インディアン
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この記事ではアングロアメリカ本土の先住民について扱います。アメリカ州の先住民族参照。
インディアンは、元来はインド人を指したが、この項ではアメリカ州の先住民族のうち、エスキモーやアレウト族・ハワイ人などを除いた諸族の総称の一つについて述べる。
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[編集] 概要
英語のIndianは北米と中南米の先住民族を分けずに両方をさすことが多いが、日本語でインディアンと言えば、エスキモーやアレウト族などを除いた北米の先住民族をさすことが多い。日本語では、ラテンアメリカの先住民族をさす時には、インディオという言葉を使うことが多い。
クリストファー・コロンブスがアメリカ海域に到達した時に、インド周辺の島々であると誤認し、その地の先住民をインディオス(インド人の意)と呼んだことに由来する。インド人(本来の Indian)と区別するためにアメリカ・インディアン(American Indian)、アメリンド(Amerind)などとも呼ばれる。他にFirst Nations、First Peoples、Indigenous Peoples of America、Aboriginal Peoples、Aboriginal Americans、Amerindians、Native Canadiansなどの呼称がある。
なお一括りに呼ばれる事も多いこれらの人々ではあるが、実際には多くの部族が存在し、また部族に固有の文化形態や社会様式を持つ事から、様々な時期に様々な経路を通って段階的に渡来した人々の末裔であると考えられている。人種的にはモンゴロイドの系列にあるとされるが、アラスカ州、北カナダ、北アメリカ合衆国では東北アジア人の顔つきに近い。中南米やそれに近い地域においては東南アジア人に似た部族も存在する等、一様ではない。純粋インディアン部族は東アジア人と変わらない。また、ヨーロッパ人(コーカソイド)との混血、アフリカ黒人(ネグロイド)との混血が進んだ部族も存在している。
記録によればコーカソイド(所謂「白人」を含む)に属するとみなされた部族も存在していたとされる(ヴァイキングがコロンブス以前に北米に到達しているので、ありえない話ではない)。いずれにせよ各部族の衰退や入植者との混血によって、その全貌を知ることは現在では困難である。
なお、そのイメージ(頭に羽をつけ顔に化粧をするなど 本来は戦いに臨んで威容を表わす為のスタイルである)は、西部劇によるところも多い。初期には専ら白人開拓者の敵役とされたが、後年は逆に英雄視する作品が増えた。
また、アメリカインディアンの教えなど、その家庭教育を道徳教材に用いた書籍もある。
[編集] 文化・思想
一様の民族では無いため、一概にその文化を語る事は適切ではない。
だが移動しながらの狩猟生活を送って来た部族が多いとされる。また自然崇拝を行う・独自の精神文化を持つなど、近代以降の文明社会にある人間が忘れがちな自然との調和を重視する精神性に対する評価は、近年のアウトドアやエコロジーのブームにのって見直される例も多く、様々な文化媒体に登場する事もあり、これに注目する人も少なからず存在する。
各々の部族に固有の文化などは、関連項目の各部族の項を参照。
[編集] 近代の歴史(移民との衝突)
コロンブス以降、白人の到来によってインディアンは土地を奪われ、虐殺され、あるいは白人の持ち込んだ伝染病に斃(たお)れた(ヨーロッパ人と接触する以前のインディアンはヨーロッパ土着の伝染病に対する免疫を欠いていたためである)。白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、バッファローなどの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させた記録も残っている。また同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ないとされる。
長い間各国政府は法律を定め、狭い居留地にインディアンを押し込めて合法を装った。なかでも有名なものに1838年10月から1839年3月にかけてのチェロキー族の強制移住がある。これはインディアンの領地で金鉱が見つかり地価が暴騰し、それに目をつけた(後述の法制定時の)大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン強制移住法」を定め、アメリカ南東部のオザーク高原に住んでいたチェロキー族をインディアン準州(現在のオクラホマ州)に追いやった。厳しい冬の時期を陸路で1,000kmも進んだため1万2,000人いたうち8,000人以上が死んでしまった。のちにインディアンの間では、この悲惨さを「涙の旅路(Trail Of Tears)」と呼ぶようになった。
