上尾事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上尾事件(あげおじけん)は、1973年(昭和48年)3月13日、日本国有鉄道(国鉄)の順法闘争に反抗した利用客が上尾駅(埼玉県上尾市)で起こした集団暴動事件である。
目次 |
[編集] 順法闘争
1970年代の国鉄では、賃金引上げや労働環境の改善を目指しての労働闘争が頻繁に繰り返されていた。しかし公共企業体職員であった国鉄職員による争議行為は公共企業体等労働関係法(公労法)で禁じられており、国鉄職員は法を順守する形で闘争した。これを順法闘争と呼んでいる。
第一次ベビーブームによる若年人口の激増により、市街地の拡大とともに通勤通学客も増大の一途であり、列車は限界を超えて増発されダイヤは過密状態、朝夕通勤通学時間帯の中・長距離列車はすでに混雑が慢性化していた。法規を遵守していての運行は不可能な状況にまでなっており、取り扱い違反は恒常化していた。そこで、国鉄労働者はその状態を逆手に取り、運行に支障をきたす目的で法規遵守を行うという反抗運動が行なわれていた。列車の運転士はほとんどこじつけとも言える些細な理由で停止や徐行を繰り返し、ダイヤは崩壊状態であった。
一方、鉄道利用客にとって、ストライキであれば公式としても認められるが、順法闘争ではそれもできなかった。順法闘争が行われると、乗客は殺人的な混雑と大幅な遅延の中に置かれることとなり、利用客の不満は高まっていった。また、崩壊状態のダイヤは貨物列車による首都圏への生活物資の輸送に滞りを発生させ、結果として物価の高騰を招くに至り、順法闘争は民衆の生活に悪影響を与えるもの、という認識と批判が強まっていた。
[編集] 事件の概要
1973年(昭和48年)3月13日、この日も国鉄職員は順法闘争を行い、高崎線の籠原駅発上野駅行き上り列車が14分遅れて7時20分に上尾駅1番線に入線した。この日はこの年の2月1日から始まった順法闘争の第2次順法闘争に突入した翌日であった。上りホームには既に3,000人もの通勤利用客でごった返しており、列車に乗り切れない乗客が数多く列車も発車できなくなっており、上尾駅では改札制限を行っていた。そのような状況の中で後続の前橋駅発上野駅行き上り列車も2番線に入線する。この列車も超満員で発車できない状態であり、この両列車を2駅先の大宮駅で運行を打ち切るという判断を行い、その旨の構内放送が行われた。その結果、一部の乗客が激怒、運転士への抗議のために運転室に詰め寄った。 また、数名が線路に下りて投石するなどし、ガラスが割れる音を聞いて、車内の乗客も暴徒に加わった。 殺気立った乗客の状態から身の危険を感じた運転士は、業務を放棄し上尾駅の駅長室に逃げ込んだ。
列車は当然運行できず、乗客の怒りにさらに油を注ぐ結果となった。乗客約10,000人は暴徒と化し駅長室に突入、中にいた駅長にハンマーなどで殴りかかって負傷させた(駅長は全治5日間のケガを負い、救急車で搬送されている)。また暴徒は上尾駅に停車していた電車の窓ガラスやヘッドライトを割り、運転設備を破壊した。駅の各種設備も破壊された。さらには上尾駅に侵入できず300メートル手前で停車していた上り特急「とき2号」も投石され、窓ガラスが割られた。また事務室からは、何者かによって現金20万円が奪われた。駅は暴徒と化した乗客に占拠され、無法地帯は駅周辺にまで広っていった。埼玉県警は機動隊員を派遣したが、550人という劣勢であり睨み合って暴徒を牽制するしかなかった。
最終的に暴徒化した人数は10,000人前後だったと言われる。この暴動は同じ高崎線沿線の桶川駅や北本駅、鴻巣駅、熊谷駅をはじめ東北本線沿いの埼玉県内各駅にも飛び火し、これら地域一帯で一時的に治安が悪化した。宮原駅では、常日頃から通勤による疲労に耐えかねた乗客らが駅助役を拉致し、約4km先の大宮駅まで無理やり歩かせた(この時、大宮駅でも暴動が発生していた)。上尾駅周辺は約11時間にわたり不通となり、運行再開後するも正常なダイヤでの運行は出来ず、代行バスで対応するものの終日ダイヤは混乱した。
この事件の逮捕者は7人で、混乱に乗じて駅から金銭を奪った者、取材に来ていた新聞記者に暴行を加えた者などであった。
上尾事件に前後して、或いは呼応する形で、順法闘争に対する乗客の暴動事件が首都圏一帯で多数発生しており、山手線や総武線でも電車数本が走行不能なまでに破壊(走行機器、運転台の破壊等)されたり、上野駅や新宿駅で放火事件も発生した。
[編集] 事件の要因
