荘王 (楚)
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荘王(そうおう ? - 紀元前591年 在位紀元前614年 - 紀元前591年)は中国春秋時代の楚の6代目王。姓は羋、氏は熊、諱は侶、または旅とも。楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、春秋五覇の一人に数えられる。成王員(春秋五覇の一人とされる)の孫で、暴君だった商臣(穆王)の嫡子。共王審の父。
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[編集] 鳴かず飛ばず
父の死により即位した直後、まだ若い王であったため、公子の一人・燮(しょう・言の字の両側に火、その下に又の字)が謀反を起こした。一旦は首都と王室を完全に支配下におき、自ら王を名乗ったが反対勢力の拡大に身の危険を感じ、王である荘王を拘束して、北方へ逃げた。晋と秦と楚の国境近くの商密というところで反攻を開始しようという狙いからであった。ところが途中の盧(ろ)という町で燮は殺された。荘王は解放され首都にもどった、ということがあった。それ以降、荘王は全く政治を見ず、日夜宴席を張り、諫言する者は全て誅殺すると宣言した。家臣達は呆れ返ったものの諫言も出来ずに見守っていたが、三年目に伍挙(伍子胥の祖父)が「謎かけをしたいと思います。ある鳥が三年の間、全く飛ばず、全く鳴きませんでした。この鳥の名は何と言うのでしょうか?」と言い、荘王は「その鳥は一旦飛び立てば天まで届き、一旦鳴けば、人を驚かせるだろう。お前の言いたい事は解っている。下がれ。」と言った。その後も淫蕩に耽ったが、太夫蘇従が死を恐れずに諌めたので、これを期に荘王はそれまでの擬態を解いた。
荘王は、三年間、愚かな振りをする事で家臣の人物を見定めていたのである。伍挙と蘇従に国政を取らせ、目を付けておいた者を新たに数百人登用し、悪臣を数百人誅殺した。この故事からじっと機会を待つ状態の事を「鳴かず飛ばず」と言うようになった。(ただし現在では長い間ぱっとしないと言う意味で使う事が多い。また斉(田氏斉)の名君の威王にも荘王と同様の逸話が見られた。)
[編集] 問鼎
国政を整備した荘王は周辺諸国を圧迫し、領土を広げ、紀元前606年に周の洛邑郊外に兵を留めさせた。周から使者が来ると荘王は九鼎(殷から受け継がれた伝国の宝器。王権の象徴とされた。)の重さをたずねた。周の王位を奪おうと言う一種の恫喝である。その場は周の使者王孫満が上手く言い抜けたので荘王は引き上げた。この故事から相手の価値を疑う事を「鼎の軽重を問う」と言うようになった。
[編集] 絶纓(ぜつえい)の会
荘王はある夜、臣下たちを宴に招いた。 皆、心ゆくまで酒を飲み、多くの者が酔った。宴もたけなわの頃、正殿の蝋燭(ろうそく)が風に吹き消された。と、その時、蒋雄という者が后の召し物に触れてしまった。 后はすぐさま、蒋雄の纓(冠のヒモ)を引きちぎり、荘王にこう言った。「蝋燭が消えた隙に、私に無礼を働いた者がおります。私はその者の纓を引きちぎりました。蝋燭を灯しさえすれば、それが誰だかすぐわかります」 すると、荘王は、「みな、明かりがつかぬ間に纓を引きちぎれ」と命じ、一同がその通りにした。 そのおかげで蒋雄は罪を問われずに済み、蒋雄は心から荘王に感謝した。 その後、楚が秦に苦しめられたとき、蒋雄はいざこの時だ、とばかりに先陣を切り、大功を立てた。 そして荘王が蒋雄に向けて「よくやってくれた。だが、わしはお前をそこまで大事にした覚えはないのに、何ゆえ命を惜しまずにここまでやってくれたのか?」と聞いてみた。 すると蒋雄は「いいえ、王は私を救ってくださいました。私は絶纓の会の時、后様のお召し物に触れた者です」と答えた。 この故事にもあるように荘王の人格は、寛容な心を持ち、女にも迷わない立派な君主と言える。
[編集] 春秋の覇者へ
荘王はさらに陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。紀元前597年、鄭の援軍に来た晋軍を邲で撃破した(邲の戦い)。この時の晋軍では逃げる船に乗る時に、転覆する事を恐れた兵士が船にしがみついている兵士の手を切り落としたので、船の中には指が手で掬(すく)えるほど溜まったという。
大勝の後、臣下から京観(討ち取った敵兵士の遺体を使ってつくる戦勝のモニュメント)を作る事を進められたが荘王は却下する。武という字は戈を止めると書き、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和し、財を豊かにするためのものである。自分がしたことはこの武徳にはあてはまらず、その上忠誠を尽くした晋兵の遺体を使って京観を作る事はできない、と言う理由からである。(実際は武とは戈を進めるというのが原義であるといわれている。)紀元前591年、死去した。
周に対する尊王の志は薄いが、その権威は天下を覆ったと言えるので、『荀子』「王覇篇」をはじめとして、荘王を「春秋五覇」に挙げる漢籍は多い。