛し、イヴ・モンタンを崇拝。好きな落語家は桂枝雀。歴史上の人物では高杉晋作を尊敬している。
[編集] 受賞歴
- 『ぼんぼん』 児童文学者協会賞
- 『兄貴』 野間児童文芸賞
『「ぼんぼん」「兄貴」「おれたちのおふくろ」「牧歌」の自分4史』 路傍の石文学賞
- 『でんでんだいこいのち』 小学館児童出版文化賞