藤田康邦
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藤田 康邦(ふじた やすくに、1513年(永正10年) - 1555年(弘治元年))は、戦国時代の武将。武蔵国の豪族藤田氏当主。右衛門佐。初名は重利。関ヶ原の戦いの原因を作り出した上杉氏の家臣・藤田信吉の父に当たる。
はじめ山内上杉氏に仕え、 天神山城を守っていた。しかし北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の子・北条氏邦に娘を娶らせ、藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦(氏康の「康」と氏邦の「邦」)に改めたのもこの頃とされる。
康邦には実子に重連・信吉がいたが、彼らは北条家にとっては邪魔者でしかなかったようで重連は沼田城城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、弟信吉は武田勝頼に寝返っている。