マカオ
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モットー:なし | |||||
公用語 | 中国語、ポルトガル語 | ||||
行政長官 | 何厚鏵 | ||||
面積 - 総面積 - 水域 |
(ランク外) 25.4 km² 0% |
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人口 - 総計(2005年) - 人口密度 |
(ランク外) 482,000人 16,921人/km² |
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設立 - 年月日 |
ポルトガルから中華人民共和国に移譲 1999年12月20日 |
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通貨 | マカオ・パタカ(MOP) | ||||
標準時 | UTC+8(AWST) | ||||
TLD | .MO | ||||
国番号 | 853 |
マカオ(Macau)、澳門(アオメン Àomén)(広東語ピンイン: Ou3mun4 オウムン)、正式名称中華人民共和国澳門特別行政区、Região Administrativa Especial de Macau da República Popular da China(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオ/アオメンとくべつぎょうせいく)は、中華人民共和国の本土南海岸に突き出たマカオ半島と沖合いのふたつの島からなる都市、特別行政区。珠海市に接し、香港から南西に70km、広州から南西に145km離れている。
目次 |
[編集] 概要
1999年までポルトガルの植民地であったマカオは、中国大陸のヨーロッパの植民地の中ではもっとも古い。植民地時代の遺構もあるが、マカオでもっとも大きな集客力を有するのはカジノであり、『東洋のラスベガス』とも言われている。マカオで合法とされているギャンブルは数多いが、もっとも人気があるのは、Chinese Dominoを用いた牌九や、ファンタンである。
上記のように観光産業が盛んであり、マカオと香港の間を運行している高速船ジェットフォイル(ボーイング929)は、毎日24時間利用可能であり、香港との間を約1時間で結んでいることから、香港の遊客が日帰りでマカオを訪れることもよくある。
なお、2005年7月15日に、マカオの8つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前で世界文化遺産登録された。
[編集] 名称
マカオという名称は、この地にある道教の廟、媽閣廟(広東語:Ma5gok3 Miu2)に由来すると考えられている。この媽閣廟は、1448年に媽祖に捧げるために建設されたもので、現存している。中国語の「澳門」(北京語:アオメン、広東語:オウムン)は、「澳」が「水が奥深く入り込んだ湾や入り江」のことで、「湾の入り口」という意味である。この「門」というのは、門のようにそびえ立つ南台山と北台山を指している。また文語的な表現でマカオは「濠江」(北京語:ハオヂャン、広東語:Hou4gong1 ホウコン)とも表記され、歴史的には濠鏡澳、香山澳あるいは蓮島という名称もあった。「馬交」(広東語:Ma5gaau1 マーガーウ)は「Macau」の広東語音訳である。
Macau というのがポルトガル語での正式な綴りであり、英語では Macao という綴りが用いられることもある。
[編集] 歴史
中華人民共和国 |
主な出来事 人物 理念 統治機構 |
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マカオの歴史も参照。
[編集] ポルトガル人の居留開始
マカオは、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。ただマカオの領有権は明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。マカオは日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。しかし、その後は明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放により貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。
[編集] ポルトガルの植民地に
アヘン戦争の結果イギリスが香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年マカオ自由港の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、タイパ島とコロアネ島を占領し、1887年にはポルトガルが統治権を獲得した。しかし当時ポルトガルの国力は凋落しており、それに対して世界各国に植民地を保有し隆盛を誇っていた大英帝国の植民地である香港の繁栄により、マカオの貿易港としての地位は全く凋落してしまった。
