ガングート級戦艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガングート級戦艦はロシア海軍の戦艦。同型艦は「ガングート」、「ペトロパブロフスク」、「ポルタワ」、「セヴァストーポリ」の4隻ですべて1914年に竣工した。
1908年度の帝政ロシア海軍10ヵ年計画により建造された最初の弩級戦艦。一般的な資料では『イタリアの造船官ヴィットリオ・クニベルティの設計によるイタリア戦艦「ダンテ・アリギエーリ」(Dante Alighieri)の影響を受けている』とよく書かれるが、実際は「フィリブス・ウニティス級」と同じく、ドイツ式の設計の船である。帝政ロシア海軍は「イギリス」「ドイツ」「イタリア」「アメリカ」に技術協力を求め、1907年に国内も含め27社51種の設計案を受け取った。この内、ドイツのブロームウント・フォス社とイタリアのクニベリティ造船士官の案が有力候補となったが、国内で改めて新設計する事に決定した。これがガングート級となったのだが、その設計にはクニベリティ案の影響が大きく見られると「一般には」言われる。その理由として、ガングート級とイタリア初の弩級戦艦ダンテ・アリギエーリ級には非常に多くの類似性がある事が指摘される。
露海軍は引き続き弩級戦艦「インペラトリッツァ・マリーヤ級」および「インペラトール・ニコライ一世級」、「超弩級14インチ砲巡洋戦艦ボロディノ級」の建造に着手するのだが、これらは全てガングートの基本設計プランの域を出ず、前級の不具合を次級に持ち越す上に更なる問題点を生み出すレベルのものであった。(ロシア前弩級戦艦のときでもそれを行い、原設計を出したフランスに責任を押し付けている)即ち『ロシア帝國海軍の弩級戦艦はイタリアのクニベリティ式の流れを汲むもの』と言われる所以となったのである。しかし、各国の艦艇研究者たちがこの時の設計案を見聞した上で、この定説を流布しているとは考えにくい。
ガングート級の竣工時とダンテ・アリギエーリ級を比較すると
- 平甲板型の船体に、4基の3連装主砲塔を等間隔に並べ、背負い式を採用していない。
と言う、外見的特長の共通点が最も目を引き、それ以上の思考的発展性を欠いてしまいやすい。しかし、この二戦艦には見逃す事の出来ない差異がある。それは、艦橋や機関部の配置である。ガングート級は平甲板型の船体に、艦首から前向きの1番3連装主砲塔、艦橋、棒マスト型の主檣、第1煙突、後向きの2番主砲塔、第2煙突、前向きの3番主砲塔、クレーン、棒マスト型の後檣、後向きの4番主砲塔の順で配置されている。それに対し、ダンテ・アリギエーリ級は衝角構造の艦首から第1甲板に前向きの1番3連装主砲塔、箱型艦橋、2本煙突に組み込まれた棒マスト型の主檣、一段分甲板が下がって前向きの2番主砲塔と3番主砲塔、2本煙突に組み込まれた棒マスト型の後檣、後向きに配した4番主砲塔の順に配置される。副砲は前者が全てケースメイト配置、後者が連装砲塔4基+ケースメイト配置の混合である。こうして見ると、波が穏やかで暗礁の多いバルト海で使うために、凌波性を考慮するよりも吃水を浅くしている前者と、必要ならば大洋に繰り出せるよう凌波性を確保する為に艦首甲板を持ち上げた分、吃水が深くなるのをこらえた後者との違いが見えると思う。ちなみに前者の思想は同世代のドイツ弩級戦艦「ナッソー級」「ヘルゴラント級」にも見られる。では、ガングート級のモデルとなった国はどこであろう?