白人との戦いの歴史は悲惨である。インディアンはアメリカ政府との間で、一方的な条約に署名させられるも、白人自らがその条約を破るということの繰り返しとなる。インディアンの中には白人の側について、抵抗するインディアンを非難することもあった。こうした状況の中で、決して条約に署名しなかったスー族のクレージー・ホース(Crazy Horse)、白人を震え上がらせたアパッチ族のジェロニモ(Geronimo)らの抵抗は、戦果をあげたものの、結局は殺されるか降伏することになる。
スー族もチェロキーの「涙の旅路」同様の移住を強いられ、サウスダコタ州の聖地ブラック・ヒルズ(Black Hills)に移り住んだ。条約が結ばれ、白人はブラック・ヒルズを侵さないはずだったが、ブラック・ヒルズに金鉱が見つかると、白人は金を求めてブラック・ヒルズに侵入。またも条約は破られる。抵抗しても無駄な状況下でスー族は、平和なインディアンの国ができるという幻から、ゴーストダンスが盛んになる。この宗教を恐れた白人は、ゴーストダンスを禁じ、それに従わないキッキング・ベア(Kicking Bear)らの一団をサウスダコタ州のウンデッド・ニー(Wounded Knee)に追いやる。白人の話では一人が銃で抵抗したということになっているが、インディアンの話では、一人がナイフを持って手放さなかっただけで200人以上が虐殺された(ウンデット・ニーの虐殺)。ここに白人とインディアンの戦いは終わる。1890年12月29日のことである。白人の歴史では1890年はフロンティアが消滅した輝かしい年となっているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカンインディアンが完全に征服された年なのである。
1960年代、アメリカ国内で黒人の権利、女性の権利が認められていき、世界的な人権・環境保護の意識が強くなってくると、インディアンたちも、過去の搾取への補償と土地返還を要求して立ち上がる。1973年には、アメリカンインディアンがウンデッド・ニーの教会堂を占拠、インディアンに対する補償、土地の返還を要求した。この抵抗は軍が介入、鎮圧されて終るが、以降、政府はこの問題に対する政策を強いられるようになった。しかし充分な施策がとられているとは言えない。
現在では一定の保護政策とそれによる社会保障制度が取られているが、一端破壊された民族アイデンティティの修復は難しく、生きる目的を喪失してアルコール飲料やギャンブルに耽溺するケースが見られるなど、深刻な社会崩壊現象も見られる。中には伝統文化を見世物とし、観光化して生活の糧を得る人も見られ、米国地域社会に溶け込んで生活する人もあるが、その一方でインディアン居住区の中で白人・欧米社会から断絶して暮らす人もある。伝統文化を守る人たちもいるが、その多くは不毛の地、極貧地域で、政府からの補助金が出るため、勤労意欲も削がれるなど、今日的な問題を抱えている。このように、長い差別と民族衝突の歴史が、双方の間に溝を残している部分も根強く、関係修復は簡単ではない。
参考文献: Brown, Dee, Bury My Heart at Wounded Knee, Henry Holt and Company, 1970
[編集] 呼び替え
近年、「インディアン」という呼称について差別を助長するという理由から、ネイティブ・アメリカン(Native American)と呼び替える動きが進んでいるが、これら「アメリカ」を含む単語はアメリカ合衆国内の先住民のみを指す場合もある。一方、「インディアン」と呼ばれることに誇りをもつ先住民はこれを自称し、またその名称を替えること自体が差別的であるとする見解もある。これはそもそもアメリカという地名そのものが後付であるという見解からである。
カナダでは、イヌイットとメティ (Métis、先住民とヨーロッパ人両方の血を引く人々とその子孫) を除く先住民の総称としてファースト・ネーションズ (First Nations) という呼称が一般的であるほか、ハイダ、クリー等の部族名を用いることも多くなって来ている。メティの人々を総称してメティ・ネーションと呼ぶ。また、会話中ではネイティブ・カナディアン(Native Canadian)という呼称が使われることもある。
呼称と差別に関する問題については、ノート:アメリカ・インディアンも参照のこと。