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Wikipedia‐ノート:検証可能性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

目次

[編集] 訳語の選択

[編集] Verifiability

JAWPでは既に長らく「検証可能性」が定着していると理解しております。 他に「立証可能性」WP:NPOVより)「立証責任」Wikipedia:プロジェクト関連文書の整備より)も見たことがあります。 やや意訳の「立証責任」は、この文書の重要な側面の一つをうまく表しており捨てがたいのですが、残念ながら "Verifiability, not truth" とかみ合いません。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

すみません、「検証可能性」に統一したほうがいいですね。--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)
「検証可能性」という訳が定着しているとのことですが、「検証可能であること」というのはどうでしょうか。これであれば、"Verifiability, not truth" とも、「真実であること」ではなく、「検証可能であること」 といった感じでうまくあうように思うのですが。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 03:46 (UTC)

有難うございます。実は私も「…可能性」という接尾辞を「…が可能であること」という意味で使うのは、少々分かりにくい感じがして、あまり好きではありません。 ただ、「中立的な観点」等と並べて使う方針名(ページの題名)として「検証可能であること」は少々据わりが悪いと感じています。

本文中では、方針名に関わらず、文脈に応じて適宜「検証可能であること」を使ってもよいと思いますが、それがこの方針を指しているということが肝要です。したがって、方針名を「検証可能性」のままにするならば、本文中では「検証可能であること」(検証可能性)のように使う必要があると思います。 そのような諸点とこれまでの経緯を考慮し、しぶしぶながら「検証可能性」で統一していたのですが……。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 04:07 (UTC)

確かにKanjyさんのおっしゃるとおり、「検証可能であること」というのは、「中立的な観点」と並べて使うには据わりが悪いようですので、方針名は「検証可能性」とすることで現段階ではよろしいと思います。現段階でというのは、No Original Research の訳がどのようなものになるかも検討中だからです。あちらの状況によっては、再度、方針名「検証可能性」が適当かどうか考える必要が出てくるかもしれません。ただ、本文で(検証可能性)とカッコ付で付記するかどうかは、一概に決めるのではなく、訳を進めていくなかで検討していけばよいと思います。あまり頻繁に(検証可能性)を付記するのもくどい感じがしますので。
なお、各方針を文で、例えば、
    • 「中立的な観点に沿って書く」
    • 「検証可能であることのみを書く」
    • 「未公知の研究は書かない」
といったような形で示すのが個人的には良いと考えています。その理由は、このような文による表現の方が、初心者にも取っつきやすく、理解しやすいのではないかと考えるからです。このような文で示されている方針には、個人攻撃はしない(en: No personal attacks)などがある他、ガイドラインにもたくさんあり、奇異ということもないと思います。ただ、「中立的な観点」というのはすっかり定着しているようですので、このような変更は難しいでしょうね。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 17:39 (UTC)
「ウィキペディアは何でないか」という表現があるので、「どこ何を見れば確認できるか」というやわらか目の名前はどうでしょう?これなら「クリックを避けたくなる」ことは無いと個人的には思うのですが、威厳を表現するとか、もっと学術的に、ということになるとダメですが。翻訳、ご苦労様です。--一般人 2006年5月2日 (火) 09:22 (UTC) en:User:ComSpex

どうもご無沙汰しております。もたもたしていて済みません。 --Kanjy 2006年5月2日 (火) 10:05 (UTC)

日本語化となると大変ですよね、色々と。ちなみに、私の頭の中ではこんな言葉での理解になってますけど--「ウィキペディアに包含されるための判断基準は、真実ではなく、何をみれば確認できるか、です。」 Verification の意味の中には truth が含まれていますが、原作者は敢えてそれを除外している、という解釈ですが... 訳文全体の色合いもしくは香りとは合わないかな。--一般人 2006年5月3日 (水) 10:06 (UTC)
【参考】この部分が原文に現れた瞬間です。--一般人 2006年5月4日 (木) 02:14 (UTC)

ページ名としては「確認可能な論拠」あたりでどうでしょう。-- [Café] [Album] 2006年5月30日 (火) 14:28 (UTC)

ページ名、もひとつ、提案します。現実問題として、この問題が起こったときは「論拠を示せ」とノートなりに書くことになると思うのですね。それなら「論拠の提示」でいいんじゃないでしょうか。-- [Café] [Album] 2006年6月1日 (木) 15:48 (UTC)

タイトルに限って、検証可能であること確認可能な論拠の使用には反対いたします。また、本文では(検証可能性)をいちいち使う必要はないでしょう。検証可能であることなどは、あえて説明が必要であると思われるなら冒頭の定義部分で定義するなどしておけばよいかと思います。--Snow steed 2006年6月19日 (月) 09:29 (UTC)

[編集] Truth

"Verifiability, not truth" という言葉は、WPに載せてよいかどうかの境目が、真実かどうかではなく、検証可能かどうかである、という方針を述べています。 ここでは「真実ではなく検証可能性」と並べると不釣合いです。 「真実であることよりも検証可能であること」あるいは「真偽(=真実かどうか)ではなく検証可能性(=検証可能かどうか)」でしょう。 Truth という語には「真実」のほかに、「真実かどうか」(真実性、真偽)という意味があります。真実性より真偽の方が、わかりやすいと思います。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

了解しました。--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)
ウィキペデイアに掲載してよいかどうかのThreshold:境目(敷居)がどこにあるかということ示すということですから、「真偽(=真実かどうか)ではなく検証可能性(=検証可能かどうか)」というよりも、「真実であることではなく、検証可能であること」ととらえた方がよりわかりやすいのではないでしょうか。こちらの方が、WP掲載の条件を端的に示すことができると思います。つまり、「真実であること」では、WP掲載の境目(敷居)を越えることはできないが、「検証可能であること」という条件を満たせば、その境界(敷居)を越えることができるということです。
上記のVerifiabilityでの自分の書き込みと同様にややくどい感じもしますが、考えた結果を書かせていただきました。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 03:46 (UTC)

適切な訳文が提示できませんが、私見を述べますと、verify は、ラテン語の verum から派生した言葉のはずで、verify の方が、「真実・事実たらしめる」という言葉のはずだと思います。「検証可能」とは何を検証・立証するのかというと、その主張・事項・内容の「真実・事実であること」を検証するのです。従って、「not Truth」は、「真実ではなく」というような対立意味ではないと思います。「真実」が書けるなら、それこそ理想的なことです。ここでは、「(普遍)真理」だと確信・主張・信仰されている内容ではなく、「事実性・真実性」について、「検証する方法が存在する内容・主張」が、記事の資格だという意味だと思います。ポパーの反証可能性と似た規準を主張しているのだと思います。「ウィキペディアに掲載する記事の資格は、これが本当だと考えられていることではなく、本当かどうか、検証可能な内容である」「思いこみ(臆見・ドクサ)ではなく、本当かどうか、真偽の確認・検証ができる内容・記事が望ましい=条件・資格である」こういう意味だと思います。Truth は日常語で、一般に考えられている俗信・臆見・主観的思いこみの命題(真理)で、それに対し、verify はラテン語起源で、学術的な言葉で、真実か否か、理性的に判断できる(検証できる)内実・特徴を備えるかどうか、に関係する言葉だと思います。「Verifiability, not Truth」は、思い切って意訳すると、「思いこみではなく、事実かどうか確認できること」というのが原義に近いのではないかとも思います。--Maris stella 2006年4月18日 (火) 09:19 (UTC)

(「南京虐殺の真実」というのは、もしこれが本当に分かれば、それを書くのが最善でしょう。しかし、客観的真実は、人間の主観認識にとって超越的であるので、ドクサや信仰や宣伝文句ではなく、経験的に吟味・検証できる「事実」を書きなさい、ということだと思います)。--Maris stella 2006年4月18日 (火) 09:19 (UTC)

実は私も Maris stella さんが示された、語源から意味を探る方向にはまりかけました。疲れて一晩寝て読み直してみると、意味を深化させるより、むしろ単純に「検証可能かどうか」「真実かどうか」の浅さで留める方が相応しいという考えに至りました。ただし、方針名の考察から「検証可能性」「真偽」と体言の形にしたことは#Verifiabilityに書いたとおりです。英語版文書の狙いは仰せの「思い込みではなく…」かもしれませんが、そう表現してしまえば、X理論のたとえと噛み合いません。X理論のたとえは、もっと厳しいルールを表しています。
「思い込みではなく……」や「客観的真実」などという表現は、真実を広めたい熱い正義感に燃える方々から反発を買いそうではありませんか。それは胸の奥に収めておき「WPは真実を書く場所ではない。大嘘でも典拠があれば掲載が許され、いくら真実でも典拠がなければ除去される。両論とも典拠があるなら、真偽に関係なく両論併記がここのルール。」とクールに言い切りましょう。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 14:43 (UTC)
Maris stellaさん、コメントありがとうございます。Maris stellaさんへのコメントへの意見を書いていたところ、Kanjyさんが意見を書かれました。Kanjyさんのご意見に賛成なのですが、せっかくですので私見を書かせて頂きます。私は、「Verifiability, not Truth」はやはり「真実であることではなく、検証可能であること」とすべきと考えてます。
まず、Truthは素直に「真実・真理」とらえて問題ないと考えます。Maris stellaさんの書かれている「客観的真実は、人間の主観認識にとって超越的である」というのは、そのとおりかもしれません。しかし、ウィキペディアはそもそも何が真実・真理であるかの判断をしないものとされています(本方針の後半部で、ウィキペディアはそれ自身では、fact-checking process(事実を調査する過程)を提供しないとされています)。つまり、ある理論や事実が正しいものであるかどうかの判断は、信頼できる情報源(典拠)に依存するのです。そして信頼できる情報源(典拠)の例としては、査読つきの学術誌やニューヨーク・タイムズのような信頼される報道機関が挙げられています。したがって、真実・真理についてここで踏み込んで考える必要はなく、素直に「真実、真理」ととらえていれば十分ではないかと考えている次第です。
つぎに、この方針で用いられているVerifiabilityという用語ついて。これは、一般に用いられているものとはやや異なるウィキペディア特有の意味を持っているととらえるべきと考えます。一般的な意味での「検証可能である」ということは、Maris stellaさんのおっしゃるとおり「本当かどうか、検証可能な内容である」ということだと思います。しかし、ウィキペディアでは単に「本当かどうか、検証可能な内容である」だけでは十分ではないとされていると考えます。ある理論や事実が「本当かどうか、検証可能な内容である」だけでは十分ではなく、それが信頼できる情報源・典拠によって公表されていることが必要とされているというのが私の理解です。これについてもX理論という例を用いて本方針内で解説されており、「もしもその新聞があなたの話を載せてくれたならば、その新聞を情報源として示すことで、ようやくあなたはその情報をウィキペディアの記事に書き入れることができます。」とされています。
ひとつの例を用いて、私の考えを説明したいと思います。ある学者がAという新理論を考え出したとします。彼は自分の考え出したA理論を発表すべく論文にまとめ、権威ある学術誌Bに投稿し、数回の書き直しの後、半年後に発行されるB誌2006年冬号への掲載を正式に認めるという返事を受け取りました。そして彼は、校正を終えた完成原稿を、本日編集部に郵送しました。さて、A理論を掲載したB誌2006年冬号が発行される前に、A理論をウィキペディアに掲載することは認められるでしょうか。
私は、現時点ではA理論のウィキペディアへの掲載は認められないと考えます。
この場合、A理論は権威ある学術誌Bへの掲載を認められたのですから、少なくとも現時点では真理、真実ととらえて良いと思います(権威ある学術誌も時に誤まることもありますが・・・)。また、A理論は権威ある学会誌に掲載されることになったのですから、その内容は学会で求められる「検証可能なこと」という条件を満たしているはずであり、Maris stellaさんのおっしゃる「思いこみではなく、事実かどうか確認できること」という条件にも適合していると考えられます。
しかし、A理論は、現時点では学術誌に発表されていません。このため、A理論をウィキペディアに掲載しようとしても信頼できる典拠を示すことができません。ウィキペディアの求める「検証可能であること」とは、信頼できる典拠を示すことができるということを意味しており、よって、B誌に発表される前のA理論は、ウィキペディアの求める「検証可能であること」という条件を満たしていないと考えます。
言葉を換えますと、B誌2006年冬号が発行される前のA理論は、権威ある学術誌への掲載が認められた(つまり真実、真理であると認められた)にもかかわらず、ウィキペディアへの掲載が許されません。つまり、「真実であること」はウィキペディアへの掲載の敷居を超える(条件を満たす)ことはできないのです。
ところが、B誌が実際に発行された後のA理論は、信頼できる典拠を示すことができます。ウィキペディアでいうところの「検証可能」であります。つまり、典拠を示すことができるという意味での「検証可能であること」は、ウィキペディアへの掲載の敷居を超える(条件を満たす)ことができます。したがって、「Verifiability, not Truth」は「真実であることではなく、検証可能であること」とすべきとの考える次第です。
以上、くだくだしい説明になってしまったことをお詫び致します。--Sloop25 2006年4月18日 (火) 17:39 (UTC)
Sloop25さんが指摘されているように、この「検証可能性」は、その情報が正しい内容かどうかの検証ではなく、その情報のソースが信頼のおけるものかどうかの検証ですね。論理実証主義の「実証可能性」(Verifiabilityverifiability principle)やポパーの反証可能性とは少々異なるように思われます。Hermeneus (user / talk) 2006年4月18日 (火) 23:26 (UTC)
「真実」でいいと思うんですけど。--一般人 2006年5月3日 (水) 07:33 (UTC)

[編集] Reputable

直訳すれば「評判の良い」「定評のある」でしょうが、少々抽象的過ぎます。 どのような面で評判が良いことを要求しているのでしょうか? スクープが多い? 記事が面白い?