ここで、先述の「ブロームウント・フォス社」案を説明しようと思う。最終選考に残った627-F案は、長船首楼型の船体に、第1甲板に前向きの1番3連装主砲塔、艦橋、主檣、第1煙突、後向きの2番主砲塔、第2煙突、後向きに配した3番主砲塔、後檣、後向きの4番主砲塔、一段下がった後部甲板の順である。こうしてみると、3番主砲塔の配置以外は驚くほどガングート級との類似点が見付かると思う。ちなみに、クニベリティ造船士官の案も説明しよう。第1甲板に前向きに1番、2番3連装主砲塔を前向きに『並列に2基』、艦橋、主檣、一段下がって第2甲板から3番、4番主砲塔を前向きに『並列に2基』、第2煙突、4番、5番主砲塔を後向きに配した背負い式配置に2基の『3連装砲塔6基計18門22,000トン戦艦』を提出していたのである。僅か22,000トンの船体に18門もの主砲を装備した戦艦はカタログデーター的には魅力的だが、実用性に問題があるために却下されたと言われている。以上、これが欧州で知られている「ガングート原案」にまつわる最も最新の研究データーである。
数々の紆余曲折を経て設計が決まったガングート級であるが、船体の設計ミスにより建造が大幅に遅れ、辛うじて第一次世界大戦中に完成したもののほとんど行動できず、更に戦後のロシア革命により1隻が大破し、部品だけを剥ぎ取られた。1922年のソビエト海軍発足時に稼動状態にあったのは3隻のみであり、1925~26年に第一次改装を行った上に再就役となったが、3隻とも第二次世界大戦前の1930年代に第二次改装を受け艦様が一変した。船体は平甲板型の船体に、艦首から新型「1907年型30.5cm(52口径)砲」を納めた前向きの3連装主砲塔、艦橋、棒マスト型の主檣、第1煙突、後向きの2番主砲塔、第2煙突、前向きの3番主砲塔、クレーン、棒マスト型の後檣、後向きの4番主砲塔という順である。副砲は砲郭の盛り上がったケースメイト配置で1905年型12cm(50口径)単装砲を片舷8基で計16門である。他に水雷艇攻撃に7.5cm(50口径)単装砲2基を装備し、当時の標準装備であった45.6cm水中魚雷発射管4基を搭載した。後に対空装備として1935年型7.62cm(55口径)単装高角砲を1番主砲塔と4番主砲塔天蓋部上に3基ずつ計6門搭載し、艦橋・後部艦橋上部に1942年型4.5cm(68口径)単装機関砲6基を3基搭載した。列強に比べて若干、口径が小さく感じられるが、これは霧の立ち込めるバルト海では航空機は高空を飛べないのでこの程度で充分と考えられた。なお、機銃等は艦により搭載数がまちまちで詳しい数は不明である。
本艦は当時最高峰の砲身長を誇り、総合的に見て同世代の弩級戦艦を上回る高い攻撃力を持っていた。前後方向には30.5cm砲3門、12cm砲4門が指向できるに過ぎないが、左右舷側方向には、30.5cm砲12門、12cm砲8門が指向でき強力であると言えよう。ただ、前述の「船体の設計ミス」により、30.5cm砲12門全門斉射を行うと砲煙が艦全体を覆い、煙が晴れるまでは射撃測距不能となってしまうことに加え、副砲操作が振動と衝撃波で阻害される、船体に負担がかかる等の難点があったため交互発射が用いられた。
完成直後にロシア革命のため革命政府の管理下におかれ、艦名も「ガングート→オクチャブルスカヤ・レボルチャ→ガングート」「ペトロパヴロフスク→マラート→ペトロパヴロフスク→砲術練習艦ヴォルコフ」「ポルタワ→ミハイル・フルンゼ」「セバストーポリ→パリジスカヤ・コンムナ →セバストーポリ」へと様々に変更されたのだが、予算や人員の都合から放置されたままとなっていた。1930年代になり政治状態が安定期に入ったため、近代化改修に着手し艦型も艦首を「パリスカヤ・コンムナ」の大西洋回航時の経験からクリッパー・バウへの改正。艦橋・後檣構造の多層・大型化、追い風時の煤煙逆流の障害のあった一番煙突の歪曲化、三番砲塔上部にカタパルト追加に伴うクレーンの大型化、対空火器の更新によって一新されている。
第二次世界大戦では「ガングート」「ペトロパブロフスク」はバルト海で、「セバストーポリ」は黒海でドイツ軍と闘ったが、基本的に沿岸海軍だったソビエト海軍は艦隊戦などを行う技量はなく、当艦も対地砲撃などの支援任務が主であった。大戦を生き残った当艦は1950年代まで練習艦として使用された。
[編集] 竣工時
- 水線長:-m
- 全長:181.2m
- 全幅:26.6m
- 吃水:8.4m
- 基準排水量:23,360トン
- 常備排水量:25,466トン
- 満載排水量:26,692トン
- 兵装:1907年型30.5cm(52口径)3連装砲4基、1905年型12cm(50口径)単装砲16基、1891年型7.5cm(50口径)単装砲2基、1935年型7.62cm(55口径)単装砲6基、1942年型4.5cm(68口径)単装機関砲6基、45.6cm水中魚雷発射管4基
- 機関:ヤーロー重油・石炭混焼缶25基(セバストーポリのみ1938年に重油専焼缶22基に換装)+パーソンズ式ギヤード・タービン4基4軸推進
- 最大出力:42,000hp
- 航続性能:16ノット/4,000海里、10ノット/5,000海里
- 最大速力:23.4ノット
- 装甲
- 舷側装甲:229mm
- 甲板装甲:76mm
- 主砲塔装甲: 203mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
- パーペット部:203mm
- 司令塔:254mm
- 航空兵装:-
- 乗員1,126名