蝦夷共和国
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いわゆる蝦夷共和国(えぞきょうわこく)は、明治元年12月(1869年1月)に成立し、蝦夷地(北海道)の地に短期間存在した政権に対する呼称である。明治2年5月18日、箱館戦争終結によって消滅した。
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[編集] 概要
江戸時代後期、1867年に15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。江戸城内では恭順派と徹底抗戦派が対立しており、抗戦派の榎本武揚ら幕臣の一部は1868年8月19日に品川沖から回天など新鋭軍艦数隻にて江戸を脱出し、会津藩へ寄り伝習隊、旧新選組や上野戦争で敗北した彰義隊の残党を吸収し榎本の提案で箱館(北海道函館市)へ向かう。蝦夷地では五稜郭や松前城を本拠地に幕臣達のための開拓地とした。
[編集] 「蝦夷共和国」という呼称
榎本らは「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。(ただし、一部の国から「国家」として承認された。)そのためこの政権は単に箱館政権とも称される。しかし短期間にせよ日本の中央政府の実効支配が及ばない地に国家機構に準じた組織を持つ政権が建てられたこと、また、後になると「日本において初めて欧米共和政体に倣った政権が登場した」とも見なされるようになり、これらの事項が過大評価され「蝦夷共和国」と称されることが多い。だがこの呼称は、歴史学的・学術的な用語と言うよりは、文学的(浪漫主義的)表現あるいは特定の政治思想に基づく表現と見るべきであり、この政権を説明する題名としては不適当であるが、本項目はこの呼称による(米英などの列強諸国は、榎本たちを徳川脱藩家臣団と呼んでいた)。
最初に蝦夷「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、実は外国人であった。1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した英国公使館書記官アダムズである。彼が1874年に書いた著書「History of Japan」において、箱館政庁を"Republic"と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が続出したのであった(下記で述べるように、彼は、公使パークスの訓令に背く形で、"Authorities De Facto"や「厳正中立」といった不用意な発言をしたのだが、その事を正当化する意図も有ったものと推測される)。
[編集] 「事実上の政権」の真相
よく、「榎本政権」は諸外国から「事実上の政権(オーソライズ・デ・ファクトー)」として認められていた、と言われているが、実際には、以下のような経緯だった。
榎本軍が箱館を占領した後、1868年11月4日、英軍艦サトライト、仏軍艦ヴェニウスは、英公使ハリー・パークスより訓令を与えられ、英国公使館書記官アダムズを同行させて箱館に入港した。この時、弁天砲台は、両艦を歓迎する礼砲を撃ったが、両艦とも無視した。翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア、プロシアの領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。
11月8日、榎本は英仏領事と英仏艦艦長と会見した。英仏側の言い分は厳しかったが、公法上諒承せざるを得なかった。会談終了後、榎本は、念のためメモランダムを要求し、英仏艦艦長は諒承した。数日後、彼らは榎本に以下のような覚書を送って来た。
- 我々は、この国内問題に関しては、厳正中立の立場をとる。
- 「交戦団体」としての特権は認めない。
- 「事実上の政権 Authorities De Facto」としては認定する。
つまり、実際には、榎本に好印象を持った出先の英仏軍艦艦長が、本国の意向を無視して勝手に書いた覚書でしか無かったのである(事前に英公使パークスが与えた訓令では、上記のような用語の使用を慎重に避けていたのにも関わらず)。アダムズ書記官が随行していながら、このような初歩のミスを犯してしまったのである。だが榎本は、この覚書を読むなり「これは便利な文章だ。いかようにも解釈できる」と喜んだ。彼自身は、この覚書に関しては、こう考えていた。
- 外交用語では、「局外中立」の場合だけ「厳正中立」と言い、「国内問題」の場合は「内政不干渉」と言う(つまり、「国内問題」に対して「厳正中立」などと言う事自体がおかしい)。