この文書では reputable : dubious = NY Times : tabloid です。 したがって reputable という言葉で「事実確認をしっかり行い、記事の信憑性が高いと、幅広い読者層から認められている」という意味を表していると考え、「広く信頼を集めている」と訳してみましたが、いかがでしょうか。--Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

この解釈は、正式発表後には、議論を呼ぶことになるでしょうね。「信頼出来る筋」という言葉がニュース等報道関係では使われていたことがありましたが(最近では、情報源の固有名称を使う傾向にはなっている風ですが)、どの言葉を使っても、その定義を問われてしまうことになるのでしょうか。提示された出典自体の reputation の判断が必要になるってことですよね...--一般人 2006年5月2日 (火) 09:59 (UTC)
なるほど。このテーマは、同時進行中のWikipedia:独自の調査で扱いますよ、とね。--一般人 2006年5月4日 (木) 02:59 (UTC)

[編集] Burden of evidence

ある記述を掲載すべきか除去すべきかで論争しているとき、証拠を示す責任は掲載派にあることを述べています。 良く似た "burden of proof" は「立証(の)責任」、"burden of producing evidence" (or "burden of production of evidence") は「証拠提出責任」が定訳かと思いますが、どうしましょう? 「挙証責任」(証拠がない場合、不利益を負うべき側の地位)という語も見たことがあります。 やはり「重荷」がよいのでしょうか? 法律、訴訟、特許などに詳しい方のアドバイスをお願いします。 --Kanjy 2006年4月17日 (月) 04:08 (UTC)

(これまた)すみません。とりあえず「重荷」と訳してしまいました。「立証責任」あるいはもっとふさわしい訳に変えてください。--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)
「重荷」も変だと思いますが、「立証責任」「挙証責任」「証明責任」という語も避けるべきだろうと思います。証明責任#概要
>証明責任(挙証責任)は、どちらが現実に証明活動を行うかという問題とは基本的に関係はない。
と書かれていますが、今問題としている "Burden of evidence" は、まさにその「関係はない」と言われていること(の最初に為す行為)を指していますよね。ここでは、法律的な意味での責任や義務といった厳しいものではなくて、役割分担のことを言っているわけですから、ニュアンス的には、「根拠を提示する役目」といった感じだと思います。英語版の原文が、法律用語を使わなかったのもこういう意味があるのではないか、と思いました。--oxhop 2006年4月18日 (火) 12:22 (UTC)

はい。そういう意味で、まさしく「挙証責任」とまったく同じ構図ではないでしょうか。証拠を提示するのは誰でも構いませんが、その行為・主張を支持する証拠が必要なのは、執筆者・掲載派です。したがって、どちらを支持する証拠もないときは、除去派の勝ちです。原文 "The burden of evidence lies with ..." の burden はそういう意味あいを持つ言葉だと理解しています。

役割、というのは少し違う感じがします。 責任とか義務とかいう表現も、日常生活の直感と少々違う感じで困りますね。 要するに「証拠が必要なのは、掲載派と除去派のどちら側なのか」という話です。 「立証責任」はPL法などの関係で比較的なじみのある言葉ではありますが。

このタイトルを、「…どちら側か」というような形の短文に訳そうかとも考えていたのですが、今のところあまり良い案がなくて困っています。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 14:58 (UTC)

動詞 lie は、英英辞書では、be acceptable in law の意もありますので、やはり、法律を意識した文章でしょう。「『典拠を示す責』は編集者にあり...」ウィキペディアにその責はない、という表現方法で、つまり、「ウィキペディアは何でないか」風の記述方法を継承している、というのは深読みが過ぎる?--一般人 2006年5月3日 (水) 06:53 (UTC)

[編集] Source

名詞・動詞の"source"について、どう訳したらいいか、迷います。「ソース」「情報源」「ソースを示す」「信頼できる情報源」etc.--miya 2006年4月17日 (月) 04:42 (UTC)

「source」はこういう場合、「典拠」というのがいい訳語なのですが、少し硬いかも知れません。「典拠を示す・出典を明らかにする」等です。(「情報源」とか「ソース」は、「嘘の情報源」もあります。「典拠」は「真実性の規範」の意味が入っています。……「ソースを示して欲しい。ソースを確認した。やはり嘘ではないか」という表現は成立します。「典拠を明らかにして欲しい。典拠がない? やはり嘘なのだ」という表現は、大分、感じが違います)。--Maris stella 2006年4月18日 (火) 09:19 (UTC)
名詞としての用法は Maris stella さん仰せの通り。この文書に出てくる source という語は、典拠が最適な訳だと思いますが、文体には不釣合いに硬い感じがするのが難点です。「情報源」なのですが、根拠として情報源を示す話なので「典拠」か「出典」か、ぐらいでしょうか、、、、。
さて、source を動詞としては使う例は存じません。"名詞-ed" は一般に "with 名詞" という意味の形容詞ですから、"unsourced" は "without source" すなわち「典拠のない」「情報源不明の」「情報源の示されない」「裏づけのとれない」というような意味ではないでしょうか。--Kanjy 2006年4月18日 (火) 10:46 (UTC)
Source だけを見ると、「情報源」か「出処」。それ以上のことを表現したい時には形容詞を付けて曖昧さを補っているのが慣用かと。「典拠」は訳し過ぎの印象強し、かな、個人的には。原文の狙いは、曖昧な言葉を意図的に提示している?これまた、浅はかな深読みか。--一般人 2006年5月3日 (水) 07:27 (UTC)

[編集] Tabloid newspaper

信頼性の乏しい情報源の例ですね。今のところ「タブロイド新聞」「タブロイド紙」と訳されており、私もそれ以上の訳語を知らないのですが、いまひとつピンと来ません。 --Kanjy 2006年5月29日 (月) 17:00 (UTC)

とりあえずの処置として、カッコ書きで説明を付けました。 --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)

[編集] 何を検討するか

英語版のノートも膨大なようで見ていませんが、単語の語源よりかは方針の趣旨、何を検討して、どこから排斥するのか、といったことの方が重要だと思います。ノート:日本の民族問題ノート:松代大本営跡でも「電凸」などの成果をソースとして挙げておられる方がいるんですが、私は検証不可のものであると思います。johncapistrano 2006年4月20日 (木) 08:31 (UTC)

はっはっは、すみません。英語版文書の不十分なところや、英語版文書でカバーされていない日本語版での問題について検討してゆきたいところですが、まだまだ「英語版文書には何が書いてあるのか?」という基礎的な議論で精一杯というところですね(笑)。
さっさと英語版文書の大雑把な和訳を固めて、それから、日本語版としての検討に移れたらと私は考えていますが、皆様のお考えはいかが。--Kanjy 2006年4月20日 (木) 12:48 (UTC)
その方が良さそうですね。一字一句の正確な翻訳が意味を成さないことをその原本初版(2005-04-09)が教えてくれている様です。特に、その歴史を見ると、「ウィキペディアは何でないか」が、2002-02-19 を発端に、約3年3ヶ月間の編集を経てボトムアップ的に採用されたポリシーであるのに対して、「Verifiability」は、最初からポリシーとして作られるべくして作られたかの様なトップダウン・ポリシー(?)で、その第一稿目(2003-08-02)から約1年8ヶ月でポリシー・ラベルが貼られた後もまだその姿を変化させ続けている様です。ウィキペディアではポリシーも編集ブロック保護されるまでは変化を続けてもいいんですねぇ...ちょっと、驚きです。--一般人 2006年5月4日 (木) 09:39 (UTC)
もうそろそろ英語の原文は削って訳文だけ残し、全体的に章立てなど整理しなおして加筆修正していっても良いでしょう。Hermeneus (user / talk) 2006年4月20日 (木) 12:52 (UTC)
私も、英語版の翻訳は適当なところで切り上げて、日本語版のルールとしての議論に入るべきだと思います。日本語版の現状は、英語版のルールとかなり異なった運用をしているようですから、翻訳の正確性を議論するより、ルールそのものの議論を始める方が、たぶん、効率的・建設的だと思います。
ついでに「電凸」について言えば、英語版のルールでは、オンライン掲示板等の情報は、誰が書いたか分からないので、「信頼できる情報源」とは認めないということのようです。--Dwy 2006年4月21日 (金) 18:02 (UTC)

見出しの英語を外し、日本語本文だけ読んで意味の取りにくいところを原文と照らし合わせて意訳してみました。やりすぎた部分があれば差し戻しをお願いします。「翻訳中」のタグは5月いっぱいで外しませんか?--miya 2006年5月29日 (月) 03:00 (UTC)

「翻訳中」外しに賛成します。5/31 23:59 (JST) までに反対がなければ外しましょう。 --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)

[編集] 日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野

タキトゥスのすすめは、本文にはまったくいらない。似たような発言は、いくらでも見つかるんじゃないの?検証可能性ってあるけど、「日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野」なんてのが出てきたときに、削除される可能性もあるということですな。検証可能性なんて、ぶっちゃけ「私はそんなことは知らない」だし。で、実際に削除してしまったら、日本語版ウィキペディアの格は落ちるんだけど、落ちてもいいのかな?--Noda,Kentaro 2006年6月12日 (月) 04:28 (UTC)

コメントありがとうございます。「日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野」についてですが、典拠は別に日本語でなくてよいと思います。ヘブライ語やシンハラ語だとさすがに読める人は限られるので困るでしょうが、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、アラビア語、中国語あたりは検証できる人もかなりいるはずです。--miya 2006年6月13日 (火) 07:08 (UTC)

英語版ウィキペディアがなんで伸びたかというと、「査読」がそれほど厳しくないから、という下世話な理由があったはず。第一次ポーランド楽派の項目は、ポーランド語版では書かれた直後消えてしまいました。「ポーランドで開発された」イディオムを、ポーランド人が知らなかったという大傑作な事件でした。ポーランド若手勢の伸び悩みにも通じてますね。こういう失態を避けるには、「なるべく削除しない」、「査読も曖昧」なほうが、百科が充実するという逆説を生んでいます。ネット上ソースにすぎないのだから、この程度でよいのではないでしょうか?--Noda,Kentaro 2006年6月12日 (月) 04:33 (UTC)

実際問題として、現在の日本語版でもソースがネット上にしかない、あるいは「日本人で記事執筆者しか知らない」という記述も紛れ込んでいるでしょう。そういうものを一律に排除するのは難しいでしょう。ただし、他のユーザー、あるいは外部から「それは事実とは異なるのではないか」あるいは「そういう検証できない情報は記載すべきではない」とクレームがついた場合は、この方針に従い「検証不可能な情報」として本文から除去されることもしかたがない、と思いませんか? 正しいと確認できないのですから。--miya 2006年6月13日 (火) 07:08 (UTC)
Miyaさんに同意します。第一次ポーランド楽派のようなケースにおいても、いったん削除して検証可能になったら復活させればよいのではと思います。S kitahashi(Plé)2006年6月17日 (土) 17:18 (UTC)
Noda,Kentaroさんのご指摘のような、「日本人で記事執筆者しか知らない、しかし世界的には先端分野」であるならば、少なくとも、miyaさんのおっしゃった英独仏露中韓西伊葡くらいの中では情報が得られるでしょう。[1]では独仏伊西葡を英語に、英中韓を日本語に翻訳してくれますから(精度はともかく)、ある程度の検証はできるはずです。-- [Café] [Album] 2006年6月17日 (土) 22:58 (UTC)

[編集] 正式化にむけて

日本語版で「英語版のルールとかなり異なった運用」をしている部分があれば、ここに列挙して、改訂すべきか検討してはどうでしょうか。大きく改訂すべき点がなければ、井戸端で告知して正式化したいと思います。--miya 2006年5月29日 (月) 03:00 (UTC)

あと、日本語の方針名も決めなければなりません。方針名は「検証可能性」で反対がないようですが、合意確認(異議待ち)をしますか? --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)
特に反対意見もなかったので、「検証可能性」に移動しました。これも含めて、井戸端で告知し1週間程度待って、異議が出ないか確認し、特に何もなければ正式化したいと思います。大きな改訂提案があれば、正式化を先送りし、小さな改訂提案なら、先送りするかどうかも、ノートで検討すればよいと思います。--miya 2006年6月4日 (日) 15:37 (UTC)
早く正式化したいですね。ノートでの議論の多くは、これでスムーズになっていくと思います。-- [Café] [Album] 2006年6月5日 (月) 02:21 (UTC)
miyaさんのご提案の段取りでよいと思います。WP:NPOVWP:VWP:NORの3つは全言語版に適用されるウィキペディアの絶対的方針だという話もありますから(英語版の井戸端でそのようなことを言っている人がいたような気がします)、とりあえず基本的な方針が合意できれば、細かいことは後で議論することにしてでも正式化してしまうべきだと思います。--Dwy 2006年6月5日 (月) 18:31 (UTC)
同じく、miyaさんご提案の手続きで正式化を問うことに同意します。 --Kanjy 2006年6月5日 (月) 23:59 (UTC)
少し遅くなりましたが、正式化しました。Wikipedia:井戸端 (告知) でも告知しました。 --Kanjy 2006年6月17日 (土) 17:32 (UTC)

[編集] オンライン掲示板やブログ等の情報について

オンライン掲示板やブログ等の情報」については「信頼できる情報源」とは認められない、でよいと思います。現在は野放しになっているとしても、疑義が出た項目から順にそのノートで検討し、新たに「信頼できる情報源」が示されない場合は除去すべきでしょう。--miya 2006年5月29日 (月) 03:00 (UTC)

賛成します。 --Kanjy 2006年5月30日 (火) 04:01 (UTC)

[編集] 本人を情報源にする場合

著名人自身が運営している公式HPやブログの場合、著名人の主張として記載する場合等は「信頼できる情報源」として認めてもいいのではないでしょうか? ただ、無名人物のインターネット配信でしか情報を確認できないような言葉は削除すべきだと思いますが。--経済準学士 2006年7月5日 (水) 16:23 (UTC)

翻訳中ですが、Wikipedia:存命人物の伝記の「本人を情報源にする場合」のセクションもご参照ください。--miya 2006年7月5日 (水) 17:27 (UTC)
検証可能性は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」に関するものなので、Wikipedia:検証可能性が(検証機関ではない)主体自体が著名か否かという問題を取り扱うべきではないと思います(下手をすれば「これは著名人が言ったからWikipedia内のどこに載せていいのだ」という理由がまかり通るようになり、Wikipedia:検証可能性が骨抜きにされかねませんので……)。この話題はむしろ、Wikipedia:出典を明記するWikipedia:事実を確認するで展開するべきと感じました。 -- かえで 2006年7月7日 (金) 16:07 (UTC)
みなさんはWikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトに書いてあることでは不充分/不適切だとお考えなのでしょうか?--Dwy 2006年7月7日 (金) 17:16 (UTC)
Wikipedia:検証可能性全体がどういう影響を及ぼすのかを確認したく思いまして、ほぼ独力で書い(てしまっ)た記事を削除依頼へと提出しました。その記事(飛鳥配列)は元々「他の入力方式と比較していないので、結果としてNPOVに近い状態&他の信頼できる情報源とは矛盾しない」となる仕掛け(節の名前)を作って記述しましたので、そこは概ねクリアしている気がします。肝心なのは「重要かどうか」という点でして、必要な指標が(「その情報が{記事|Wikipedia|Wikipedian|世間様}にとって重要」のいずれなのかすら)示されていないのです……Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトが許容する対象行為が「自主公表物・信頼性に乏しい情報源を用いて、その文献類が主に示す内容のみを記事化する(=他の記事に前述の文献類を使用しない)こと」である場合、せっかくWikipedia:削除依頼/飛鳥配列で挙げていただいた「(削除)」意見の理由が、全て矛盾していることになってしまう点も気になっています(しかも、従来的には至極真っ当と言えるご意見ばかりなのです……)。Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトがどういう記事を想定して作成されたのかをハッキリさせないと、削除依頼に同様の案件が持ち込まれるたびに判定が変わったり、「前例が○○だったから今回も○○で」などという独自の基準が作成されてしまう可能性があります。既に公式な方針として採用されている以上、早急に対象となる記事の概要を明確にする必要があると考えます。今回は「全ての方針に矛盾しない、的確な削除理由が大量に並んで削除確定となる」とばかり思い込んでいましたので、こういう展開になって驚いています。 -- かえで 2006年7月7日 (金) 18:57 (UTC)

