自然状態
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自然状態は、政治哲学上の用語としては、政治体を構成しないバラバラの人間達が生むであろう、人間間の様子である。逆に政治体を構成している人間達は「社会状態」に入ったなどと言われる。以下は政治哲学におけるものに絞った解説である。
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[編集] 自然状態と社会契約説
「自然状態」は、17~18世紀のヨーロッパにおいて、社会契約説を成り立たせるための理論的架空として政治哲学者達が案出した。代表的な論者にトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー等がある。社会契約説は今ある政治体が人民を支配する根拠付けとして、人民自らが契約して政治体を作ったからとするもので、必ずしも政治体の発生史を正確に跡付けている保証はないが、政治体の存在を当たり前のこととせず、人民が省察して良いのだと転換したことに大きな意義がある。この社会契約説が当代または後代、ヨーロッパの市民革命の理論的基礎となったのである。
自然状態をどう見るかによって次節のように以後の議論が分かれるが、いずれも自然状態を、それだけで完全に自足的かつ持続可能な状態とは考え得ないことで共通している。であればこそ、わざわざ無限の自由を捨てて、人間は社会契約を結び、政治に縛られる社会状態へと入るという選択を余儀なくされるのである。
政治体の存在根拠を求めて自然状態論に行き着いた彼らは、思想史的に考えれば、当時猛威を振るっていた「王権神授説」に対抗するために、極めて慎重な議論の歩みを進めたと評価できる。王権神授説が聖書を根拠にする以上、それを凌駕する緻密さが必要とされたのである。
[編集] 自然状態と自然権 と自然法
自然状態論は殆ど自然権に関する議論を伴う。自然権は自然状態において人間が持つ権利である。社会状態においてもそれは人権の基礎、ないしは根元的原因となる。(政治体が或る種の論者の説く自然権を、そのまま人間生得の権利として国法上保障することは、むしろあまり無いかも知れない。しかし社会契約説を政治体設立の根拠とする以上は、社会契約がない状態・つまり自然状態において人が持つ権利--というよりは殆ど実力--を無視することはできないだろう。)
そして自然権は、自然法と関わる。しかし自然権と自然法の向き合い方は、論者によっては対立的であり、また非対立的でもある。
[編集] 自然状態は単なるフィクションか
内包する不安定性ゆえに直ちに社会状態へと移行せざるを得ない運命の存在、自然状態はそのようなものに見える。だとしても、例えば宇宙草創期のすぐ消え行く素粒子を思い起こせば、たとえ目にすることはなくとも、社会を成り立たせた基本的力としての自然権・その展開する場としての自然状態は、決して無意味な理論的架空ではない。
そして今でも、革命や無政府状態は現実に日々起き、その悲惨の中にわれわれは自然状態を見ることすらできよう。ホッブスのいう「自然状態」は言うまでもなくフィクションであるが、実在し得ない架空、と切り捨てることはあまり生産的ではない。
[編集] 自然状態論の諸相
論者によって、自然状態の仮定内容およびその帰結するところは、大きく異なる。
[編集] ホッブズ
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- 「万人の万人に対する闘争」、この有名な文句でホッブズは、自然状態において個人が基本的に平等で、それゆえに競合状態にあることを端的に表した。ホッブズによれば、個人の能力はほかの個人を完全に従属させるほどには不平等なものではない。また人間にはほかの動物と異なり、理性という予見能力があるので、動物が現に生存を脅かされたときのみ生存の危機を感じるのに対し、人間は未来の生存の危機から現在の生存を守ろうとする。現在のみの生存が現に生きていることによって保証されるのに対して、未来の生存はいまだ明らかにされていないのだから、保証されることがない。ゆえに人間においては生存の優位はつねに相対的である。そのため未来の生存を確保するための欲望は際限がない。またこのような未来の生存を確保するために暴力などの積極的な手段に訴えることは自然権として善悪以前に肯定されるものとされた。
- 前述したように、個人の能力は他人を完全に従属させるほど強力ではないから、このような競合状態は基本的に永遠に続く。
