童夢 (自動車会社)
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株式会社童夢(どうむ、英文名称:Dome Co., Ltd.)は、代表者・林みのるが1975年に京都府に設立したレーシングカーコンストラクター。現在は滋賀県米原市に本社を置く。
1978年にジュネーブショーにて『童夢-零』を発表し、その斬新なデザイン(デロリアン、ストラトスのようなデザイン)から一躍脚光を浴びた。当時の運輸省の不認可により市販化はかなわなかったが、数多くのプラモデルやミニカーが作成され、このキャラクター使用料収入が、その後の童夢の飛躍的発展へとつながる。
1991年~1995年まで自社製の全日本F3000向けマシンを製造し、1994年には童夢F104を駆るマルコ・アピチェラが同シリーズのドライバーズタイトルを獲得。さらにテスト用マシンを開発して本格的なF1への参戦を画策したが、資金面で参戦が困難であったため、プロジェクトを断念した。(F1断念の理由は、表向きは資金面とされているが、真相は今もなお林みのる氏本人の胸の中であると言われている。)
2000年には米原工業団地の中にレーシングカー開発用の50%スケール風洞「風流舎」を建設。また同年、ロンドンに販売子会社としてDome Cars Limitedを設立した。2001年には元ムーンクラフトの小野直衛氏が設立した「有限会社ウィスカー」を買収する形で、製造部門を担当する子会社「株式会社童夢カーボンマジック」を設立。2006年に本社及び童夢カーボンマジックを風流舎の隣接地に移転し、日本国内におけるオフィス機能を米原工業団地に「童夢レーシングビレッジ」として集約する一方で、タイに製造子会社「童夢コンポジット・タイランド」を設立した。
2005年シーズンは、SUPER GT(旧・全日本GT選手権)に「Team Honda Racing」として、ARTAとのジョイントの形でTAKATA童夢NSX・ARTA NSXの2台をエントリーするもチャンピオン獲得はならず。またル・マン24時間レースにも、ワークスチームとして童夢S101-Hb(Hbはハイブリッドの意)で参戦したがリタイアに終わった。 2006年には、DOME 101 HbiとしてDOME 101-HBの進化系マシンにてルマン参戦を果たすも、3位走行中に惜しくもリタイヤ。2007には、DOME 101のさらなる進化形態であるDOME 101.5でのルマン参戦を予定している。
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[編集] 主な開発実績
- ホンダNSX-GT(全日本GT選手権、SUPER GT参戦用車両)
- フェラーリ360モデナ(全日本GT選手権、SUPER GT参戦用車両)
- 童夢S101(オープンプロトタイプカー)
- 童夢F101~F104i(全日本F3000用シャーシ)
- 童夢F105(F1参戦用テストマシン)
- ローラ童夢F106(F3用シャシー)
- 英ローラと共同開発(といっても実質的には開発は童夢が担当し、ローラは販売代理店という位置づけ)
- 童夢F107(F3用シャシー)
[編集] TAKATA童夢NSX
シートベルトやチャイルドシートのメーカーとして有名なTAKATAをメインスポンサーとしている。ホンダワークスで、参戦当初はavexがスポンサーだった。また、2003年までは黄色系のカラーリングだったが、2004年からは緑系のカラーリングになっている。
1997年の第2戦より参戦を開始。1999年に金石勝智、脇阪寿一のコンビで開幕ポール・トゥ・ウィンを挙げる。翌2000年は脇阪がポールポジションを4回獲得するなど、予選最速マシンだった。2003年に道上龍が移籍してきて、ホンダのエースマシンとなる。レギュレーションの変更で苦しい戦いを強いられたが、軽量化や空力関係の改良、そしてエンジンパワーを引き上げたおかげで苦手とする富士スピードウェイで優勝を飾った。
2004年は2003年までのNAエンジンのままではパワー不足であるためにこのままでは闘うの厳しいと判断し、思い切ってターボエンジンに変更したが、なかなか上位に入れなかった。2005年はターボエンジンがエンジンスペースの関係で開発がうまくいかなかったため新たに車体を設計し、ベース車両をより大型にしたNSX-R GTにし、同時にエンジンスペースを拡大したため前年型に比べて信頼性が向上した。しかし、リストリクターの影響でパワー不足で、またブレーキング時に不可解なピッチングも生じさらにターボエンジンの補機類の重さでバランスも狂ってしまい、苦戦を強いられた。このことを受けて、第4戦よりターボエンジンからNAエンジンに変更した。このエンジンは、2003年のものとは違う全く別に設計されたものである。このおかげでバランスも改善されパワーも少なからず以前のターボエンジンより上がった。また、ピッチングの問題に関しても空力関係の改良で改善された。しかし、アクシデントに巻き込まれたりするなどで優勝争いになかなか絡めずにシーズンを終えた。
2006年は前年型をさらに改良し熟成したマシンで参戦。第2戦では2003年以来となる優勝を飾った。近年不調であったが、ここにきてようやく復調した。
なお、2004年型は2005年7月29日~8月7日に開催されたわくわく宝島の「わくわくGT選手権」と言うブースに展示された。
[編集] ARTA NSX
2004年までは自チームでの参戦であったが、2005年からは童夢でメンテナンスを行いTAKATA童夢NSXと同チームで参戦する事となった。メインスポンサーはオートバックスが引き続きつとめる。なお、2004年以前については、ARTAを参照のこと。
2005年は伊藤大輔とラルフ・ファーマンのコンビで参戦。当初は伊藤とジョナサン・コシェのコンビになる予定であったが、開幕前に変更となった。シーズン序盤はマシンの不調のため苦戦を強いられた。これを受けて第3戦より他チームに先駆けてターボエンジンからNAエンジンに変更。このおかげで復調しこの後ポールポジション3回、優勝1回という好成績を収めた。アクシデントやトラブルによる影響でリタイヤや戦線離脱が余儀なくされた以外は好成績を収めて安定感もあった。最終戦までタイトル争いを繰り広げたが、惜しくも獲得ならなかった。
2006年も伊藤大輔とラルフ・ファーマンのコンビで参戦。マシンはさらに磨きのかかったものになった。開幕では圧倒的な速さでポールを獲得するも決勝は強風の影響で空力バランスが乱れペースが上がらず優勝を逃した。以降なかなか上位に食い込めなかったが、 第4戦セパンでトラブルに見舞われながらも優勝を飾った。
[編集] 関連項目
- テレビCMを放送しているが、残念ながら関西地区のみの放送となっている。
[編集] 外部リンク
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