[編集] 幾つかの問題点

現在の文面には、幾つか問題点があるように思われます。

  1. 出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」とありますが、この点に関する説明が見当たりません。一例を挙げましょう。私は最近、死海の記事に対して「地表で最も低い」との解説を付け加えました。これは疑いようのない事実だからです。しかし、「その出典を示せ」などと言われても、「信頼できる情報源」からそれを示すことは出来ないかもしれません。文章を取り除く行為に対する制約がない現在の文面のままでは、その編集を取り除く行為を正当化できます。下手をすれば、秀逸な記事でさえ骨抜きにされてしまうことでしょう。それだけでなく、特定の人物を狙い撃ちして、「出典を示せ」という執拗な攻撃を繰り返すことによって、有為の人材を追放することさえ可能です。従って、取り除く側に対しても、取り除くべき明確な理由を記事のノートにて説明する義務を負わせるべきでしょう。
  2. 「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の項に、「定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」とあります。この一文は本当に必要なのでしょうか?。かえでさんの削除依頼は、この文章の厳密な適用であるように感じました。この一文をこのまま放置しておくと、「定評のある情報源」とみなせるものが存在しないであろう分野、例えば人気のあるところでは、駅記事などは作成すべきではなく、削除依頼しても差し支えないとの結論を導き出すことさえ可能です。ちなみにこの一文、存在しなくても本来の意図を損なわないものと思われます。

これらの論点がすっきりすれば、かえでさんの心配もほぼ解消するものと考えます。Rigel 2006年7月11日 (火) 09:17 (UTC)

Rigelさんも取り上げていらしたことに絡んで、時間がないので一点のみ。出展が明らかではない文を「勝手に取り除く」方法は、明らかに【不毛な論争の種になる】ので、これは絶対に行うべきではないと思います。真面目に受け取ってそれをやる人が現れる前に、早急に訂正しないと大変なことになります……。この方法を避けて「ノートで問いかけをする」方法のみでも、なんら問題なく検証可能性の確認は可能です。実際にノート:連想式漢字直接入力で問いかけ法を用いて解決した例があるのですが、この件の様に「疑義を提示し除去してもらったが、実は検証可能な部分があり差し戻しを行った」などという場合、仮にここで推奨しているように【根拠がないから除去せよ!】とか【根拠がないから除去した!】などという断定調のコメントを書いた場合、場合によっては喧嘩が始まる可能性があります。もう一つ、これを放置すれば「片っ端から記事を白紙化→一揃い即時削除依頼」という荒らし行為を【ルールにのっとって】行うことが出来てしまいます。 -- かえで 2006年7月11日 (火) 14:16 (UTC)

Rigelさんの (1) について、ご心配の内容は理解できます。実際そのような攻撃を加える方もいるでしょうね。ただ、出典がない編集は現在も取り除かれつづけています。一見、荒らしに見えない文章でも、確認ができない場合は削除されています。削除されても出典を添えて再び加筆すればよいと考えます。攻撃の危険性(有為の人材を失うこと)と百科事典としての品質向上を天秤にかけ、長期的に見て、どちらが百科事典の品質向上に役立つのかということだと考えました。---Redattore 2006年7月11日 (火) 16:14 (UTC)

Rigelさんの (2) について。私は必要だと考えます。「定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。」という一文を削除することには賛成できません。定評のある情報源がなければ、どうやって記事を修正するのでしょうか。駅記事については、例えば旧帝都高速度交通営団(東京メトロ)は非売品として各地下鉄の建設史を出版しております。一本の地下鉄について大量の図面を交えて1000ページ以上を割いて記述しております。他の私鉄についてはあまり知りませんが、同じような資料が参照できるのではありませんか。---Redattore 2006年7月11日 (火) 16:14 (UTC)

ここで意見した直後に、ノート:アントニ・ファン・レーウェンフックに気がつきました。これには私の加筆について、出典がないという指摘があります。具体的には、Mzakiさんが本文に{{要出典}}というテンプレートを貼り付け、ノートで質問を投げかけています。このようなやり取りがあると第三者から見ても何が問題なのかが一目瞭然なので安心できますね。かえでさんや、Mzakiさんの編集方法は望ましいと考えます。ただ、私としては「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」を削除することには賛成できません。---Redattore 2006年7月11日 (火) 16:31 (UTC)
ちぇすと申します。私も基本的にはノートでの議論が中心であるべきと思います。しかしかえでさんの意見には2点疑問点があります(とりあえず考えの基本を抑える為、上述の「駅記事」を代表とする問題は除いて考えます)。
1.「掲載に問題点のある情報が一定期間載る可能性がある」のでは
Wikipediaが検証可能性を(その方法として「信頼できる情報源」のみを扱うよう)方針としているのは正確性を上げる為であり、すなわち問題がある、つまり虚偽がある(かもしれない)情報かどうかをこの方針により線引きしていると言えます。逆に言えばこの方針に則っていない情報は原則的に虚偽があるかもしれない情報として取り扱う必要があると言うことだと思います。
そして検証可能性に対して未定義の情報、すなわち情報源に対して未だ議論されていない情報を一時的にでも掲載するということの是非は、Wikipediaの情報の信頼性に対するスタンスが問われる問題だと考えます。具体的には、検証可能性に対して未定義の情報は重要な情報であるかもしれないとして検証可能性が確定するまでは掲載しておこうとする考えと、検証可能性に対して未定義の情報はすなわち検証可能性が未だない情報として、虚偽情報である可能性が否定できないため安全のために削除しておこうとする考えに分けられると思われ、どちらをWikipediaが選択するかということです。
2.「即削除が重大な問題を引き起こす可能性がある」ことに対する疑問
Wikipediaの編集は基本的に自由だが、それに起因する「荒らし」行為があってもいがいとうまくいっている、というのがあったかと思います。その心は、荒らし行為により破壊されてしまった項目でも履歴機能によりすぐさま誰かがリバートしてしまうため、ということだったと思います。
もし即削除された場合でも、検証可能性があり掲載に問題がないのであれば、出典と共にすぐさまリバートし、そこから先の詳細な詰めをノートなどで議論しても遅くはないかと思いますが。そこでさらに議論もせずに削除を強行されるような状態はすなわち「荒らし行為」であって、他の通常の荒らし行為と同様の処置でいいのではないかと思いますがいかがでしょうか。
私の考えは基本的には疑わしきは掲載せず、つまり即削除を否定しない、です。こちらの方がWikipediaがわざわざ検証可能性という方針を立ててまで引こうとしたボーダーラインに矛盾しないのではと思うからです。Wikipediaはニュースではないという言葉もあったかと思いますが、掲載すべき情報であれば時間を掛けてでもあやふやさを取り除き、出典を示して再掲載すればいいのではないかと思うのですが。--ちぇす 2006年7月11日 (火) 17:13 (UTC)

まず、

  • 出典が明示されていない記述を取り除くことができる
  • 出典が明示されていない記述を取り除かなければならない

この2つは別物です。現行の文面である前者の場合は、出典が明記されていないからといって必ずしもその記述を除去しなければいけないわけじゃあない。出典が無くとも、残しておいて特に問題がないような無難な内容であれば、要出典なりUnreferencedのテンプレートを貼付けるだけの対処でもかまわない。ただ、その当該記述の正確性、信憑性などをめぐって論争になっているような場合には、出典が提示されなければ否定側の主張が通り取り除かれることになる。

問題となっている記述自体の正確性、信憑性などをめぐり疑義がていじられている場合などには良いですが、これを濫用して、出典の明記されていない記述を見つけたら何でもかんでも片っ端から除去する、というような行為は牽制されるべきでしょう。例えば

  • 或る編集者の編集について、その編集内容自体の正確性、信憑性に関する理由からではなく、単にその編集者の人格が個人的に気に喰わないという理由から、この方針を盾に彼の書いた出典を欠く記述を片っ端から削っていってしまう

このような行為は控えるべきです。Hermeneus (user / talk) 2006年7月11日 (火) 17:33 (UTC)

「出典が明示されていない記述を取り除くことができる」ということは、記述を取り除くに足る理由がある、ということです。逆に「出典が明示されていない記述を取り除かなければならない」ことはありません。誰もが編集する自由があるのと同様に、編集しない自由も持ち合わせている。Wikipediaにはそもそもしなければならない、など存在せず、する自由のみがあるのではないですか?(もちろんこれはダメでこっちにしなさい、といった定義はありますが)。そうであれば上述の2つの項目は別物というより片方は存在せず、「取り除くことができる」といった定義のみが存在するのでは。「出典が明記されていないからといって必ずしもその記述を除去しなければいけないわけじゃあない」が、除去することを否定していないのが、現在の検証可能性の定義でしょう。ノートに移動(し議論)する、という方がより良いでしょうが、即削除の否定にはつながりません。
また、「出典が明記されていないからといって必ずしもその記述を除去しなければいけないわけじゃあない。出典が無くとも、残しておいて特に問題がないような無難な内容」のうち、無難の定義が不明瞭となりやすい。無難とはどういうことでしょうか。出典がなくとも自明だという意味か、それとも出典がないから実際は事実なのか定義できないが些細な内容なので問題がない、という意味でしょうか。要出典のテンプレを貼って対処ということは、後者のようにも見えますが(自明ならテンプレ内容の「内容の信憑性に疑問が持たれています」に矛盾する)。
「編集者が気に食わない云々」はまったく褒められた行為ではありませんね。しかし不確かな情報の掲載との切り分けをどうしたらいいでしょう。特に出典がなく一般の人がほとんど知りえない情報を専門家と称してガンガン掲載された例もあります。しかもそれが間違っていた場合どうやって対応すべきでしょうか。私はそれに疑問を呈し(こちらにもある程度の知識があったため)かなりの時間を使って、時には実験までして客観的に矛盾点を導出したことがあります。それはまだ矛盾点が見つかっただけ運がいいほうで、殆どはお手上げ状態でしょう。正直この検証可能性がもっと早く正式化し知っていればと思うこともあります。
Wikipediaはそれらの答えとして、理想とはとても言えないが現実解として現在の出典の方法を提示したのだ、と思っていますがどうでしょうか。出典はがんばればあるものならどれも提示できるが逆は非常に困難です。--ちぇす 2006年7月11日 (火) 19:24 (UTC)
>上述の2つの項目は別物というより片方は存在せず、「取り除くことができる」といった定義のみが存在するのでは
現在の文面は前者を意味する、後者のように解釈するのは誤りであると言っているのであって、両方存在すると言っているのではありません。
>Wikipediaにはそもそもしなければならない、など存在せず、する自由のみがあるのではないですか?
例えば著作権やGFDL的に問題のある編集、個人のプライバシーを侵害するような編集などは強く禁じられており「自由」ではありません。
>無難の定義が不明瞭となりやすい。無難とはどういうことでしょうか。
>出典がなくとも自明だという意味か、それとも出典がないから実際は事実なのか
>定義できないが些細な内容なので問題がない、という意味でしょうか。
ある出典が明記されていない記述について、査読者がそれを裏付ける文献が存在することを知っているのであれば、なにも削除することはありません。査読者がその具体的な文献名をすぐに思いつくことができず自ら出典情報を加筆することができなくとも、何らかの関連文献を漁れば斯様な文献がすぐに見つかるだろうという見当があるのであれば、要出典なりのテンプレを張ってその問題記述を加筆した当の編集者自身にそれを探させるように促せば事足ります。つまり、単に「出典が明記されていない」という物理的な状態だけを理由に記述を除去しなければならないこと無い、ということです。
>特に出典がなく一般の人がほとんど知りえない情報を専門家と称して
>ガンガン掲載された例もあります。しかもそれが間違っていた場合
>どうやって対応すべきでしょうか。
査読者がその出典が明記されていない問題記述を「間違っている」と判断するのであれば、除去すればよいでしょう。仮に具体的に根拠は提示できなくとも、間違っている公算が高いと査読者が判断するのであれば、出典が明記されていない以上は除去されても加筆者は文句は言えません。しかし、査読者が「間違っていない」と判断する場合には、仮に出典の記載が無くとも除去する必要があるとは思えません。
  • ウィキペディアの記事上に出典が明記されているかどうか
  • その問題記述を裏付ける文献が実際に存在するかどうか
この2つは別です。記述の除去は後者における判断も含めて柔軟になされるべきで、前者の単に物理的に出典が記されていないという理由のみで記述を杓子定規に除去するのは妥当ではない、というのが私の意見です。2006年7月11日 (火) 23:19 (UTC)
> 現在の文面は前者を意味する、後者のように解釈するのは誤りであると言っているのであって、両方存在すると言っているのではありません。...(中略)...例えば著作権やGFDL的に問題のある編集、個人のプライバシーを侵害するような編集などは強く禁じられており「自由」ではありません。
これは私も同じ事を言っているつもりであり、合意事項と確認しました。
> ある出典が明記されていない記述について、査読者がそれを裏付ける文献が存在することを知っているのであれば、なにも削除することはありません。...(中略)...つまり、単に「出典が明記されていない」という物理的な状態だけを理由に記述を除去しなければならないこと無い、ということです。
上述でも合意している通り、「削除しなければならない」規則はありません。そのためたぶん経験豊富で模範的な編集者はこのような行動を自然ととるだろうと期待できます(自分の裁量で出典がないだけで問題ない情報だろうと判断できるということ)。ただ現状の検証可能性の方針は、「3.出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」となっていて、上述のような行動を強要することはしていません。テンプレ貼りのみでいいか削除までいくかの指針も行動規範も示していません。これらを詳細に決めようということでしょうか?それとも文献に心当たりがあろうがあるまいが「即削除はダメ」ということ?
Hermeneusさんの意図は元々良識ある編集者は対象外で「検証可能性にかこつけた荒らし」を規制したいわけですよね。Hermeneusさんは「『出典がない場合は削除しなければならない』ということはない」、とは書かれていても「即削除はダメ」もしくはこのような場合にはダメ、などというようには書かれていないのですが、判断を柔軟にすべきであるとしてそこが曖昧では良識ある編集者には届いても結局「荒らし」には何の効果もないのでは。(資料が一般的に自明でも)「荒らし」は単に自分には見つけられない、本当に自明なのか?となるだけでは。もしくは本当に掲載側が自明だと思い込んでいるだけで荒らしではない場合もあるでしょう。
またテンプレを貼ったらそれで放置できるわけでは決してないでしょう。テンプレはあくまでも一時的な処置であって、いつまでも「内容の信憑性に疑問が持たれています」などといった文言があちこちの項目の文頭にあり続ける状態はよろしくない。Wikipedia全体の信頼性を損なう状態だと思います。結局は出典は示さなければならないのでは?
> 査読者がその出典が明記されていない問題記述を「間違っている」と判断するのであれば、除去すればよいでしょう。仮に具体的に根拠は提示できなくとも、間違っている公算が高いと査読者が判断するのであれば、出典が明記されていない以上は除去されても加筆者は文句は言えません。しかし、査読者が「間違っていない」と判断する場合には、仮に出典の記載が無くとも除去する必要があるとは思えません。
そうではなく査読者が誰も判断できない場合がある、ということです。例えば(意図的だろうが誤認だろうが)自分で作った情報は誰も知らない訳だから、誰も間違っているとも間違っていないとも判断できない場合があります。こういった情報を誰も削除しなかったら間違った情報がいつまでも載り続けることになる。--ちぇす 2006年7月12日 (水) 04:03 (UTC)
ある問題記述について、それを裏付ける文献が存在するかどうか「判断できない場合」は、その削除/存続についても無理に判断を下す必要はないでしょう。削除は信憑性が疑わしいと判断される場合だけで十分です。例えば:
  1. ある経済学を専門にする査読者が、経済学の新理論に関する出典記載のない記述を見つけたとする。それなりに経済学の素養があると自負する査読者氏がその理論について今までまったく聞いたこともない。当然、査読者氏はその記述の信憑性に疑問を呈じる。この場合、仮にその新理論がネタであると断定できるほどの根拠を持ち合わせていなくとも、経済学を専門とする査読者氏が疑問視する限りにおいて、当該記述を除去するのは問題ないと思います。「識者の直感」プラス「出典欠如」で十分です。
  2. あるいは、この新理論に関する記述を執筆した御仁が他分野の記事でも怪しいネタを加筆して物議を醸している問題人物で、査読者氏がこの事実を知っていたとする。この場合も、「問題執筆者に関する知識」と「出典欠如」とをあわせて理由とし当該記述を削除してもかまわないと思います(査読者氏に経済学の素養が無く記述自体の信憑性については判断できなくとも)。
このように、記述を削除する場合には出典情報の欠如だけでなく何らかのプラスアルファの判断が必要だと私は考えます。もし当該記述、執筆者のいずれについても疑わしいと判断する根拠が無い場合には、無理に削除する必要はないでしょう。そうした「判断」ができない場合というのは、ただ単にその記述について出典が明記されていないというだけの場合です。ただ物理的に出典が明記されていないという事実のみを理由に自動的に記述を削除処理するのは賢明ではないと私は考えます。出典情報の欠如→即削除は編集方針として強すぎます。
ガイドライン「Wikipedia:出典を明記する」もあるように、出典明記は「推奨」で十分でしょう。これを「義務」化して、出典が明記されていない記述を著作権侵害と同じく全て自動的に削除対象にまでするのは、杓子定規すぎてウィキペディア参加者を敬遠させかねません。みんなボランティアで寄稿しているわけですから、研究を生業にしている学者が学術論文を書く時のように全ての記述に関して常に出典の裏付けを求めるのは酷というものです。専門の学者であっても、単にウィキペディアに寄稿するだけでそこまで求められたら、引いてしまうでしょう。
また、出典情報の欠如を削除事由にしてしまえば、「検証可能性にかこつけた荒らし」だけではなく、出典記載のない記述を探しまわり片っ端から削っていくだけの(自分ではロクに記事を書かない)「善意」の生体ボットも数多く生みだす危険があります。自分で「判断」できない人が当方針のみを盾に記述を削除して回るというような事態は避けなければなりません。そうなってはメリットよりデメリットのほうがずっと大きくなってしまいます。Hermeneus (user / talk) 2006年7月12日 (水) 07:52 (UTC)
Wikipedia:削除依頼/飛鳥配列からこちらに来ました。「飛鳥配列」の削除依頼については、「飛鳥配列」という概念が存在すること自体を否定することはできないと思いますが、存在の根拠が開発者と利用者(つまり、一般人)の残したドキュメントとエミュレータソフトだけ、という状態なので検証できないという議論になっているという理解です(エミュレータソフトがあって、少なくとも1つはvectorに紹介されているのだから[2]、存在自体は検証可能ではないかと思うのですが)。
こういった事例については、とりあえず未検証であることを示すテンプレートを貼り付けておいて、検証可能となるのを待つような対処でよいと思います。--Tamago915 2006年7月12日 (水) 04:16 (UTC)

