ブキティンギ
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ブキティンギ (Bukittinggi)は、インドネシアの西スマトラ州にある町で、同州アガム県の県庁所在地である。その地名は現地語で「高い丘」を意味する。植民地時代の公称は「デ・コック砦(Fort de Kock)」。
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[編集] 地理
スマトラ島中部の西岸部分を占める西スマトラ州(日本との時差は約2時間)の州都パダンから北へ約90kmの場所、アガム高原の中央部に位置する。町の規模は小さい。
標高約900mにあるため、年間を通して日中の気温は約20℃と安定していて、夜はやや冷え込むが、比較的すごしやすい土地である。
周囲をムラピ山、シンガラン山、サゴ山、パサマン山などの山々に囲まれ、西スマトラでも随一と言われる美しい景観をもっているため、植民地時代から多くの観光客が訪れていた。現在でも、世界最大の母系社会として知られるミナンカバウ族の伝統的な文化に触れることができるため、外国人観光客が多く訪れている。
[編集] 歴史
「商才に長ける」と評されるミナンカバウ族が居住する村として古くから存続していたが、19世紀前半、現地のイスラーム慣習派と、メッカ帰りのパドゥリ派(現地の闘鶏や葉巻喫煙などの慣習を排斥しようとした)との内紛にオランダが介入し、パドゥリ派を制圧するために、1825年、ブキティンギに星型の砦を建設した(パドゥリ戦争)。そのときのオランダ軍の将軍の名前から、砦は「デ・コック砦(Fort de Kock)」と称され、以後、ブキティンギの町もそのように称されることになった。
1942年、オランダ領東インドへの日本軍の侵攻後、今日のインドネシア全域で日本軍政が開始されると、ブキティンギには陸軍第25軍の参謀本部が置かれ、スマトラ島全域を統括することになった(日本軍政期については下記の「最近の日本との関係」も参照)。
[編集] 最近の日本との関係
ブキティンギ市内には、日本軍政期、旧日本軍が築造した防空壕があるが、1987年、インドネシア政府はその遺構を「インドネシア労務者を殺害し、遺棄した穴」という紹介で、国立公園に指定した。そして、その防空壕入り口に、旧日本軍が労務者を殴打するレリーフを設置した。
これに対して、日本人ジャーナリスト加藤裕が旧日本軍関係者(元陸軍主計大佐本庄弘直など)に聞き取りを行い、「現地労働者には日当も支払い、虐殺はおろか負傷者も出ていない」などの証言を得た上で、旧日本軍による虐殺はなかった、と指摘した。
インドネシア政府は、1997年、「旧日本軍は虐殺をしていない。間違いだった。」と公式に認め、このレリーフを撤去させたが、2004年には、依然として現地のガイドがその遺構を「旧日本軍による虐殺の穴」と紹介していることが新聞報道で明らかになった。
また、2002年には、1997年に日本のODAによって建設されたコタパンジャンダムが、自然に悪影響を与えるとして、現地住民3861人(2003年現在8396人、また動物も原告となっている)がダム撤去など原状回復と被害への賠償を求めて日本政府・東電設計・JBIC・JICAを被告として東京地裁に提訴した。2004年現在も係争中である。
[編集] 観光
- デ・コック砦(Fort de Kock)
- ンガライ・シアヌック(Ngarai Sianok)峡谷
- 防空壕(日本の穴)
- 時計台(Jam Gadang)- ブキティンギのシンボルともいえる時計塔。町の各所から眺めることができて、町を散策するときの目印にもなる。
- コタ・ガダン(Kota Gadang)- ブキティンギから徒歩でも行ける距離にある銀細工製作で有名な村。