- ところで、個人にとって最大の不幸は死、とりわけ自分の意志に反して他人の暴力によってもたらされる死である。他人の暴力は他人の自然権に由来する者であるから、自然権は矛盾を孕んでいることになる。このことから予見能力としての理性は「各人の自然権を制限せよ」という自然法を導く。
- さて自然権は理性の予見能力に基づいていることから、自然権を制限するということは理性、すなわち判断力を委ねることである。社会契約とは、ある一者に自然権の判断を委ねることである。社会契約により個人は暴力も、ましてや生存権も放棄するものではないが、社会契約の結果としての国家理性、リヴァイアサンに自然権の判断を委ねるのである。ホッブズにおいては自然状態は不完全で、自己完結していない状態と考えられている。
- ホッブズにおいて注意すべきことは、社会契約を結んでリヴァイアサンが形成されたとしても、個人間の闘争が決着するのみで、リヴァイアサン同士の闘争は永遠に続くということはカール・シュミットの指摘するところである。
[編集] ロック
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- 出発点においてホッブズと異なり、自然状態を各人の自然権が鋭く角逐する場とは見ていない。自然法は自然状態からの脱出を命ずる理性ではなく、自然状態において行われるべき正しい法である。自然権は、自然状態における自然法が保障する各人の正しい取り分である。(他人に、十分な良い物(goods)を残す限り、各人は好きなように収穫して良い、とロックはする)
- しかしこの平和な自然状態は、常に揺れ動いていると言い、結論的にホッブズとあまり変わりのないことになる。すなわち、自然権(取り分)を保障する力・自然法は弱く、すぐに破られる。よって自然法を守らせる政治力が必要となる。
- そこでホッブズ同様に政治体を構築することになるが、ロックの強みは、その政治体の構成・運営についてホッブズのような悲観に走ることなく、辛抱強く細かい機関を案出し、暴政に走らない工夫をしたことである。また、根本的に自然状態に対する楽観視があるため、せっかくの政治体が暴政を行って社会契約による信託を裏切る場合には、自然状態に一時的に復する危険を冒してでも、政府を覆す権利が当然留保されていると説く(革命権)。
- これらは、ホッブズが単に非王権神授説的であるだけで結果として非自由主義的な政治体を構成してしまったことへの反対論と捉えられる。が、ここももはや別項に譲るべきだろう。
[編集] ルソー
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- ルソーは自然状態では人間は真に自由であったし、自然権も調和して保たれていたと説くが、悪い人間が他人の自然権を掠め取り、自由を奪ってしまったとする。一見自然状態が自足的・持続的で理想的と思えるが、他人が奪い取り得るのだから、やはり脆弱なのである。
- よって、やはり自由の回復は、単純な自然に還ることでは成し遂げられず、社会状態という第二の自然に入ることでしか得られないのである。
- ルソーは、現実の政治体の運営の構想では、ロックよりは精密さが欠ける。市民総会による決定を重視し、議会を認めるとしてもそれは市民総会多数派の意思(一般意思)を執行するのみで内部での分派を許さないという、いわば革命評議会のようなものである。それでうまく運営される根拠とは、一般意思は決して誤らないという点にあるとする。
- 一般意思は、人々が失われた自然状態を第二の自然として回復すべく社会状態へ入る際も、鍵の役割を果たす。憲法制定権力である。しかし、もうそろそろ別項に譲るべきだろう。
[編集] 自然状態論の今日の日本における意義
自然状態、ないしは社会契約説は、政治体設立の根元を問う議論である。今日の日本で、政治体が何の目的で、どのように人民の意識的営為を経て設立されたか(ないしは日々設立・更新されているか)を意識することは、極端に少ない。“上からの民主化”、“強大すぎる官”などと言われ、それで仕方がないとする風潮であるが、自然状態--政府がなかったらどうなるか--を少し省察するだけで、我々には善し悪しはともかく政府が必要だと意識できるだろうし、すると、どの道設立せざるを得ない政府なら、少しでも人民の役に立つ政府・人民にとって暴政の危険の少ない政府を求めるように、自然になるだろう。われわれが果たし得なかった革命の追体験の役割を常に果たしてくれるものと考えられる。
[編集] 関連項目
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