え~と、私の(1)の主張は「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」を削除することではなく、「取り除くべき明確な理由を記事のノートにて説明する義務」を加筆することです。ですので、私の主張の意図するところは Hermeneus さん・ちぇすさんの説明する理想論を助長こそすれ、障害になるようなことはないはずなのですが、「現在の文面には抑止力となるブレーキが存在しない」と、こういうことが言いたかったわけです。論点を明確にする目的で文章を最小限に留めたつもりだったのですが、どうやら言葉足らずの部分があったようで申し訳ない。大変お騒がせいたしました。

(2)については皆さんいろいろ意見がおありかと思いますが、この文書の位置付けは、この文書自身が述べるとおり、「三つの方針のうちの一つ」というものです(Wikipedia:独自の調査はこれを「三大コンテンツ方針」と呼んでいる)。これは大変強いメッセージ性を含んだ言葉であり、各ウィキペディアンの意思決定に少なからず影響するでしょう。今までは、「百科事典にあまり必要とされない記事かもしれないが、”削除すべきだ!”などと主張して波風を立てるべきとも思えない」と考えていた人が、「…記事は…立てるべきではありません。」という上記の文言を理由に「削除もやむなし」へと方針を変更するかもしれません。そのようにして、検証可能性を満たしていない記事(百科事典にはふさわしくない記事?)をふるい落とすことがこの文書の目的であるならば、 それに反対するつもりは毛頭ありません。…が、この文書を「三つの方針のうちの一つ」と位置付けた本来の意図とは、そういうものではないのでしょう?。つまり、私が問題視しているのは、「記事は」という部分なのです。「編集は」への言及は、その直後になされていますので…。Rigel 2006年7月12日 (水) 08:31 (UTC)

ルール作りとは本来、「何が原因なのか」を十分に把握し、「なぜそうなるのか」を検証して真の原因を突き止めた後に、始めて「何をすればいいのか」を規定するべきなのです……現状ではWikipediaの運用がほぼ「コミュニケーションを前提としている」にも関わらず、なぜWikipedia:検証可能性がそれを無視して新たな対策を立てようとしているのかが疑問だったのですが、私の意見もまた同じ過ちを犯していることに気づいたため、今回いただきましたご指摘に対する回答については、大変申し訳ありませんがひとまず控えさせていただきます。Wikipedia:検証可能性を理由に削除された記述の復旧作業を支援したり、あるいは始めから削除されずにすむ記述の作成を支援する方が重要だと思いまして、Wikipedia:井戸端#「Wikipedia:レファレンス・ワーク依頼」の提案を記述してきました。 -- かえで 2006年7月12日 (水) 17:15 (UTC)

[編集] 実現可能性の高い対策

まず最初のRigelさんの指摘について、皆さんの合意を確認しておきたい点があります。

Rigelさんがご指摘の「現在の文面」についての問題点ですが、これを議論するにあって、まず考えなければならないこととして、これが「wikipedia全体におけるpolicy」であるという位置付けがあります。言い換えると、このpolicyの内容そのものについて議論をすることは日本語版だけの問題ではなくなる、ということです。つまり、この点についてここで議論をして決められることは、むしろ限られています。この場所で「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」という内容を除去することや、policy中に新たな内容を追加することを提案しても、始めから答えは「NO」以外にありえません。この方針について大幅な軌道変更を求めるなら、metaなどのもっと適切な別の場所に行って議論し、そこで全言語版の方針となってから(英語版の文面が変更されてから)初めて日本語版でも採用されるべきことです。

それを前提とした上で、metaに持ち込むなどの処理を行わずに、日本語版のこの場所で議論して何が可能なのか、つまり実現可能性の高い対策として何が出来るかですが、

  1. 方針の邦訳を推敲することで問題発生を防ぐ
  2. 方針とは別に、説明を補うことで問題発生を防ぐ
  3. 運用レベルで問題発生を防ぐ

という、三つの方法が考えられます。この三つの方法でできる対処がないかを検討する、ということで議論を進めてるのだと解釈してよろしいでしょうか?

で、この対処法について考えると、まず(1)のレベルでかなり対処ができるのではないか、と思いました。 おそらく、Rigelさんの指摘もこの点にあったのではないかと思います。以下、拙案ですが叩き台として。

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。でなければ、その部分は誰かに削除されるかもしれません。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
  • 「題材」という語は、themeという意味合い、つまり記事そのものにとして解釈され、「記述」でなく記事そのものの削除に繋げられる恐れがあるため、使用を避ける方がいいと思います。
  • 「でなければ〜」は、英語版の", or -"の直訳に近く、文語的表現としては今ひとつかもしれませんが、以前の表現よりはかなり柔らかくなった(ただし、英語版の趣旨にはちゃんと合致しています)と思います。

このように、まず(1)で出来る事として、方針の文面についてもう一度、英文と付き合わせながら見直してみてはどうかと思い、それを提案します。まずはそれをやった上で、方針の文面で補えないところを(2),(3)でどうするか、順番に考えて行くべきではないかと。例えば方針の3番目の項目についてですが、この本来の意図は、しばしば疑似科学で問題になる「悪魔の証明を求めること」の防止にあると思いますが、それについては方針の文面に盛り込むわけにはいかないので、別途説明を補いリンクを設ける、などというかたちで。

以上、ご検討くだされば幸いです--Y tambe 2006年7月13日 (木) 03:34 (UTC)

御提案ありがとうございます。一点だけ、「その部分は誰かに削除されるかもしれません。」の「削除」は「除去(remove)」としていただければ、と思います。なお、この方針の延長ともいえるWikipedia:存命人物の伝記を翻訳中ですので、あわせてごらんいただければ幸いです。両方針とも、「悪意ある加筆」や「一般的でない自説の主張」をいかに退けるか、という視点で作成されているように思われます。「文書化されてはいないが、一般に認められていること」があれば(そういう情報がたくさんあるかどうか、今すぐには思いつきませんが)それはノートでの議論によりー「間違っている」という否定的意見がなければー加筆が可能になるかもしれないと思います。--miya 2006年7月13日 (木) 05:00 (UTC)
ここに存在した発言は、次のセクションへ移動しました。--Rigel
Miyaさん、Rigelさん、早速のコメントありがとうございます。えーと、さらに確認です。全言語版について正しく要求されるのは、セクション「方針」の部分であって、それ以外の部分については適宜補足説明も可能だと思ってましたが、私のこの理解で正しかったでしょうか? それからRigelさんにおかれましては、このスレッド以下においてはひとまずこの一点目の部分にのみ話を絞っていただくよう、ご協力いただけると助かります(というわけで、上記「二点目」については、別セクションを設けて移動していただければ、と)
で、MiyaさんおよびRigelさんの指摘(一部)を受けて修正したものを下に示します。
  1. 記事には、信頼できる情報源が公表している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。でなければ、その部分は誰かに除去されるかもしれません。
  3. 出典を示す責任を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
  • 2項目の「削除」を「除去」にすべきという、miyaさんの指摘はもっともだと思いますので、取り入れました。
  • Rigelさんが「一番目の問題点について」で指摘された部分についてですが、「義務」を「責任」にすることについては取り入れました。ただし「出典の提示」を「事実の証明」に置き換えることは英語版の文意に背くことであり、さらにこの文書内ではそもそも「検証可能性」と「事実」を厳密に使い分けることが要求されますから、置き換え不能だと判断しました。
以上です。さらに問題点がありましたら、引き続きご指摘ください。--Y tambe 2006年7月13日 (木) 09:42 (UTC)
ああ、なるほど、私の発言はそう読めてしまい、思わぬところから問題点が一つ解消されたのでしょうか?。私の発言は、その四角で囲まれた部分を想定して語られたものではありませんので、「置き換え不能」との件、了解です。--Rigel 2006年7月13日 (木) 10:51 (UTC)

「取り除くことができます」→「除去されるかもしれません」の修正に反対します。ここのところは「できる」と明確に言い切るべきであり、「かもしれません」のような紛れのある言い方は良くないと思います。

「取り除くことができます」という言い方をすると、出典が明示されていない編集を「勝手に取り除く」人が出てきて「不毛な論争の種になる」という意見があるようですが、これには賛成できません。ここで言う「不毛な論争」とは「何で俺の編集をリバートするんだ?」という議論のことですから、「ルール上そういう編集は取り除いてよいことになっています」と言えさえすればそれで論争は終わるはずです。その意味で、「取り除くことができます」は紛れが無いように明確に言い切る必要があります。

「出典がない」という理由で除去された編集を復活させたければ、「信頼に足る情報源」を提示すべきであり、それ以外の手段を認めるべきではありません。「除去の方法がルール違反だから、俺の編集を元に戻せ」のような主張は正に「不毛な議論」であり、このような主張を防止するためにも、はっきり「文句は言えません」を言うべきだと思います。 --Dwy 2006年7月14日 (金) 14:31 (UTC)

