黄権
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黄権(こうけん、?-240年)は、中国の三国時代の人物で、蜀・魏の両王朝に仕えた重臣。字は公衡。子は黄邕・黄崇がいる。
巴西郡閬中の人。最初は劉璋の重臣の主簿として仕え、劉璋が劉備を蜀に入れようとした時は猛反対し、劉璋の勘気に触れて広漢の県長に左遷された。蜀が劉備の支配下に置かれると、劉備自らの訪問を何度も受けて感激して、進んでその臣下となり偏将軍となった。以降は劉備の信頼が厚かったという。222年、劉備が関羽の敵討ちのために呉に侵攻する時にこれを激しく諫めたが、聞き入れられなかったという。止むなく遠征軍に従軍して活躍するが、夷陵の戦いで蜀軍が呉軍に大敗した時、退路を呉軍に断たれたために蜀に戻ることができず、「呉は不倶戴天、仕方なくとしてもこれに降るなど出来ない」と判断し、魏に降伏することとなった。この時、龐統の弟・龐林も黄権と共に魏に降っている。
曹丕は黄権の器量を高く評価し、鎮南将軍・益州刺史に任じて厚く遇した。司馬懿も、黄権を高く評価していたという。そして黄権は以後、魏の臣下として終生仕えた。官位は車騎将軍・儀同三司まで昇り、景侯と諡された。
夷陵の戦いの後、蜀において、魏に降った黄権の家族を捕えるべし、という意見があがったが、劉備は、「黄権が魏に降ったのは彼の意見を聞かなかった自分の責任であって、黄権に非はない」として、黄権の家族を今まで以上に優遇したのである。 魏においても黄権の一族が皆殺しにされたという噂が流れたが、黄権は、「劉備がそのようなことをするはずがない」と言って全く信じなかったという。また、223年に劉備が崩御した時に他の魏臣が朝廷に参内して曹丕に「陛下、めでたいことですな」と祝賀の言葉を述べたのに対して、黄権だけは参内せず自邸で劉備の死に涙を流して喪中に服したという。 これを聞いた曹丕はますます彼を信頼したという。
なお、正史三国志では蜀書に扱われ、東晋の袁宏が著した『三国名臣序賛』においては、蜀の4名臣として諸葛亮・龐統・蒋琬と並んで取り上げられている。