立憲同志会
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立憲同志会(りっけんどうしかい)は、、1913年に成立した大正時代の日本の政党。元は内閣総理大臣桂太郎(結党2ヶ月前に病死)を党首にする予定であった事から「桂新党」の異名があった。
護憲運動に遭遇した第3次桂内閣において桂首相は自派の官僚と桂に気脈を通じる代議士らとともに結成しようとした桂新党運動を基礎とした。立憲国民党からの入党はあったが、立憲政友会の離反を招き、又、期待した田健次郎など官僚や貴族院からの入党もさして上手くいかなかった。昂揚する第一次護憲運動で帝国議会を大衆のデモが取り巻く中で桂内閣は総辞職。桂首相も失意の内に癌で死去した。桂の死後、新総裁の有力候補と目されていた後藤新平と、仲小路廉は同志会から脱党する。その後、大浦兼武と加藤高明が総裁候補として対抗したが、1913年12月23日総理に加藤高明、総務委員に河野広中、大石正巳、大浦兼武の3名を選出し正式に結成された。
同志会は第一次山本権兵衛内閣では野党となり、山本内閣をシーメンス事件で攻撃した。続く第二次大隈重信内閣では一転して与党となり、加藤高明外相・大浦兼武内相・若槻礼次郎蔵相を閣内に送り込んだ。1915年の衆議院総選挙で第一党に躍進したが、同時に大浦内相が選挙干渉事件をおこした。翌1916年6月大隈内閣と与党間に合同運動が持ち上がり、10月10日尾崎行雄らの中正会・大隈系の公友倶楽部と合同して憲政会を結党する。