遅ればせながら私の意見を述べますと、この件についてはDwyさんの言い分と、Rigelさんの言い分という二つの主張を比べた場合、両方の言い分ともに正しいと思ってます。もともとこの部分は二面的な問題をはらんでて、「いい加減な情報を載せること」「いい加減ではないが『現在』出典が示されてないというだけで情報を削除する荒し行為」の両方を、バランスよく排除する必要があるわけです。ただ、この両者は荒し行為としてはほぼ対極の方法をとるものなので、片方の制限だけに注目すると反対側をのさばらせてしまう、と。議論に参加される方には、自論にだけとらわれることなく、また相手側が問題にしていることが「無視できる」とすることなく、両方を解決できる方法を見つける方向に知恵を貸していただければなあ、と思ってる次第です(というのは、私もいろいろと無い知恵を絞ってはみてるんですが、なかなか思いつかないもので)
で、んー、上のDwyさんの主張にも一理はあると思います。しかし、それでもそこまでの含意をpolicyの部分に盛り込むことは許されないだろうなと私は判断します。というか、多分それだと日本語版で上手く回らない部分が出てきて困るだろうなあ、というのが私の印象です。Dwyさんの主張はとても真っ当なものなんだけど、(ウィキペディアだけにとどまらず)日本のインターネットを取り巻く現状に即してないというか、ある意味、それは理想主義的だな、とすら思うわけです。ルールで「言いきってない」ということだけを以て「ルール違反」だからと言うような奴は、ルールに書いてあっても何らかのアクションを起こすでしょう。明言することで得られる効果は、そのような多数の抗弁のうちの一つについて「明言されてます」と答えられるだけのものでしかない。むしろ「ルールです」だけで片付けようとして、余計にコトをこじらせる奴がでてくることも容易に想像できるわけでして。決してデメリットを伴わない方法ではないし、そのデメリットに見合うメリットがあるかというと……まぁ私はかなり疑問に思ってます。
このスレッドにおいてRigelさん側に寄った意見を出している理由なんですが、例えば、上のままだと「削除依頼に出さずに全文白紙化」という荒しに対する抑制がまったくないんですね。たとえ、出典を後からまとめて書こうと思ってるようなstubであったとしても、書きかけた途中で消しちゃうことの「正当化」が可能になる。全部の執筆者に対して「そういう方針ですから全部書き直して下さい」と、まぁ言うのは簡単ですが、それを言われた方の身になって欲しいというか、これがどのくらい「まともな執筆者」に対しても不要な労力を科し、執筆する気を削ぐことなのか、という危険性は十分把握して欲しいところだなあと思ってます。
特に日本語版では書きかけのものが多くて、出典が「まだ書かれていない」というものの方が多いです。今回のがもう1-2年くらい後に書かれた文章で、出典を整備した記事が8-9割になっている状況ならば、全体のバランスを考慮した上でかなり厳しい文体にすることも考慮できるでしょうけど、「現在のウィキペディア」の状況はそれを許せる状況になく、その手の大規模な荒しが出てくると(今、この状況でもかなりややこしいのに)手に負えませんから。そして、その可能性というのは必ずしも低くない。特にDwyさんが望んでいるような「いい加減な文章の強制排除」は、それ自体はとてもまともな行為であったとしても、逆恨みから無秩序な模倣荒らしを生む危険性を孕んでるんです。その点がDwyさんの意見は、決して「間違っている」わけではないんだけど、全体のバランスとして、私にはいびつというか、(ちょっと言いにくいですが)浅い考えに見えます。本来なら利便性を求める人こそが(上の表現を借りるなら)誰よりもその「セキュリティホール」には慎重になって欲しいな、と思ってます。さもなければ、セキュリティホールを見逃したばかりに、こういう問題が発生した後で、正当な部分まで一緒に叩かれて、結局は本来求めた利便性のすべてまで一緒に失ってしまう……こういうケースって実はウィキペディアで比較的良く見るよなあ、と常々感じてたり。
ここらへん、全体のバランスについて、またウィキペディアの記事の現状も併せて、十分に考慮された上で、何かいいアイデアを示していただけるのであればなあと思います。--Y tambe 2006年7月16日 (日) 11:08 (UTC)
ちぇすです。私はDwyさんと同様の意見です。どちらのスタンス側にも問題となる行為に及ぶ人間がいることは重々認識していますし、バランスが重要とのY tambeさんのご意見には全く同意です。しかしそのバランス(の重要性)が均等であるとは私には思えません。いい加減なことを多量に書く人は荒らしと見なされても仕方がありませんし、その情報はWikipediaにとって有害ですが、多量に削除する人が同じ比率で有害なのか、どうも疑問です(もちろん無害と言っている訳ではありませんよ。荒らしには違いないと思います)。例えば上述のRigelさんの文章に出てきた「秀逸な記事でさえ骨抜きにされてしまうことでしょう。」などでも、出典のない記事が文章の構成や書き方などだけで秀逸と選ばれていたのなら、その文章の検証性に(削除により結果的に)疑問を投じることは骨抜きどころか項目を鍛えていると言っても言い過ぎではないのでは。Dwyさんのご意見も私には理想論には捉えられず、私と同様に目の前の問題行動への対応を考えた結果のご意見と受け取れました。
基本的にはWikipedia:検証可能性は荒らし対策ばかりではなく、記事を編集する際の基本的方針であり、記事の信頼性の指標です。人間の記憶はあやふやですし、その記憶にのみ頼って記事を書けば間違いや思い込みが必ず入るでしょう。もちろん中には常識と思われあちこちで目にする説明が事実と異なる場合もある。書物や辞典などでそういった一般常識が事実と異なることを教えられハッとした経験を持つ方は結構多いと思います。「信頼性のある出典」のない情報は他者から見て検証されていないあやふやな情報の危険性があると思われても仕方がないですし、Wikipediaをよく知らない閲覧者には「出典が記載されていないだけで信頼がある情報」との差がわからない。逆にこちらの方が怖い。Wikipediaは玉石混合でしかも玉か石かがわからない。
現在のWikipediaのステータスがその内容に伴わず上昇していることは皆さんもご存知だと思います。様々な媒体で取り上げられたり内容を参照され始めている。gooからも引けるようになっている。またそのステータスを利用しようとして、情報操作をして利益誘導を目論む輩も出てくる。好むと好まざるとに関わらずWikipediaの信頼性向上がインターネットで無視できない状況になっていると感じませんでしょうか。玉石がわからず玉を石と思われるならまだ安全ですが、そのステータスにより石を玉と思い込ませる存在だったら、インターネットにとってWikipediaは害悪でしかない。
だったら私はまだ「信頼性のある出典」がない情報はやみくもに削除されてもましとさえ思いますし、こういった方針が後から出てきたこと事態、Wikipediaのステータスの変化への対応と思っています。
Wikipediaが単なるblogや2chのまとめサイト的性質でそれが周知ならいいでしょうが、そうではないのでしょう?
また単なる私の思いでしかありませんが、きついと思われる制約により出て行く書き手より、上昇したステータスにより魅力を感じる書き手の方がより多く、また質の向上も見込めるのではないかと思われますが如何でしょうか(より多くの質の低い書き手も入るでしょうが、それはきつい制約により淘汰される)。
とまぁ思いますが、これこそここで議論すべき事項ではなく、Y tambeさんがおっしゃるように「metaなどのもっと適切な別の場所」での議題でしょうね(Y tambeさんのご意見も含めて)。現状をよしとせず双方の問題を潰すような、より良い対応を考えることには賛成です。--ちぇす 2006年7月16日 (日) 15:49 (UTC)
コメントありがとうございます。まず一点だけ誤解を解いておきたいのですが、「バランス」という観点から言うと、「方針」自体は英語版と同じものを掲げなければならないにしても、「運用」を英語版と同じにできる、というのは、日本語版の現状を無視した見方だな、というのが上に(長々と)書いた私の意見でして。前者の議論はmetaで、後者の議論は(それを解決した後で)ここで、と考えているわけです。この点は最初から変わっておりません。先の長文では、ついDwyさんの話に反応して、後者の議論をこのスレッドで始めてしまったのはまずかったなあ、と思ってますが。
オフトピ承知でちょっと話を続けますが、恐らくは、運用については英語版と別に日本語版独自の事情を考慮して行わなければならないだろうと思ってます(なので、上の私の議論はmetaで行うべきではなく、(1)が片付いた後でここで話し合うべきことだと)。英語版のやり方ができるほど日本語版ウィキペディアのコミュニティは成熟してないし、そもそもインターネット参加者にもお国柄的な違いがあって(例えばslashdotの本家と日本版の違いなどからも見て取れるように)それを無視した運用はいずれ破綻するだろうなと(まぁ、個人的にはそれでもGFDL文書は残るからいいか、と思わなくもないですが)。まぁそれを避けるためにも、そのときの状況に応じて柔軟な対応ができるように、動かすことが難しい「方針そのもの」には余計な含意を入れるべきではない、上の(1)はとにかく翻訳の忠実性のみを考慮し、あとは(2)と(3)で、ということです。
それから、「上昇したステータスにより…」ですが、その効果が期待できるということについては異存ありません。ウィキペディアの信頼性についての重要性については私もまったく同感でして、Wikipedia:査読依頼の方でもいろいろとやっております。特に「検証可能性」から一歩進めた「検証」についての実施も勘案しております(ノート:腸炎ビブリオでの実証実験なども含め)ので、もし関心がおありでしたらそちらの方の議論にも参加していただければ幸いです。
ただ向こうでも進めてますが、ものには順序とタイミングがあるので、検証可能性について出典提示を「猶予期間なしで強制」するのは、日本語版ではまだ早いだろう、というのが私の予測です。まだ書かれていない「基本的な項目」が書かれ、自主的に出典が追加された項目が増え、査読による品質評価と(検証「可能性」だけでなく)実際の検証を経た記事が作られるまで、私は大体2年くらいのスパンの仕事になると考えており、「出典提示の義務化」を感じさせるような文章を掲載できるのは、その途中の時点、大体1-2年くらい先のタイミングで行うのがよさそうだな、と。むしろ、それより以前に(上に挙げたような)セキュリティホールがある状態で導入しちゃうと、それを逆手に取られて「検証」に関わる部分の全体がぽしゃってしまう、それをいちばん危惧してるわけです。(1)の翻訳の段階でかなり強い文面にすべきというのは、そういう部分まで影響を及ぼしかねない、結構厄介な問題なんです。もしそれを盛り込むというのであれば、その点についてどう解決するか、という点まで明確にしてくれないと困るよな、というわけです。--Y tambe 2006年7月16日 (日) 16:49 (UTC)
なるほど、了解しました。(1)の段階で(日本語版に合わせた)逆バイアスが掛かることが少々心配だったのですが、まずは(どちらのベクトルに対しても)余計な思惑を入れない訳の推敲からというのはまったく賛成です。
運用に関しては、日本語版独自の問題があるとのご意見もわかりますが、できればローカリゼーション(もしくは運用方針)に関しても本方針と同程度の具体的且つ詳細な基準が設けられることを期待します(「猶予期間なしで強制」は無理でもどれくらいかの執行猶予があるなど)。
あと、やはりなかなか理解し難いので伺ってしまいますが、
> 「出典を後からまとめて書こうと思ってるようなstubであったとしても、書きかけた途中で消しちゃうことの「正当化」が可能になる。」
などは正に消されたら書こうと思っていた出典を書いてリバートすればいいんじゃないかと思ってしまいますが、どうでしょう。もしくは取り敢えず先に出典を書いておくなど。特に書籍などの場合はその書籍自体を書いておけば、その中に書かれている事項は全て出典済みということで都合がいいでしょうし。つまり(一般論として)出典を書くことへの抵抗感がなぜそこまであるのか。そんなことでは今後もやはり出典の記載されない情報ばかりが増えるのではないか。そのような状況ではY tambeさんの目論んでいる2年のソフトランディングなど夢ではないのか、など疑問です。--ちぇす 2006年7月16日 (日) 18:05 (UTC)
「出典を書いてリバートすればいいんじゃないか」というのは、まさに上で指摘した「言うのは簡単」だけど、実施すると余計な確執を生みかねない厄介な問題でして。まぁどっちかというと、共同作業を円滑に進める上では「出典がまだ提示されてないもの」について、出典が提示されるまで待つことの方が、今はメリットが大きいだろうという、実利的な判断に基づいてます。日本語版では、少なくとももうしばらくの間は、専門家の参加を促せるような雰囲気づくりをしておく必要があり、その手の人がウィキ初心者として参入するときの敷居は下げておく必要があると(さらに、これはウィキペディアが信頼性を獲得することにも間接的につながりますから)。これが、ある程度の数の専門家が参加し記事を書いた後ならば、もっと敷居を上げてもいいだろうけど、今はまだそういう時期ではないと、私は思ってます。
それから「猶予期間」についてですが、まぁこれは多分反対意見も多いとは思うんですが、私はかなり長い期間をとっていいんじゃないか、と思ってます。というのは、後で書きますが「出典がまだ提示されていないだけ」というのと「どうやっても出典が提示できない」というのは別物だし、出典提示の有無と検証可能性とは実は厳密には別物なんで。ウィキペディアが排除するべきものは後者の「出典提示不能なもの」に当たり、前者については本来は加筆による対処をすべきスタブ(書きかけ)です。なので「書きかけでなくなったとき」に、提示されるべき出典が提示されていればいい、と考えてます。この「書きかけでなくなったとき」というのを、私は画像:依頼系フロー.pngで以前試案として示した「β版」と位置付けてるんで、かなり時期的には遅いところまで容認する立場かな、と。もちろん、早い時期に提示されるにこしたことはありませんが。
で、上に少し書きましたが、「検証不能であること」と「出典が提示されてないこと」は同じじゃないんですよね。これを混同してはいけないと。上述のように、出典が提示されてない記述についても、それは「まだ提示されてないだけ」の場合と「どうやっても出典が提示できない」場合とがあります。また他方でたとえば、もし出典が提示されてなかったとしても読者が出典を探すことができたら、それはその人にとっては「検証可能な記述」になるわけです(もちろん、それを無制限に要求しない、というのが方針の3番目に盛り込まれてるわけですが)
ロジックとしては
  1. 検証不能な記述はウィキペディアからされます(しなければなりません)
  2. ウィキペディアンは、自分が検証不可能であると判断した記述を除去することができます
  3. 出典の提示されてない記述は検証不可能であると判断される可能性があります(=除去されるかもしれません)
ということです。「出典が提示されてない=除去できます」ではなく、あくまで「検証不可能である=除去されます」なんですね。荒し目的で「出典の提示がない」という理由だけで記述の除去を濫用された場合には、「『検証不可能である』についておかしな判断を多発しており、判断能力が信頼できない」という反論が可能になりますから、このロジックをきっちり押さえておくことは大事だと思ってます。極端なことを言いますと、ここはきっちり詰めておかないと、すべてのスタブを削除依頼/即時削除にかけることなく「瞬殺」することすら可能になっちゃうんですね。で、そういうことをやりたがっている人というのは間違いなく存在してるわけですから。--Y tambe 2006年7月17日 (月) 08:42 (UTC)
Y_tambeさんのまとめは「検証可能性」の問題点がはっきり切り分けれていて分かりやすく感じました。肝は3ですね。ただ、3について日本語版内で合意が簡単に取れるとは思えません。1と2から、「出典がない->消去->(出典を書いて差し戻し)」という単純な方向に流れそうに思います。私も実際にはこのように運用されるのではと考えています。3はロジックは単純なのですが、出典がないことと、検証不可能なことは自分でかなり調べてみないと分からない場合も多く、ギリギリのところを突かれると荒らしなのかどうか判断できないと思います。
猶予期間については、ぜひ欲しいですね。自分が出典を要求された場合に引きつけて考えると、もし書籍を入手するなら数カ月必要という場合だってあります(例えばファイストスの円盤など古い洋書が必要な場合)。{{要出典}}を本文中に差し込んで、ノートに疑問を書くというのが一番良い運用だと感じます。しかし、猶予期間として数カ月から2年という期間をどうやって運用の形にできるのか、よい方法が思いつきません。「1 + 2」という単純な論理は、現在の「荒らし->差し戻し」と形式が似ていますし。---Redattore 2006年7月17日 (月) 13:06 (UTC)
ちぇすです。Y tambeさんに対してです。
「出典がまだ提示されていないだけ」というのと「どうやっても出典が提示できない」というのは勿論異なるものですが、「真実である」と「検証可能である」の差ほどにそれを認識し区別するのは難しいのではないでしょうか。つまり双方とも「多分検証不可」「多分真実」は言えても、本当の所はなかなかわからない。
例えば出所不明な新たな情報を追加する方は非常に多いですが、一応該当項目に対してウォッチしている私も知らない情報で、なんか怪しいと思われる情報もしばしば追加されます。しかもそれが日本では未発表の情報で単に知らなかっただけだったり、もしくは本当にデマ(というか噂を公式情報であるかのように記載する)だったりと色々です。情報源がある場合で消されたものもありますが、それは情報源を示されて復活したりしています。しかし、よくできたデマは(たぶん)みんなが本当の情報なのではないかと削除をためらい(単に見られていないだけかもしれませんが、少なくとも私はためらった)、結構生きていることもあります。「どうやっても出典が提示できない」を示すというのは悪魔の証明に近いのでは。
ただロジック2にあるように、証明ではなく自分の判断余地があるのなら解決しようもあるかもしれませんが、今度はロジックの3以降に書かれている荒らしの判断など、デマ情報を確信して削除するWikipedianに対しても荒らし行為者としてのレッテル貼りをされる可能性があるかもしれません。難しいのですが、基本的には荒らし行為者を排除するのではなく、荒らし行為そのものを排除することが必要かと。そうでなければレッテル貼りの横行など現在でも見られる醜い争いがエスカレートする可能性があります。そのためには(運用ルールと言えども)大まかではなく細かいルール作りが必要かと思います(荒らし行為との切り分けのため)。
あと執行猶予を長くの件ですが、「未検証だが検証可能」側の情報としか考慮されていないということはありませんか?逆の場合誤った情報がそれだけ長期間載ることが可能となる危険性はどうしましょう。それこそバランスが必要かと思います。また{{要出典}}のテンプレも基本的にこのようなものがベタベタ貼られていることの是非もあると思います。--ちぇす 2006年7月17日 (月) 15:45 (UTC)
(少しインデント戻します)Redattoreさん、ちぇすさん。コメントありがとうございます。両方に対する返事には共通する点が多いので、まとめます。
まず、Redattoreさんのいう「ギリギリのところ」も、ちぇすさんのいう「多分検証不可能」「多分真実」も、どちらも確かに存在するグレーゾーンだと思ってます。そこをどうさばくか、という点について。実は、下でO^tsukaさんに先に言われちゃったのですが (^^; 「解説の補足で対応」「運用で対応」のところで、いくつかの対応方法を例示する、という形に持って行くのが妥当ではないかなあ、と思ってます。
ちぇすさんが言われたように、実はグレーゾーンにもグレーの濃さがいろいろ違うものが入ってるわけでして。それを一緒のものとして処理するのではなく、「気付いた人が、自分の判断力に基づいて、下記のいずれかの処理を行う」という形を想定してます(緩やかなものから順に)
  1. 要出典タグ、または参考文献について加筆を依頼するテンプレートを付ける(特に時限は設けない)
  2. 要出典タグを付けた上、その記事のノートで、妥当と思われる時限(1週間〜)を提案して、時間内に出典提示がない場合は除去
  3. 問題の記述を一旦除去した上で、その記事のノートに議論を誘導する。
  4. 問題の記述を除去(要約に「検証可能性に合致しないため除去」等と書くことは推奨、ですね)
こういう感じかな、と。リストの上のものは、問題の記述が除去されるまでに時間がかかり、また話し合いなどの手間もかかりますが、一方でトラブルを起こしにくいというメリットがあり、下にいくほどその反対になるわけです。
これらをどういうケースにおいて使いわけるかについてですが……これは、結局のところ処理をする人の判断に任せるしかないと。ただし判断をする以上は、その判断そのものに対する責任は、その人に要求されるだろうな、と思ってます。例えば、あんまり蒸し返すのも悪いとは思いますが、以前阿部定事件が削除依頼に出されたケースのように、その人の判断が間違っていたという場合も考えられるわけで。そういう場合には、その判断を下した人に対する評価が下がりますが、それについては自己責任の範疇だろうな、と。
そういうトラブルを避けるために、いくつかのケースを「この方針に補足解説として加える」ことは有効だと思ってます。ただし私は、ちぇすさんやO^tsukaさんが言ってるのとは異なり、それを「細やかなルール」にまですることには反対よりの意見をとります。つまり、そこから先は「運用でカバー」することにしたいと。というのは、そうやってルールを決めても、二年後(あるいはもっと早く)には現状にそぐわないものになってしまってる可能性が高いだろうと思ってるからです。
多分、上のリストに挙げたうち、最初の頃には上の方にあるような「緩やかなやり方」で対応される数が多く出てくると思ってますが、(これも上でちょっと書きましたが)そういう項目が十分に増えてきて、参加者が慣れてきたら、徐々に下の方にある対応へとシフトしていくことが可能になると考えてます。そして、そういう状況になったときに、あまり細かなルールで縛られていると却って面倒だろうなと。多分、この方針を実地に導入した後で、いくつかのトラブルが発生すると思いますが、そのときのコミュニティの判断に応じて柔軟に対処できるようにしておきたい、ということです(まー、とか言ってても、トラブルが発生した後で、すぐに「ルール化」を唱える人が出てくることも、また十分予想の範疇ではありますが)
で、上に挙げたようなリストのもとで、個別の事例については運用でカバーしていくということが、Redattoreさんとちぇすさんのそれぞれ挙げられた問題の解決につながるのではないかと考えているわけでして。出典の調査に長時間が必要となるものについては、ノートにおいてリストの(1)に準じて同時に加筆依頼や(かえでさんが提案している)リファレンスワーク依頼などに提出するかたちにできる(=恐らくはコミュニティでも強く反対する人もあらわれないでしょうから)のではないかと。一方、長期間提示したままにすることが望ましくないと思われる内容については、(3)(4)などの対処が、ただし「判断した人の責任で除去する」ことが可能です。ただ、確かにこのやり方はトラブルをまねきかねないので(少なくとも、もうしばらくの間は)要出典タグを用いる方が無難かもしれません。もちろん、確信と覚悟を持ってやる分にはかまわないのですが、これをグレーゾーンのものにまで「気兼ねなく」できるようになるまでは、出典提示の習慣がコミュニティに浸透していくまでの間、もう少しは我慢して待って欲しいし、「いやオレは待てない。最初から何の気兼ねなく、ばんばん除去してやりたい」というのなら、ルールという「後ろ盾」に頼ることなく、それは自分の評判を賭けて、自己責任でやってほしいな、と言うのが、この「運用でカバー」という点についての私の本音です。--Y tambe 2006年7月18日 (火) 11:33 (UTC)
戻します。ちょっと浅はかな考えかもしれないんですが、「検証可能性」に引っかかってページ全体が削除された場合に、通常の削除されたページの表示ではなく、「検証可能性を満たせないため削除されました」というような表示を行うのはどうでしょうか。そこで「検証可能性を満たせば再びこの項目を復帰可能である」旨を表示しておく、というような形です。--Ex 2006年7月18日 (火) 02:33 (UTC)
特別な「削除されたページ」を作成すると、かえってその記事に対する「白紙化を経た執筆」意欲を削いでしまう可能性があるので、新たな執筆者を得るためにもそれは避けるほうが良いのではないかな……と思います。今日飛鳥配列を白紙化(削除テンプレートはそのまま)にしてみてふと思ったことが……この手のことは(出来上がってしまった成果物に対してどうこうすると言うよりも)執筆者に聞くのが一番早いわけでして、検証可能性があるかどうかを確認するために「記述に関わったWikipedianの利用者会話ノートで問いかける(→記事のノートに誘導する)」方が自然かと思います。記事のノートにのみ書いて済ませる方法もありえそうなのですが、ウォッチリストを使っていなければ執筆者本人に伝わるかどうかは解りませんし。問いかけさえすれば「根拠がないから削除」「根拠がすぐに示せるから原典を追加する」「猶予が欲しいので【要原典】タグを貼る」という感じで何らかの反応が得られるでしょうから、その意見を元に対処すれば「記事の実情に見合う個別対応」をしつつ、全体的には「ルールに準拠した」対策が可能かと。この方法であれば、ルール改定があろうとなかろうと現行どおりの運用レベルで行えますし、指摘が荒らしではないことを明示的に主張したい人は積極的にこういう方法を使ってくれるであろうと期待しています。 -- かえで 2006年7月18日 (火) 08:47 (UTC)
「出典がなければ(とりあえず)除去してよい」というルールに対しては、現状では相当な反発があるでしょうし、無理に徹底しようとすれば余計な軋轢を生むだろうという心配も理解できます。
しかし、翻って現状は上手く行っているのでしょうか?記事の内容に異議がある場合、出典の有無を問題にするルールが徹底していないので、現状では「記事の記述が間違っている」という主張をせざるを得ません。だから、いたるところで「俺の説が正しい」「お前の説はおかしい」というような論争が生じています。そういう論争では少数派が正しいことも充分ありえるので、多数決で決めるわけにも行きません(少数派が容易に納得しない)。結局、多くの論争が、いつまでも結論が出ない不毛な論争になっているのではないでしょうか?
これに対して、「信頼に足る出典がなければ掲載しない」のルールは話が簡単です。「信頼に足る出典」=「多くの人が信頼しているソースの情報」であり、これは多数決で決められるからです。「出典のない記述は削除して良い」がコミュニティーに浸透しさえすれば、現状の不毛な論争のかなりの部分は抑られるのではないかと思っています(みなさんおっしゃるように、理想論かもしれません)。
ついでに言えば、多くの方々は出典が無いという理由だけで削除しまくる人を「荒らし」だとお考えのようですが、私に言わせれば、現状あちこちで行われている「この記事のこの記述はおかしい」という異議の述べ方より、「出典が無いので、出して下さるまで取りあえず削除しておきます」の方が余程おだやかです。出典を欠く記述を削除する人は、「他の参加者に敬意を払う」等のルールに従って行動している限り、「荒らし」ではなく立派なウィキペディアンとして扱われるべきだと思いますし、他の人はその人の動機を憶測して非難するのではなく、善意に取るべきではないでしょうか?なぜなら、ムッとする心を抑えて出典を探しそれを掲載すればウィキペデァのすばらしい進歩をもたらすことができるに対し、削除した人を非難しても正に不毛な議論で何ら有益な成果を生まないからです。
以上のような意見はたぶん少数派でしょうから、私としても、絶対そうでなければいけないという主張をするものではありませんが、そういう考え方もあるということで、述べさせていただきました。 --Dwy 2006年7月18日 (火) 15:41 (UTC)
確かに理想論はそこにありますね。翻って、「やってみないと問題を把握できない」場合は、現実が解るまで「ご自身が主に執筆・加筆した記事に対して、ご自身の手で」強行法を実践していただき、「多くの執筆者が抱えている危機感・焦燥感」を体感いただくのが一番いいのかなぁ……と思い始めています。自身が書いた記事のことは、自身が一番よく解っているわけですし、まずはそこから……ということで。おそらく、ご自身がよく理解し関わられている記事についての検証可能性を満たそうとするだけでも、十二分にウンザリできること請け合いだと思います。私の場合はWebにしか根拠がなく白紙化した飛鳥配列(ノート)、執筆したACT_(キー配列)の全文献再検証、原典はあるが整理できていないQWERTY配列Dvorak配列AZIK風_(日本語入力システム)花配列SKY配列の整理など、生かせる記事を生かそうとするだけでもやるべき事が山ほど積み重なっている状況です。これらを片付けるだけでも軽く半年は掛かりそうな状況でして、とても強行法を安易に唱えるだけの気力など無いのですよ。それどころかより緩いWikipedia:井戸端#「Wikipedia:レファレンス・ワーク依頼」の提案に今すぐでも頼りたい状況です。 -- かえで 2006年7月19日 (水) 10:46 (UTC)

