立原正秋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
立原 正秋(たちはら まさあき、金胤奎、キム・ユンキュ、김윤규、1926年1月6日 - 1980年8月12日)は、日本の小説家・作家。朝鮮慶尚北道(現在の韓国慶尚北道)安東郡生れ。早稲田大学国文科中退(入学時は法律学科)。
小林秀雄を導き手として世阿弥の芸術論や能曲をはじめとする中世の日本文学に深く沈潜し、「中世」をみずからの創作活動の原点とした。
父の病没後、母が渡日したのをうけ日本に定住。丹羽文雄主催の『文学者』に参加し、小説を書き始める。「薪能」「剣ヶ崎」が芥川賞、「漆の花」が直木賞候補となり、みずからを「純文学と大衆文学の両刀使い」と称して流行作家となる。1966年、「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。大人の愛を描いた小説に人気がある。
編集者としても、同人雑誌『犀』を刊行したり、第7次『早稲田文学』の編集長を務めるなどし、吉田知子、古井由吉ら多くの作家、評論家を世に送った。食道癌で死去する2ヶ月前に、ペンネーム「立原正秋」への改名が認められ、これが本名になる。美食家としても有名だったが、小島政二郎の美食随筆に対しては「味なんか何も分らない人だ」と徹底的にこきおろした。
代表作に『冬の旅』『残りの雪』『冬のかたみに』など。『秘すれば花』『日本の庭』など、随筆も多い。全集が角川書店より2度刊行された。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼少時代
1926年1月、金敬文、権音伝(ともに朝鮮人)の子として朝鮮慶尚北道安東郡西後面耳開洞に生まれ、胤奎と名付けられた。父は天燈山鳳停寺の僧。自筆の年譜によると、「父母ともに日韓混血で父は李朝末期の貴族より出で金井家に養子にやられ、はじめ軍人、のち禅僧になった」とあり、在日韓国人の苦悩がうかがえる。
5歳のときに父が死に、母と弟と異父妹はその4年後に横須賀に移り住んだので、叔父の権泰晟(永野哲秀)のもとへ預けられた。11歳で母の再婚先の野村家に移り野村 震太郎と名乗り、衣笠尋常高等小学校尋常科(5年)に転入される。翌年には横須賀市立商業学校に進み、文学に親しむようになる。創氏改名により、金井 正秋となる。
[編集] 小説家時代
1945年に早稲田大学法律学科に入学。翌年に小説家を志し、国文科の聴講生となる。大学の創作研究会懸賞小説に応募し、「麦秋」で入選するが、原稿は行方不明になってしまい、発刊もされなかったので、幻の処女作となった。
1947年より米本文代と結婚生活を始め、日本国籍を取得。相手方の姓をとって、米本 正秋となった。日本の古典、とくに中世の古典に強く惹かれ、能、陶磁器、日本庭園などを好み、世阿弥の『風姿花伝』で作家としてのあり方を学ぶ。小説を本格的に書き始め、丹羽文雄主催の『文学者』に載った「晩夏 或は別れの曲」は、現存する最初の作品である。このときの筆名「立原正秋」が、以後の通り名となる。1961年に「八月の午後と四つの短編」で第2回近代文学賞を受賞。1964年、『新潮』に発表した「薪能」が芥川賞候補となり、これが初めて単行本として出版された作品である。翌年には「剣ヶ崎」で再び芥川賞候補。『別冊文藝春秋』第93号に発表した「漆の花」は直木賞候補、第94号に発表した「白い罌粟」で、翌年直木賞受賞。
「薪能」が芥川賞候補となった年に、同人雑誌『犀』を刊行(~1967年)。1968年より第7次『早稲田文学』編集長を務める。
1968年より初の新聞連載「冬の旅」を『読売新聞』で開始。1973年からは『日本経済新聞』で「残りの雪」、3年後には「春の鐘」を掲載した。1979年に『読売新聞』で「その年の冬」の連載を開始するが、体調を損ねる。翌年、書き下ろし小説『帰路』発表の後、聖路加国際病院に入院。立原姓に改めた2ヵ月後に、国立がんセンターで食道癌により死去。鎌倉の瑞泉寺に葬られた。
[編集] 主な作品
- 薪能
- 剣ヶ崎
- 漆の花
- 白い罌粟
- 冬の旅
- きぬた
- 残りの雪
- 春の鐘
- 帰路
[編集] 参考文献
- 高井有一『立原正秋』、新潮社、1991年11月。ISBN 4-10-311605-6(のち、新潮文庫に収録、1994年12月刊。ISBN 4-10-137411-2)
- 武田勝彦・田中康子編著『立原正秋小説事典』、早稲田大学出版部、1993年9月。ISBN 4-657-93418-X
[編集] 雑誌特集号
- 『太陽』第425号(特集=立原正秋)、平凡社、1996年8月。