馬騰
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馬騰(ばとう、? - 211年)は、後漢末期の武将。字は寿成。祖先は後漢初期の名将馬援、父は馬平。蜀の武将の馬超の父に当たる。他に息子として馬休・馬鉄がいる。
[編集] 略歴
扶風郡茂陵(陝西省興平県の北東)の人。父・馬平(字は子碩)は天水郡蘭干県の丞(副長官)を務めていたが、何かのことで官位を失い、そのまま隴西(甘粛省南部)に留まり、その地の羌と共に暮らし、羌の娘を娶って馬騰を産んだ。
馬騰は幼い頃貧しかったので、山に入っては木を切って売ることで生活を立てていた。 成人した馬騰は身長八尺(184cm)を越え、容貌も雄異であったが、その性格は温厚かつ賢明であり、多くの人がこれを尊敬した。
中平元年(184年)、霊帝の末、涼州刺史の耿鄙(こうひ)が佞吏を信用したので、氐や羌が反乱を起こした。さらに北宮伯玉・李文侯・王国・韓遂・辺章といった者たちもこれに続いて反乱を起こした。
耿鄙はこれを鎮圧するために郡内から勇敢な者を募集し、馬騰はこれに応募した。馬騰を見た役人たちはこれを只者ではないと見て軍従事に抜擢し、部隊を率いさせた。期待通りに馬騰は功績を挙げ、軍司馬(将軍の属官)に任じられた。
その後、耿鄙が賊軍に殺されたので、馬騰は韓遂らと手を結び賊軍側に入って戦うが、皇甫嵩の軍勢に打ち破られた。
後に軍功を挙げて偏将軍(将軍の最下位)になり、更に征西将軍(上級将軍、長安に駐屯する)となる。
その頃の情勢は、董卓が呂布によって殺され、その後の長安は李傕と郭汜により制圧されていた。馬騰と韓遂は李傕たちに対して恭順の意を見せてそれぞれ征東将軍と鎮西将軍に任じられた。その後、李傕と些細なことで不仲になり、益州の劉焉らと共に長安を攻撃したが失敗に終わり、軍が壊滅して逃走した。
涼州に戻った馬騰と韓遂は義兄弟の契りを結ぶが、その後互いに攻撃しあうようになり、韓遂により馬騰の妻子は殺された。この争いは、曹操の仲介の元に和睦している。その後、馬騰は曹操の命令により、軍の指揮権を放棄して朝廷に出仕して衛尉となった。馬騰軍は馬超が引き継いだが、その後、馬超が曹操と敵対したために馬騰は曹操によって殺された。
[編集] 『三国志演義』の馬騰
『三国志演義』では、後漢朝廷への忠誠に燃える正義漢として描かれており、劉備・董承らの曹操暗殺計画に参加したが、失敗に終わって涼州に帰る。曹操に許昌に呼び出された際に積年の悲願を達成しようと、黄奎と共に曹操討伐を計る。だがその計画が曹操に漏れ、そこで息子の馬休・馬鉄や一族皆殺しとなった。馬騰の死を聞いた馬超は、曹操に対して反旗を翻すことになり、史実とは逆の展開になっている。