インデント戻します。Dwyさんのご意見に賛同します。百科事典をめざすのであれば、出典なしにつき削除は当然であり、やむをえざるところと思います。いままでそうでない編集がまかり通っていたことを、私たちはまず反省すべきではないでしょうか。S kitahashi(Plé)2006年7月19日 (水) 16:27 (UTC)

ストイックに記事を練り上げて頂くのは大変有り難いことですし、百科事典の質の向上に直結します。頼もしく感じますし、このような方が編集した記事であれば安心して記事を読めます。調べものの役にも立ちますし、自分が記事についてさらに掘り下げて調べたい時に足がかりにもなります。私もそうありたいと思います。ここまではよいのですが、現状のWikipediaの記事はまったく出典がない、参考文献すらもないというものが大半なのではありませんか。私は「おまかせ表示」が好きで、よくパラパラと無関係に記事を読みますが、まじめに読むと(あまりにも無根拠なために)苦痛を感じる記事にひんぱんに出くわします。この状態で「出典なしにつき削除は当然」とすると、コミュニティが大混乱に陥るのは明らかです。Wikipediaはコミュニティベースで百科事典を作ることが目的です。百科事典を作ることが目的で、コミュニティは手段に過ぎないのかもしれませんが、書き手が書く気を失うと百科事典は成長しません。Y Tambeさんの受け売りになってしまいますが、数年後は「出典なしにつき…」とばっさり切っても大丈夫な状態に落ち着くかもしれません。しかし、現時点では方針だけを投げて、運用、もしくは皆が納得しやすい論理、説明、ロードマップ、とにかく方針が浸透する助けとなる道具を考えておかないとうまく回らないと考えます。---Redattore 2006年7月19日 (水) 17:19 (UTC)

S kitahashiさん、コメントありがとうございます。一点確認ですが、Dwyさんの意見に賛同されるとのことですが、具体的にはどの部分に関してでしょうか? もしそれが最初の方にある「方針の部分」の翻訳について「『取り除くことができます』→『除去されるかもしれません』の修正に反対します。」ということであれば、そう受け止めた上で議論を進める必要がありますので。

また、この点については、Dwyさんにももう一度、上の説明を経た上でも意見を変えていないのかどうか、意思を確認しておきたいのですがいかがでしょう?