- 「交戦団体」とは、分離独立・政府転覆を企図した場合で、土地よこせなどの実力行使などは次元の低いもので該当しない(榎本自身は、別に日本からの「分離独立」や「新政府転覆」を企てているわけでは無いので、「交戦団体」認定を受ける必要性は無い)。
- 「事実上の政権 Authorities De Facto」とは、占領を完了し、相当に安定し、ほとんど国家の体裁を具えたものを指す。今の場合、まだそこまで行っていないが、おそらくは用語不慣れと箱館の好印象のため、不用意に発した言葉であろう。
[編集] 入札(選挙)
函館政権の「政庁」としての体裁を整えるため、日本で初めて「公選入札」が行われた。
この背景として、幕府脱走軍は榎本武揚が指導者になっているとは言え、元藩主や元幕府老中といった大名クラスも参加しており、君臣の関係が複雑であった。また「陸軍派」と「海軍派」のグループもあり、「陸軍派」の中も、「彰義隊」と「小彰義隊」等の小グループがあり、全体として一枚岩に纏まってはいなかった。そこで、アメリカなどの政治制度を模範に、日本で初めて「公選入札」が行われる事になった。「投票」に参加した「有権者」は、旧幕府脱走軍の指揮役(士官)クラス以上であり、下士官・兵卒クラスは除外、むろん箱館住民も参加していない。2月15日の政府誕生と同時に日本初の「入札(選挙)」がおこなわれた。
[編集] 投票結果
「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであった。
- 榎本武揚:156
- 松平太郎:120
- 永井尚志:116
- 大鳥圭介:86
- 松岡四郎二郎:82
- 土方歳三:73
- 松平定敬:55
- 春日左衛門:43
- 関広右衛門:38
- 牧野備後守:35
- 板倉勝静:26
- 小笠原長行:25
- 榎本道章:1
このように榎本武揚が最大投票を得た。ただし、圧倒的多数ではなく、各グループごとに投票は分かれている。
[編集] 閣僚
この「入札」の結果を参考にして、主要閣僚は以下のように決定された。
- 総裁 榎本武揚
- 副総裁 松平太郎
- 海軍奉行 荒井郁之助
- 陸軍奉行 大鳥圭介
- 陸軍奉行並 土方歳三
- 箱館奉行 永井尚志
- 箱館奉行並 中島三郎助
- 江差奉行 松岡四郎二郎
- 江差奉行並 小杉雅之進
- 松前奉行 人見勝太郎
- 開拓奉行 沢太郎左衛門
- 会計奉行 榎本道章(対馬)
- 会計奉行 川村録四郎
- 軍艦頭 甲賀源吾
- 歩兵頭 古屋佐久左衛門
- 陸海軍裁判頭取 竹中重固
- 陸海軍裁判頭取 今井信郎
「入札」で票を得た者が、全て閣僚になっては居ない事が分かるだろう。
[編集] 地元住民との関係
こうして、見かけだけはどうにか「政権」としての体裁を整えたかに見えた旧幕府脱走軍であったが、台所事情は悪化し、前もって用意していた軍資金も乏しくなっていた。そこで旧幕府軍において資金調達を担当していた会計奉行の榎本道章と、副総裁の松平太郎は、貨幣を偽造してばら撒き、「脱走金」の悪名を流すことになった。更には、縁日の出店を回って場所代を取り立てたり、賭博場を黙認する代わりに寺銭を巻き上げたり、はては売春婦から税を取ったり、市内に関門を設けて女子供にまで通行税を出させるなどといった事を行い、住民の反感を買うことになった。それでも、いよいよ財政的に行き詰まった旧幕府軍首脳は、箱館の豪商から金品を徴収しようとしたが、これは土方歳三が強硬に反対して取り止めになった。だが、住民からは旧幕府軍に対する信頼は消えうせ、新政府側のゲリラ組織「遊軍隊」に参加したり、新政府軍に内通する者も出てくる始末であった。
[編集] 軍事組織
旧幕府軍は陸軍と海軍に分かれ、以下のような組織となっていた。なお「列士満」と言うのは、フランス語のレジマン(regiment:連隊)をそのまま当て字にしたものである。
- 海軍(海軍奉行:荒井郁之助)
[編集] フランス人軍事顧問
1867年から横浜の大田陣屋で幕府伝習隊の教練をしていたフランス軍事顧問団から副隊長ジュール・ブリュネ砲兵大尉や約10人がフランス軍籍を脱走して蝦夷政権に参加した。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となり、4個「旅団」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。参加したフランス軍人らは五稜郭陥落前に箱館沖に停泊していたフランス船に脱出している。これらフランス軍人の通訳は横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎(応親)らが担当した。