[編集] 第二次世界大戦
その後清に代わり中国大陸を支配した中華民国と日本との間に起きた日中戦争においては、ポルトガル領であることから戦火とは遠い存在であった。また、その後1941年に起きた大東亜戦争(太平洋戦争)を含む第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、当時東南アジア全体を占領した日本とは交戦状態に入らなかったため、日本軍はマカオを占領せずに駐在武官を置くに止め中立港として機能した。このため、戦火を逃れようとした大量の難民が中国本土から流れ込んだ。
[編集] 中華人民共和国の影響
その後、1949年には中華民国政府との国共内戦に勝利した毛沢東が中華人民共和国を設立し、中国共産党が中国本土を統治するようになったものの、依然としてポルトガルの統治が続いた。しかし、文化大革命さなかの1966年に起きた中国系小学校増築のいざこざをめぐって起きた中国系住民による暴動鎮圧の際、ポルトガル軍警察が多数の住民を射殺したため、これに怒った中華人民共和国政府が軍事侵攻をほのめかしながらポルトガル政府に対して事件の謝罪と以後の中国系住民による統治参加を要求した。これに対して、当時国力が低下し、軍事対立が起きた場合全てを失うと判断したポルトガル政府はそれらの要求をほぼ全面的に呑み、以後中華人民共和国の影響力が増すことになる。
その後、強烈な反共産主義者であったアントニオ・サラザールによる独裁政権下にあったポルトガル政府が中華民国と国交があったのにも関わらず、植民地であるマカオが単独で中華民国と断交するなど、事実上中華人民共和国政府の間接的統制下に入る。
[編集] 返還
オテロ・デ・カルバーリョ大尉率いる国軍左派による1974年4月25日のカーネーション革命の後に、ポルトガル政府は民主化され、当時所有していた全ての海外領土を放棄する方針を採ることになった。その後1976年にポルトガル政府はマカオを特別領として再編成し、行政上及び経済上の自治を多くの点で認めた。
ポルトガル政府は即時移譲(返還)を望んだが、香港の動揺を恐れた中華人民共和国政府が、当分の間の自治を希望したと言われている。その後、1984年に行われたイギリスと中華人民共和国の香港返還交渉に続いて、1987年4月13日にポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印し、マカオの行政権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。
返還後50年間は現状の保全が取り決められているため、現在もポルトガル語も中国語と並ぶ公用語とされ、道路表示や看板など、全ての表示にはポルトガル語と中国語の表記が義務付けられているものの、少数のポルトガル系住人を除くほとんどのマカオ住民の使用する言語は広東語である。
[編集] 地理
マカオの地理も参照。
南シナ海に面するマカオは、中心地となる半島部とタイパ島及びコロアネ島からなる。半島部は、東には珠江(真珠の川)があり、西には西江(西の川)があり、中華人民共和国の本土の珠海経済特区と隣接している。
1970年代以降に大規模な埋立が行われたため、マカオの地形は概ね平坦であるが、多数ある険しい丘が、元の地形の名残をとどめている。マカオ半島は元々島だったが、徐々に砂州が伸びてゆき、狭い地峡になった。
マカオは高度に密集した都市であり、耕地、牧場、森や林はなく、実質的に農業は殆ど行われていない。このために、マカオの人々は伝統的に海に目を向けて生計を立ててきた。
[編集] 行政地域
マカオには、2つの行政上の下部地域がある。
- 北区:澳門半島(マカオ半島)
- 離島区:氹仔(タイパ島)、路環(コロアネ島)
[編集] 政治
マカオの政治を参照。
行政長官は、各業界団体から選出された委員からなる選挙委員会が選んだ者を、中華人民共和国の中央政府が任命する。行政長官は、7~11人からなる行政会と呼ばれる内閣を組織する(誤訳の可能性)。マカオの中国系住民の名望家であり、銀行家でもあったエドモンド・ホー(何厚鏵)が、1999年12月20日に、ポルトガルのロシャ・ヴィエラ(Rocha Viera)総督に代わって中華人民共和国からマカオ特別行政区の初代行政長官に任命された。
マカオの立法機関は立法会であり、直接選挙で選ばれた8人の議員と、職能集団を代表する8人の任命議員と、行政長官が指名する7人の議員で成り立っている。立法会は、あらゆる分野での法規定立の責任を負っている。マカオ市、タイパ島及びコロアネ島は、それぞれ地方議会を有する。
[編集] 法律
法制度は、中華人民共和国に返還された後も概ねポルトガル法に基づいている。マカオには独自の司法制度があり、終審法院(CFA)と呼ばれる上級裁判所も有している。裁判官を選出する委員会が置かれており、行政長官が裁判官を指名する。マカオでは死刑制度が存在しない。
[編集] 経済
マカオの経済も参照。