この事件は表面上、順法闘争によってダイヤを乱したことが原因といわれているが、普段の国鉄職員による横柄な営業態度に日頃から不満を持っていた利用客の怒りが順法闘争によって爆発した事件と見ることもできる。
暴動を起こした利用客は、急速に宅地化の進んだ上尾市に暮らし始めた若年層が中心であった。第一次ベビーブーム世代以下が社会の第一線で活躍し、結婚などで所帯を持ち始めて全国的に住宅不足が叫ばれ、上尾市でも日本住宅公団などによって大規模な団地が建設されていた。同じく、暴動が飛び火した桶川や北本、鴻巣でも人口が大幅に増えていた。
一方で国鉄は経営が硬直し、戦後すぐに一大勢力となった労組との軋轢が絶えず、上から下まで利用者抜きの内向き姿勢であった。その結果輸送サービス面での改善が滞り、殺人的混雑と遅延の恒常化が一向に解消しなかったことへの不満も暴動の背景にあったとみられる。
- 当時は東北新幹線・上越新幹線開業前で、高崎線は首都圏と新潟・長野県方面とを結ぶ大動脈でもあり、昼夜問わず優等列車が多数運行されていた。朝の通勤時間帯にも、上信越・北陸方面から東京に向かう長距離夜行列車と通勤電車を併存させなければならなかった。1971年に並行する上越新幹線が建設着工されたが、その時点ですでに輸送力は飽和状態だったのである。しかし国鉄の財政逼迫と体制硬直化は適切な対策を怠らせる原因となった。例えば当時、2ドア・デッキ付でラッシュ輸送に不向きな急行列車用車両(165系電車もしくは碓氷峠用の169系電車)を高崎線通勤列車に間合い運用で投入するなどの弥縫策は、遅延やラッシュを酷くすることになった。
また1960~70年代初頭にかけては、安保闘争から大学紛争に至るまで、一般市民による暴動やデモも多発しており、当日利用客の多くを占めたであろう当時の若手サラリーマン層の中には、学生時代にヘルメットをかぶって機動隊と対峙した経験を持つ者も多くおり、暴動慣れしていたという側面もあった。
いかなる理由があろうと暴力が正当化されることは許されないが、国鉄とその労働組合の荒廃にいかに社会全体が怒りを持っていたかを示すこととなった。
この事件は昭和48年の警察白書の第7章「公安の維持」でも、「急激な都市化の進展や国民意識の変化に伴って従来予想もされなかったような各種の事案」として取り上げられている。
[編集] 事後
事件翌日、暴動の再発を恐れた国鉄と警察は、機動隊を上尾駅周辺に配備して治安維持を行ったが、全く何事も起こらなかった。この日もそれまでと変わらない満員電車であったが、恐らくは暴動に参加したであろう市民も、何事も無かったように通勤していった。しかし、現在においても上尾駅を中心に高崎線の駅では、人身事故などで列車が停止すると、駅への機動隊派遣や車内の監視強化などの厳重な警戒が行われている。
また、組合員に危害が加えられたことで、労働組合側も順法闘争の中断に追い込まれた。しかし、一部の組合は具体的な根拠も示さず「上尾での騒乱は権力側が扇動したものである」との認識を示し、順法闘争を再開した。
この事件は当時の国鉄に対する国民の不満が形となって現れたものであり、また、「世論は自らの側にある」と思い込んでいた国鉄の各労働組合に対してもそれを否定する強烈なアピールとなったことも事実であろう。また、日本においてストライキなどの労働組合による実力行動が否定的に捉えられる風潮の端緒ともなり、その後他産業においてもストライキは大幅に減少していった。
国鉄は、ラッシュ時に急行型電車の投入を取りやめる為、本来の近郊型電車である115系電車3編成45両をメーカーに緊急発注し、その後も増備していったため、上尾駅を朝のラッシュ時に発着する電車は1975年までに急行型電車が排除された。
- しかしこの反面で、今度は国鉄は、間合い運用で上野や東京、新宿に送り込んでいた急行形電車を送り込むことができなくなり、その時間帯の急行列車・特急列車の設定を取りやめてしまったり、逆に115系を急行列車に宛てたりした。結局、問題の根本にあったのは、国鉄の閉塞区間の設定の不味さや、ダイヤ組成の稚拙さであった。例えば、東武鉄道では毎時2本以上のDRCを発着させ、そのために朝の時間帯に堂々と空車回送をしていたが、閉塞区間を適切に設定することで頻発ダイヤの中に回送列車を押し込み、乗客から表立って批難されることはなかった。
2004年10月16日のダイヤ改正により、通勤時間帯中の普通電車(E231系)に連結したグリーン車の営業が始まった。事件以降、混雑率の緩和を目指してきた同線では、画期的な出来事であった。