それから、上のDwyさんの指摘について、一点だけ誤解を解いておきたいと思います。「多くの方々は出典が無いという理由だけで削除しまくる人を「荒らし」だとお考えのようですが」とのことですが、そういうわけではありません。私が問題にしているのは「荒らしを目的として、出典が無いという理由だけで削除しまくる人」をきちんと対処できるのか、という点に付きます。「出典が無いという理由だけで削除『する』」こと自体が「荒し」になるかどうかと言われれば、それは荒しにはならないでしょう。しかし、そもそも「荒し」という概念には、例えば「善悪」の概念と同様、流動的な部分もあるというのが私の考えでして。時流(その時点でのコミュニティの総意)にそぐわない対処であれば、いくら後から見て問題がなかった行為だとしても、「荒しとみなされる」ことはいくらでもありえるでしょう。この理念が浸透する前に削除「しまくる」人は、そう扱われてしまう可能性もあるだろうなというのが、私の正直な予想です。これは「優れた執筆者であっても共同作業ができない人は、ウィキペディアでは活動できない」と似たような構図かもしれないですね。そういう悲劇を招かないよう、スムーズに、かつ出来るだけ速やかに理念を浸透させる方法がないかというのを、いろいろと考えてみているわけでして……なかなか難しいですけど。

「取り除くことができます」と掲示することが危険ではないかということについては、上でいくつか例示しましたが、もっと極端な具体例を挙げておきます。Redattoreさんが試されたように、先ほど「おすすめ表示」を10-20件ほど試してみましたが、そのうち公式サイトへのリンクなどを含めても、一次情報へのポインタが提示されたものは2-3件でした。おそらくは、日本語版全体ではこのように「出典が掲示されている」ものは1-2割程度であり、残りの約20万項目には「まだ」出典が提示されてないだろうと思います。では、もし仮にその20万項目が、ある荒しの手によって一晩のうちにすべて白紙化されてしまったとして、それを「当然」「やむをえざる」こととして受け入れろと言えるか? コミュニティ全体が果たしてそれを受け入れるのか、ということを思考実験してみて下さい。また、明確に荒す意図がなかったとしても、ウィキペディアに参加して間もない中学生のA君が、この「方針」にいたく感動して、その信念のもとに、出典のない項目を白紙化していったらどうなるでしょう? 「いや、方針には『誰でも除去できる』と書いてありますが、本当に実行されると困ります」「じゃあこれは『方針』とか偉そうに言ってるのに、嘘が書かれているのか」という応酬をするのか……もちろん、これらは荒唐無稽なたとえ話ですが、要はそういうことです。ただ、こういうリスクが「荒唐無稽」として無視できないというのも、今のウィキペディア、日本のインターネットの現状だろうと。動かしがたい「方針」の部分については、敢えて「含みを持たせられる表現」を採りたいというのは、そのリスクをあらかじめ避けるためのものですので、お二方にはご一考いただければ幸いです。--Y tambe 2006年7月20日 (木) 09:37 (UTC)

ウィキペディアにおける荒らしの定義はWikipedia:荒らしを参照してください。検証可能性のない記述を、個々にきちんと理由を述べて、除去するならば、荒らしではないでしょう。しかし、理由を述べなかったり、項目全体を白紙化するならば、荒らしと見なされるでしょう。
忘れてはならないことは、WP:NPOV, WP:V, WP:NOR の三大方針は、理想だと言うことです。そして、絶対に、完璧に履行し得ない方針だと言うことです。「時間をかければそれなりにうまくいくさ」の方針、「ルールにこだわらない」ルールも忘れないでください。Tietew 2006年7月20日 (木) 09:56 (UTC)
コメントありがとうございます。指摘されて、自分がちょっと熱くなってたな、ということに気付きました。もう少し冷静に俯瞰的な見方を取り戻せるまで、少し頭を冷やして静観したいと思います。上でコメントを求めた方々には恐縮ですが、悪しからずご了承いただければ幸いです。--Y tambe 2006年7月20日 (木) 10:14 (UTC)
>ウィキペディアに参加して間もない中学生のA君が、この「方針」にいたく感動して、その信念のもとに、出典のない項目を白紙化していったらどうなるでしょう?
そもそも私に言わせれば、そのような「白紙化」が出典の明示を実現するきっかけになるなら、それはすばらしい進歩へのワンステップであり、単純に「白紙化=悪」とはならないのです。
前にも書きましたが、白紙化された記事を復活させたければ、「信頼に足る情報源」を提示すべきであり、それ以外の手段を認めるべきではありません。出典を提示をせずに「ちょっと待って」とか「白紙化は困る」とか言っても、不毛な議論になるだけです。出典の提示に時間がかかる場合に元の記事内容を取っておきたければ、記事のノートやユーザーページのサブページ等に退避するのが本来の処理でしょう。
もうひとつ言いたいのは、「出典の明示」は皆さんが言うほど難しくないのではないかということです。なんだかんだいっても百科事典の記事なんですから、みんな何らかの参考文献で記述の正確性を確認した上で書いているはずで、その参考文献を出すのがそんなに難しいことでしょうか?また、出典の提示は(少なくとも初めのうちは)完璧・詳細でなくてもよいのではないかと思っています。英語版の記事の例を見ても参考文献として書名が書いてあるだけで「この部分はこの本の何ページが出典」と事細かく書いていないものがほとんどのようですから、大体そんなところで良いのではないでしょうか?
「全面白紙化」に対するとりあえず対処方法としてなら、「記事を書くとき参考にした本の書名を参考文献の欄に追加して復活します。これらの文献で記事に書いたことが一応全てカバーされているはずですが、もしおかしいと思われる記述があれば、具体的にどの部分かご指摘ください」だって良いだろうと思っています。もちろん、参考文献でカバーされていないことが明らかな記述は除去しておく必要がありますが、どちらかあやしいがチェックに時間がかかるというような部分は、とりあえずそのままにしておいて、異議が出るのを待つでもかまわないと思います。もしそれで何も言わずに再度白紙化してくれば、出典のある(はずの)記事の削除ですから、許されません。「この部分がおかしいと思う」のように言ってきてくれれば問題点が絞られる分だけ対応が楽になります(うまくいけば、その後の議論によってさらに記事の質が向上するかもしれません)。若干インチキのきらいもありますし、これでうまくいくかどうかわかりませんが、大事なのは出典の明示という改善目標に向かって少しずつでも前進を図ることで、それを棚上げしようとしても有益な成果が上がる結果になりにくいのではないかと思っています。--Dwy 2006年7月20日 (木) 16:11 (UTC)

[編集] 説明を補うことに関して

話の流れを読んでいない頓珍漢な発言ならばお許し願いたいのですが、Y tambeさんの仰っていた「方針とは別に、説明を補うことで問題発生を防ぐ」と、「運用レベルで問題発生を防ぐ」に関して、検証可能性の方針とは別に、出典のない記述の扱いを定めた方針文章を(考慮すべきガイドラインなどとして)規定するというのはいかがでしょうか。

Wikipediaの基本方針として、信頼できる情報源からの内容のみを書くというものは、信頼される百科事典を作るプロジェクトの方針としては外せないだろうと思いますし、ジミー・ウェールズの発言(一部の編集者の間には、「どこかで聞いた」などといった推測の域を出ない擬似情報の類には「要出典」タグを貼ればよいといった恐ろしい思い込みが見られる。ちがう、ちがう。ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ)も最もであろうと思います。一方で、記事に対していつもその分野に詳しい人が見張れるわけでもなく、また完全に妥当な記述なのに出典が示されていないと言う点だけを取り上げて削除・除去されると言う状況は防がなければならないだろうと思います。

そこで、状況別に

  1. 単に(無断で)除去して良いケース
  2. 記事から除去した後ノートに移動し、ソースを求めるべきケース
  3. {{要出典}}、{{Unreferenced}}等のタグを貼って(記事に記述を残したまま)一定期間出典の提示を待つべきケース

等を決め、例えば

  • 明らかにデタラメと分かるものや、生存中の人物に対する根拠のない批判については1を適用
  • その分野に詳しい編集者が疑わしいと判断したものは2を適用
  • その分野に詳しい編集者も判断しかねる場合等、そのほかの場合は3を適用

のような感じで、ソースのない記述の扱いを決めるのはどうかなと思います(多分に感覚的ですが、あくまでもたとえということで・・・)。

あるいは、(思いつきで恐縮ですが)ソースがないという理由のみで記述を大幅に削る場合は、専用のページでそれを報告することが勧められる(もしくは義務付ける)、といった方針もありえるかもしれないと思います。その場合、そのページをウォッチしている人が多ければ、あとからでも出典を付け加えるチャンスが増える期待が持てるでしょうし、検証可能性の方針を逆手に取った荒らしのような記述の除去は防げるかもしれません。

もちろん、両者が対立する場合は公式の方針である検証可能性が優先されるでしょうし、なるべくならすぐに出典が提示されて解決すればそれに越したことはないと思いますけれども、完全に妥当な記述までもが削除されてしまう危険性を狭められるのであれば、こういう方法も有益ではないかなと思いました。O^tsuka 2006年7月17日 (月) 22:50 (UTC)

提案ありがとうございます。実は私が考えていたのも、よく似たものでして、先に書かれてしまいました (^^; ただ、一点違いがあって、私はどちらかというと対処法についてはきちんと提示しても、「このケースにはこれ」とまで、あまり細やかに決めてしまわない方が、柔軟な運用が可能になるんじゃないかと思ってます(特にこれから先、大きく変動しそうな周囲の状況を考えると)。この点について、先ほど上のスレッドにコメントしましたので、ご一読いただければ幸いです。--Y tambe 2006年7月18日 (火) 11:40 (UTC)

[編集] 二番目の問題点について

二番目の問題点である、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の項の修正案です。英文の文意を損なわないよう、意訳を避けて翻訳してみました。

〔Wikipedia:検証可能性の該当する英文〕
Burden of evidence
The burden of evidence lies with the editors who have made an edit or wish an edit to remain. Editors should therefore provide references. If an article topic has no reputable sources, Wikipedia should not have an article on that topic.
(議論を理解しやすくするために、2006-06-18 02:29:53(UCT)版から該当する英文をコピーして挿入させていただきました。--Sloop25 2006年7月15日 (土) 16:00 (UTC))


〔Wikipedia:検証可能性2006-06-18 02:45:24(UCT)版の訳文〕
出典を示す責任は掲載を希望する側に
出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません。
(議論を理解しやすくするために、Wikipedia:検証可能性2006-06-18 02:45:24(UCT)版から訳文をコピーして挿入させていただきました。--Sloop25 2006年7月16日 (日) 15:48 (UTC)


〔Regalさんによる翻訳〕
(証明責任)(事実の証明責任)(証明する責任)検証可能性の立証責任
(証明責任)(事実の証明責任)(証明する責任)検証可能性の立証責任は、その編集の当事者、またはその編集を残すことを望む側にあります。従って、編集者は参照した資料群を提示しておくべきでしょう。もしも、ある記事のトピックが、評判のよい・信頼に足る・第三者による情報源を持ち得ないのであれば、そのトピックに関する記事がウィキペディアに存在するべきではありません。
(↑推移を示す部分を復活・加筆2006年7月15日 (土) 14:35 (UTC), 2006年7月15日 (土) 23:03 (UTC)修正、定冠詞を考慮に入れていなかった)

表題と説明文の出だし、これらの元々の英文には「出典」への言及はなく、原文本来の意味は単なる証明責任であるように思われます。すると、求められる行為も「出典の提示」ではなく、「事実の証明」なのではないでしょうか?。should は「~すべき」と訳されますが、must のような命令調の言葉でもなければ、better のような推奨の言葉でもなく、その中間くらいの意味合いかと思います。しかし、「~すべきです」という表現は往々にして命令調であると受け取られやすく、この文脈による文意としては「~すべきでしょう」というあたりが日本語話者への適切な表現になろうかと思います。また、「出典を明記」では訳しすぎで、「提示」という言葉によって、資料の提示は記事・ノートのどちらでも良いことを暗に示唆すると良いものと思われます。そして、現在の文面にある「定評のある」という部分も訳しすぎで、記事存続の是非に関する垣根を一気に高める表現だと感じました。なお、トピックをどう訳すと最適なのか分かりませんので、とりあえずそのままトピックとしています。

一番目の問題点については表現の修正では何の解決にもならず、…と思ったら、この二番目の項目が示唆していた「出典の提示」義務を促す記述が「事実の証明」責任に置き換わることによって問題が解消しそうです。義務ではなく責任であるならば、その責任を全うするために証明の機会を与えること、すなわち時間的猶予が発生しますので、荒らしを牽制することが出来ます。--Rigel 2006年7月13日 (木) 08:59 (UTC), Rigel 2006年7月13日 (木) 10:51 (UTC)(移動、及び表現の微修正を施す)

Rigel さん、有難うございます。方針の主文3箇条も、Burden of evidence も、わかりやすくなったと思います。確かに義務より責任の方がよさそうですね。
ただ、「事実の証明責任」はかなり極端な意訳であるように思われます。原文に「事実の」はなく、また、文意に反していると思います。極めて極端に言えば、ウィキペディアに掲載する内容は、検証可能な信頼できる情報源に基づくものでありさえすれば、事実でなくても構いません。この節題 "Burden of evidence" が意味するところは「証拠を提示する責任」であって、証拠とは「評判のよい・信頼に足る・第三者による情報源」です。
そういう意味で、意訳を避けるならば、上の #Burden of evidence で議論された「立証責任」「挙証責任」あたりがよいのでしょうが、必ずしもわかりやすいとは言えません。「出典」や「典拠」という言葉をここの evidence に当てるのは「事実」より文意に近いと思いますが、いかがでしょうか。 --Kanjy 2006年7月13日 (木) 14:43 (UTC)

ああ、すみません。記述を移動する際に自分の説明を読み返してみると、その説明の中ほどにある「事実の証明」という語が目にとまり、「証明のためには出典が存在するという事実を示しても良いし、単に事実であることを説得することでも良い」と考えると「死海」の記事に関する私の編集も正当化できたので、何の考えもなく付け加えてしまいました。指摘されてみると、なんら説明もなく「事実の」という語が出現するとそれは「真実の」の同義語であり、確かに不適切な語のようです。実は元々ここには「証明責任」という語が充ててあったのですが、私がその部分を掲示した後にコメントされたのは、記述を移動する旨を伝えてきた Y tambe さんのみであり、Y tambe さんご自身はこの件にノーコメントでしたので、そのまま修正してしまったのです。

一方、本文には元々存在しない「出典」や「典拠」に該当する語を補填すると、証明のために出典を示す義務を負わせること(私の「義務」発言はここを指していた)に繋がりますので、そうした表現はない方が良いのです。結局のところ、かえでさんの削除依頼というのは、そうした「出典を示す義務」を果たせそうにない、というところから始まっているように思うのです。

上記の議論も拝見させて頂きました。実は、問題が残されているからにはまだ議論されていないであろうとの考えから、上の細々とした発言は読んでいません(私の発言はすべて、運用上のセキュリティ・ホールを除去する観点からなされたものですので)。「証明する責任」ではどうでしょう?。

議論への参加者がバラエティに富んでいる割にはコメントが少ないので、一点のみ解説を加えます。

  • 立てるべきではありません→存在するべきではありません
「立てるべきではない」という言葉は、「立てる」行動を牽制するニュアンスを含みます。従って、「定評のある情報源がない場合に合致する項目を作成すること自体がそもそもの間違いであり、そうした記事は強引に投稿されたのだから、削除されて然るべきなのだ」との結論へと人々を導きかねません。一方、英文の直訳である「存在するべきではない」という言葉は理想論を述べるにとどまり、少なくとも何らかの行動を牽制するものではありません。

--Rigel 2006年7月14日 (金) 12:29 (UTC)