マカオの経済は、賭博を含む観光産業と、織物や花火の生産に大きく依存しているが、多角化に努めた結果、小規模ながら玩具や造花、電子機器の製造業も始まった。衣類が輸出金額のおよそ4分の3を占めており、GDPの40%以上は賭博に依拠すると推測されている。2000年には800万人を越える観光客がマカオを訪れた。近年では、本土の中国人が賭博と観光の成長を押し上げる主な要因になっているが、香港からの観光客が現在でも最も多い。
1998年頃には経済の暗黒面である暴力団(マフィア、ギャング)の抗争により治安の悪化が伝えられたが、観光産業はそれほど影響を受けなかった。
2002年には、これまでスタンレー・ホー経営の「マカオ旅遊娯楽有限公司」が独占してきたカジノ産業を、香港系の「ギャラクシー・カジノ」社とアメリカの「ウィン・リゾーツ」社にも開放したことが功を奏し、外国からの投資が増え、観光客も1999年の750万人から2005年1900万人と倍増した。観光産業の隆盛で経済は活況を呈しており、中国の一部直轄市や省もマカオ入境を解禁した。
[編集] 通貨
域内の正式通貨としてパタカが用いられる。ただし、香港ドルも通用する。1香港ドル=1.0326パタカ(2006年現在)と微妙に異なるレートだが、ほとんどの店では等価に扱われる(一部の店ではパタカで支払おうとするとこのレート以上に値上げされることがある)。また、カジノのスロットマシーンは香港ドルのコインしか使用できない場合が多い。
なお、香港ではパタカは使用できないので、マカオから香港に行く場合は注意が必要である。
[編集] 交通
[編集] 海運
マカオ港の客船ターミナルから香港のセントラルにあるフェリーターミナルまで、24時間運行の水中翼船が5分-15分間隔で運行されている。他にも中華人民共和国本土にも定期船が頻繁に運航されている。
[編集] 航空
24時間運行のマカオ国際空港があり、マカオ航空などが中華人民共和国本土や中華民国の主要都市のほか、シンガポールやバンコク、クアラルンプールや平壌などのアジアの主要都市との間に定期便を運航している。近年はマカオ航空による日本への直行チャーター便が頻繁に運行されている他、2006年の日中航空協定により、マカオ航空がマカオ-関西空港間に初の定期便が開設予定(現在中国民航局に申請中)。
また、フェリーターミナル屋上のヘリポートより、香港へのヘリコプターによる定期便が15分-30分間隔で運行されている。
[編集] 域内
バスやミニバスの路線が域内を網羅して居る他、タクシーが安価な交通手段として市民だけでなく観光客の足として利用されている。また、市民の足としてスクーターが重宝されている。
なお、地下鉄やモノレールなどの鉄道はなく現在は構想が浮上している状況であるが、実現するまでには時間がかかることが予想される。
[編集] 国民
マカオの人口統計も参照。
マカオを1つの「地域」とみれば、マカオは世界でもっとも人口密度が高い国・地域である。
マカオの人口は95%が華人であり、最も多いのが広東人で、客家人もおり、いずれも近隣の広東省から来ている。残りはポルトガル人や、マカイエンサと呼ばれる華人とポルトガル人の混血を祖先とする人々である。公用語はポルトガル語と標準中国語であり、各種注意書きや道路標示を始めとする公的な表示には2ヶ国語での表記が義務付けられている他、看板の表記などは基本的に2ヶ国語の表記が行われている。しかし居住者は一般に広東語を話し、ポルトガル語はポルトガル人を除けば殆ど使用されていない。また、主な観光地では英語も通じる。
[編集] 文化
マカオの文化も参照。
[編集] 食文化
中国系住民は広東料理系の中華料理を、ポルトガル系住民はポルトガル料理を基本とした食生活をしているが、これらの料理だけでなく、インドやアフリカの料理の要素をも取り入れて融合した、マカオ料理が生まれている。この料理は一見ポルトガル料理風であるが、中華料理の様に皆で取り分けて食べることも当たり前で、中国大陸近辺でとれる食材もうまく活かしている。食事の際にはポルトワインもよく飲まれる。
また、香港同様に茶餐廳や麺類、粥、パン、スイーツなどの専門店も発達している。
[編集] 芸能
基本的に香港の芸能の影響が強く、人気の芸能人も香港・台湾や欧米の出身者である。ポルトガル音楽のファドを歌うグループや粤劇の劇団がいくつかある。
[編集] スポーツ
- 1954年より行われているモータースポーツの祭典であるマカオグランプリが世界的に有名で、1983年より国際格式のフォーミュラ3のマシンによって行われるようになって以来、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハなど多くのレーシングドライバーがここで勝利を挙げた後にフォーミュラ1へとステップアップしている。
- 2007年にアジア室内競技大会が開催される予定である。
[編集] 観光名所
[編集] 姉妹都市・友好都市
[編集] 関連項目
- 歴代マカオ総督一覧
- マカオの歴史
- テディ・イップ
- 中華人民共和国の行政区分
- 香港関係記事の一覧 - マカオ関係記事の一覧も記載
[編集] 外部リンク
- マカオ政府公式ページ(中国語、ポルトガル語、英語)
- マカオ散策ガイド~マカオ観光局~
- 外務省ホームページ(日本語)-地域インデックス(マカオ)-
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