胡亥
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胡亥(こがい、紀元前229年? - 紀元前207年、在位:紀元前210年 - 紀元前207年)は、始皇帝の末子で、秦の第二代皇帝。帝号は二世皇帝。姓は嬴(えい)。長兄に扶蘇がいる。
[編集] 略歴・人物
父・始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯とかつての胡亥のお守役で始皇帝の側近の趙高に擁立されて即位。だが、このことに疑問を抱くものが少なくなかったようで、胡亥は即位直後から趙高の勧めに従い、公子高ら兄弟を含む皇族や重臣を粛清。さらに、始皇帝の陵墓や「阿呆」の故事のもととなる阿房宮、万里の長城の建築を急ぎ、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行ない、人心の反発を買う。
その結果、紀元前209年に陳勝・呉広の乱の挙兵を招く。これは半年あまりで鎮圧したものの、胡亥は人心を無視して、さらなる大工事や贅沢な暮らしをしてさらに人心の反発を招き、これを諌めた李斯を趙高の讒言により処刑してしまう。この頃から、楚の項梁を中心に再び反乱の勢いが強まり、秦の軍隊の力では対応できなくなる。だが、宮廷に引き籠り、趙高に全てをまかせきっていた胡亥にはまったくその情報は入らなかった。趙高が、反乱に関する情報を全て握りつぶしていたのである。この時期に、趙高がわざと鹿を「これは馬です。」と言って、胡亥に献上した、いわゆる「馬鹿」の故事のもととなる出来事があったようである。
紀元前207年になると秦軍は各地で反乱軍に敗退し、なかでも劉邦に率いられた軍は咸陽のすぐ近くに迫っていた。ようやく状況の悪化を知った胡亥は趙高の責任を追及し、身の破滅を恐れた趙高は一族を率いてクーデターを起こす。その結果、胡亥は捕らえられ命乞いをしたが叶わず、24歳の若さで自殺させられた。
胡亥が即位するに当たって、始皇帝が長子の扶蘇に継承させる遺書を残したが、趙高と李斯によって握りつぶされたと『史記』には書かれているが、この話を趙高・李斯・胡亥以外の人間がどうやって知ってどうやって世間に流布したのであろうか?誰かが胡亥と趙高を悪とするためにこのような噂を流布したのではないかとの疑惑がある。
また『史記』では、胡亥が趙高の口車に乗せられて女や酒に溺れ、また国の反乱なども趙高により全て握り潰されていたために全く知ることも出来なかったりと、愚行を繰り返した挙句、馬鹿の故事成語に象徴される暗君として国を滅ぼしたように描かれているが、近年の研究では、それとは多少異なる説が出されている。一般に始皇帝によって、国毎にまちまちだった度量衡などの諸制度が統一されたように言われているが、そのようなものは、秦の根拠地であった関中を除けば、あまり出土しておらず、また、史記でも始皇帝が諸制度を完全に統一したという記述はされていない。実際には、基準としての単位を新たに秦で通用していたものに設定しただけのようである。また、史記では、始皇帝の時代には貨幣の改鋳が行なわれたという記事はなく、胡亥が即位してまもなく、それが行なわれたとある。故に、胡亥の時代に行われた経済政策の失敗が秦滅亡に繋がったのではないかというのである。これについては、さらなる研究の成果が待たれる。