スフバートル
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スフバートル(1894年 - 1923年)は、モンゴルの革命家、軍人。遊牧民の子として生まれた。スフは斧、バートルは英雄という意味である。ジャミヤン公の私塾で読み書きを学び、後にボグド・ハーン制モンゴル国の国軍に入隊した。1919年頃は印刷所で植字工もやっていたという。
1918年、中国軍が外モンゴルに侵入してキャフタ条約で獲得した自治を撤廃すると、スフバートルは独立運動に参加する。さらに1920年10月、今度は中国軍の無力に乗じてウンゲルン率いる白軍が根拠地を求めてクーロン(庫倫、現ウランバートル)に入り、中国軍を駆逐した。ウンゲルンの政治は苛酷を極めたため、モンゴルの民衆は憤激し、完全な民族の独立を求めるようになった。 1920年、スフバートルやチョイバルサンらはボドー、ダンザン等を中心にモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、スフバートルは軍事部門を担当し、モンゴル人民義勇軍を編成する。同年、モンゴル人民党の援助要請に応じた赤軍と共にまず、駐屯の中国兵を攻撃、キャフタを占領、ついでクーロンのウンゲルン率いる白軍を赤軍とともに撃滅した。1921年7月、人民政府を樹立した。新政府では陸軍大臣兼全軍司令官に就いたが、1923年2月に急死。
社会主義時代のモンゴルでは、その軍事的功績と、革命の早い時期に病死(或いは暗殺)したため、チョイバルサンと共に人民革命の功労者として高い評価を受けていた。しかし社会主義崩壊後の今日では革命家の一人と、相対的に低い評価を受ける一方、共産主義者としてよりは民族主義者として独立運動を展開し、コミンテルンの過度の介入に抵抗したという評価もある。
モンゴルの首都ウランバートルの中心部には彼の騎馬像が今も健在である。
また、モンゴル北部にあるセレンゲ県には、彼の名を冠した首府スフバートルがある。