私としては、「立てるべきではありません」であろうが「存在するべきではありません」であろうが、結論は変わらないように思います。「定評のある情報源がない場合に合致する項目を作成すること自体がそもそもの間違いであり、そうした記事は強引に投稿されたのだから、削除されて然るべきなのだ」との結論でいけない理由が分かりません。
ひょっとしたらRigelさんは「定評のある情報源」を非常に狭く解釈していらっしゃるからかもしれません。私は「定評のある情報源」は(少なくとも当初は)相当緩やかに解釈されて良いと思っています。また、「編集の除去」と違い「記事の削除」を行う場合は慎重さが要求されますから、「定評ある情報源が無いこと」の判断も非常に厳格・慎重になされるべきでしょう。--Dwy 2006年7月14日 (金) 14:06 (UTC)
Dwyさんに同意します。加えてこの箇所は、WP:NORと関わってくる部分なので、詳しくはWP:NORを参照とすれば良いのではないかと思いました。O^tsuka 2006年7月14日 (金) 18:11 (UTC)
他の文脈と合わせて食い違わない内容でしたら多少の意訳もありだろう(どれでもいい)と思いますが、「理想論」などとして内容を形骸化することが目的で訳を弄ろうというのであれば反対です。
そもそもの「1.方針の邦訳を推敲することで問題発生を防ぐ」といった目的が、本当に正しく問題なのか、共通認識なのかが結論付けられていないと思います。死海の件であれば、「「地表で最も低い」との解説を付け加えました。これは疑いようのない事実だからです。」とありますが、Rigelさん本人もどこかで情報を得なければこのようなことは知らないはず。これを記載するに当たって、記憶の中だけで「確か一番だったよな」と思うだけで書いてしまうのは怖くないですか?もしくはみんな一番一番言っているが本当にそうなのか疑問が出ませんか?もう一度資料を探して安心して書こうと思いませんか?ひょっとしたら現在はもっと低位の場所が見つかっているかもしれません。現在のWikipediaではこの「疑いようのない事実」を人間の記憶に求めないで、「定評のある情報源」に求めているのですよね。削除厨がうざったいのは判りますが、(結果的に)そういった部分を探し出してくれていると考えることもできます。
記事本体と編集との議論を分けるべきというのも分かりません。例えば編集で出典のない箇所が削除できるのなら、それにより全ての文が削除され、どれもが出典を明記できずにい続けたら文の内容が0なのだからその項目は削除されてしかるべき。文の一部に対する削除の話の延長線でしょう。どちらにせよ項目の削除は削除依頼を通すのだから削除厨が反射的に項目削除できないわけで。--ちぇす 2006年7月15日 (土) 00:29 (UTC)
文脈と照らし合わせて、という意味でも、「評判のよい・信頼に足る・第三者による情報源を持ち得ない」のであれば削除との結論を導きかねない現在の文面、つまり「定評のある情報源」という証拠の提出を求める記述は、「自主公表された情報源:公式サイト」の項と対立します。そちらの内容は「信頼性に乏しい情報源」であっても条件を満たせば使用可能としているので、
  1. 定評のある情報源」が存在しないものの、記事作成にはなんら問題ない
  2. 作成には問題がないが、「定評のある情報源」を示すことが出来ない事実をもって削除すべき
という、1と2の無限ループという不毛の争いを引き起こしかねません。また、現在の議論は表現の修正によって問題解決を図ろうとしているようにしか見えないかもしれませんが、実際のところは、原文の英語本来の意味を検証しているのであって、つまるところ、問題は日本語訳のまずさにあるのではないか?、言い換えると、「現在の文面には誤訳があるのではないか?」との議論なのです。--Rigel 2006年7月15日 (土) 12:59 (UTC)
原文を読んでみた限りでは誤訳とは思えませんでした。それに1と2は両立しうると思います。信頼できる情報源がない場合には、その記事はウィキペディアに存在するべきでない(If an article topic has no reputable, reliable, third-party sources, Wikipedia should not have an article on that topic.)。しかし、自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源も自分自身の言及には使うことができるかもしれない(Material from self-published sources, and other published sources of dubious reliability, may be used as sources of information about themselves in articles about themselves)ということですから、そのトピックについて信頼性に乏しい情報源しかない場合は記事自体存在するべきではなく削除対象になる。しかし、信頼できる情報源が他にある場合には、記事を作成でき、そこに自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源からの情報を加筆することはできる。というように解釈できます。219.98.28.13 2006年7月15日 (土) 13:39 (UTC)
なるほど、するとWikipedia:削除依頼/飛鳥配列のケースにおいては、Tamago915 さんが指摘しておられる通り、「vectorに紹介されているのだから、存在自体は検証可能」としてとらえ、「そこに自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源からの情報を加筆することはできる」という意味でとらえるならば、「削除そのものはむしろ妥当ではなく、加筆された内容もなんら問題ない」、というふうに結論付けることができ、「要出典」テンプレートの掲載も不要、という解釈でよいのでしょうか?。であるならば、"Burden of evidence"は「検証可能性の立証責任」という意味であり、駅記事に関しても「駅の存在自体は自明なので削除対象にはなりえず、そこに信頼性に乏しい情報源からの情報を加筆することも可能であるが…」、という意味になりそうですね。--Rigel 2006年7月15日 (土) 14:35 (UTC)
いや、ここで言う「Material from self-published sources, and other published sources of dubious reliability,」は、自費出版や自分で発行したものか、他の場所で書いたものかを指すもので、どちらも主体は自分でしょう。でなければ「Self-published and dubious sources in articles about themselves」という節名や、「may be used as sources of information about themselves in articles about themselves, so long as:」という文意に合わなくなってくる。
Rigelさんのおっしゃるような全体に関わる意味がなぜこの節に入ると思われるのでしょうか?あまりにも強引では。--ちぇす 2006年7月15日 (土) 14:51 (UTC)
ちぇすさんのご指摘なさっているように、
自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源も自分自身の言及には使うことができるかもしれない(Material from self-published sources, and other published sources of dubious reliability, may be used as sources of information about themselves in articles about themselves)
の部分は、当該情報源自身に関する記述についてのみ説明しているものだと私も考えます。
当該情報源自身の記述とは何かについて、例を考えてみました。例えば、信頼できる情報源を確認できないような理論(いわゆるトンデモ理論)を唱える団体Aがあったとします。この場合団体Aの公式サイトを情報源として彼らの理論は、信頼できる情報源を欠くためウィキベディアに掲載することは認められません。しかしながら、団体A自身についての記事を書く場合には、「その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り、」団体Aの公式サイトを情報源として利用することができるのです。上記のような縛りがかかるため、団体Aの記事においても、彼らの理論を詳述することはできませんが、団体Aがいつ、誰によって設立されたのかといったことは書くことはできるのだろうと思われます。
このようなことから、「信頼できる情報源が他にある場合には、記事を作成でき、そこに自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源からの情報を加筆することはできる。」という219.98.28.13さんの解釈には、あくまでも「自主公表された情報源や信頼性の乏しい情報源(例:上記例の団体Aのような団体やいわゆるタブロイド紙)」についてのみ妥当するものであり、記事全般について適用することはできないものと考えます。
Rigelさんが挙げられたWikipedia:削除依頼/飛鳥配列のケースでは、「vectorに紹介されているのだから、存在自体は検証可能」であったとしても、「そこに自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源からの情報を加筆すること」はできないととらえるべきと考えます。なぜなら、「自主公表された情報源や信頼性に乏しい情報源」は、当該情報源自身に関する記述にしか利用できないからです。
また、駅記事に関しても「信頼性に乏しい情報源からの情報を加筆することも可能」ととらえるべきではないと考えます。その理由は、駅に関する記事は、当たり前のことですが当該「信頼性に乏しい情報源自身に関する記事」ではないからです。--Sloop25 2006年7月15日 (土) 16:00 (UTC)(後半2段落を追記。--Sloop25 2006年7月15日 (土) 16:24 (UTC))
(インデント切って)危なく編集競合するところでした……強行しなくて良かった。今の日本語版ルールには「自主公表物やその他の信頼性に乏しい情報源でも、それらの情報源自身に関する記事においては、情報源として使用することができます。」という明確な記述があります。この自主公表物に関する規定は「自主公表物は、それを主題とする記事にのみ使うことができる。主題以外の記事にソースとして使ってはいけない。」ということを定義しているに過ぎないのでは、と。重要なのは「何が何に対して検証可能性を有するのか」なので。 -- かえで 2006年7月15日 (土) 16:07 (UTC) (履歴補完)-- かえで 2006年7月15日 (土) 16:12 (UTC)
Sloop25さんの2006年7月15日 (土) 16:24 (UTC)説明で、ようやく自主公表物に関する取り扱いの意味が解りました。私はてっきり「主題のみ」だと勘違いしていたのですが、これは「情報源のみ」という字面そのもので意味が通りますね。
そうすると一つの疑問が浮かぶのですが、「自主公表された情報源:公式サイト」が適用される記事──つまりは自主公表物と一対一で対応する記事──においては「自主公表された情報源を(一対一で対応する記事に限っては)信頼できる情報源と見なすことができる」のでしょうか、あるいは「(自主公表された情報源:公式サイトの記述を完全に無視して)信頼できる情報源が公表・出版している事が前提条件」なのでしょうか。「情報源/ソース」の下にぶら下がっている4つの条項は互いに干渉し合うような書き方にはなってないのですが(節の深さが等しく、かつ内容も干渉してはいないことが、それを物語っていますよね)、なぜ「自主公表された情報源:公式サイト」が存在できているのかが、いまいちピンとこないのです。
「自主公表された情報源:公式サイト」が適用される記事では「自主公表された情報源を(一対一で対応する記事に限っては)信頼できる情報源と見なすことができる」という前提に立たなければ、そもそもルールとして「自主公表された情報源:公式サイト」が成立できないのではないかな……と。いくら考えても答えが出なかったもので、だいぶ困り果てています。 -- かえで 2006年7月15日 (土) 17:27 (UTC)
かえでさんの感じておられる疑問を3段階に分けて考えてみます。
第1に、自主公表物は原則として信頼できる情報源とは見なせないことを確認したいと思います。なぜなら、自主公表物は、学術雑誌における査読や一般の報道・出版における事実確認・評価などの過程を経ていないからです。逆に言うと、査読や第三者による事実確認・評価を経ることが、信頼できる情報源の条件と見て良いと思います。
第2に、「自主公表された情報源を(一対一で対応する記事に限っては)信頼できる情報源と見なすことができる」かどうかについて。これについては、上に書いた原則的な立場からいっても、たとえ一対一で対応する記事に限ったとしても、自主公表物は信頼できる情報源とは見なせないと考えます。査読や第三者による事実確認・評価等を受けていない以上、それを信頼できる情報源と見なすことはできません。
第3に、一対一で対応する記事に限ったとしても「自主公表された情報源は信頼できる情報源と見なされないとすれば、なぜ「自主公表された情報源:公式サイト」がルールとして成立するのかについて。この疑問は、なかなかの難問だと思いますが、Wikipedia:検証可能性と互いに補強しあう関係にあるWikipedia:独自の調査(現在改名議論中です)を併せて考えれば答えが見つかるような気がします。うまくまとまらないのですが、情報源に関する記事で自主公表物の使用を許容しても、Wikipedia:独自の調査が要諦として禁じる未発表の理論や議論(信頼できる情報源によって検証することができない理論や議論)を助長するおそれが小さいためだからではないかと考えております。「その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、第三者によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない限り」という条件がついているのも、自主公表物に基づく記述が未発表の理論や議論を助長することないようにするための安全策となっているととらえることができ、上記のような理解を傍証していると思われます。以上、はなはだ表面的ながら、かえでさんの疑問について私見を述べさせていただきました。--Sloop25 2006年7月15日 (土) 20:38 (UTC)
なるほど……不安に思ったことがありますので、2点のみお聞きしたく思います。【1】第1と第2に絡むこととして、(報道・出版における事実確認・評価についてではなく)「学術雑誌における査読」は必要でしょうか。学術系の雑誌や論文においては「査読」は行われずフォーマットチェックなどのみを行うものもある(ゆえに「査読つき」「査読無し」と分けて表記する研究者がいる)ようなのですが、「査読無し」の学術文献は使われるべきではないのでしょうか。Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースでは「なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。」としているに留まっていまして、かつ無理に査読つきに限定するとPOVの元となるかもしれないという指摘もなされていることを考慮しますと、果たして「学術文献における査読」を必須とするべきなのかどうかが疑問なのです。【2】第3に絡むこととして、Wikipedia:独自の調査は、誰を束縛するために作成されたルールであるとの前提にお立ちでしょうか。Wikipedia:独自の調査Wikipedia‐ノート:独自の調査で捉え方がだいぶ違っているようで混乱してしまったものですから、ひとまずWikipedia‐ノート:独自の調査#オリジナルリサーチを制限される対象は「誰」?を書いてきたところでして……この2点について、Sloop25さんのお考えをお聞かせいただければ幸いです。 -- かえで 2006年7月16日 (日) 17:47 (UTC)
かえでさん、コメントありがとうございます。どこまでお答えできるかわかりませんが、私の理解しているところを書かせていただきます。【1】「学術雑誌における査読」は必要か(「査読無し」の学術文献は使われるべきではないか)という点について。
まず、ウィキペディアの記事として書こうとする内容が学術的なものであれば、査読、あるいは査読に類似した事実確認がなされる資料を使うべきというのが原則であると考えます。
ただ、査読をしているという雑誌であっても、査読の厳しさはまちまちとされています(査読#審査の厳しさを参照下さい)。また、いわゆる査読なしの学術雑誌についても、定評ある大学の紀要や大学院生用の雑誌などは、いわゆる査読はしないものの厳選された論文しか掲載しないため、掲載された論文はそれなりに評価されるといった話も聞いたことがあります。さらに新しい学問領域であるため、学会が発展途上である分野などでは査読なしの学術雑誌であっても、信頼できる情報源と見なせる場合もあると思われます。
したがって、「学術文献における査読」を必須とするかどうかについては、必ずしも必須ではなく、「ウィキペディアの記事として書こうとする内容」とその元になる資料の信頼性を比較したうえで、それぞれのケースごとに慎重に判断する必要があると考えます。また、ケース・バイ・ケースの判断が必要とされるため、Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースでは「学術的な主題についてはなるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。」とされているのだと思います。さらに、まだ和訳されていませんが、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源)がPolicyではなく、常識を持って扱うべきであり、時に例外のあるGuidelineとされているのも、同様の理由からだと考えます。
【2】第3に絡むこととして、Wikipedia:独自の調査は、誰を束縛するために作成されたルールであるとの前提にたつのか、についてはWikipedia‐ノート:独自の調査#オリジナルリサーチを制限される対象は「誰」?の方に書かせて頂きます。--Sloop25 2006年7月16日 (日) 19:23 (UTC)
なるほど、まず【1】について了解しました。よりわかりやすいルール形態を目指すとなると、en:Wikipedia:Reliable sourcesの翻訳を待つ必要もありそうですね。また【2】については、以降はWikipedia‐ノート:独自の調査#オリジナルリサーチを制限される対象は「誰」?で展開させていただきます。 -- かえで 2006年7月17日 (月) 07:47 (UTC)


ちぇすさんの説明は「Self-published sources in articles about themselves」という節に関する現在の英文からのものですが、"The Burden of evidence"という語が登場するのは「Burden of evidence」という節です(英文がコメントアウトされる直前の版)。「この節」という言葉はどちらを指しているのでしょうか?。定冠詞"The"の意味するところは何なのでしょうか?。私はそれほど英語が得意ではないので、上記の私の解釈が誤っているならば、この問題は私の手に負えるような代物ではなかった、ということなのだと思います。議論を提起した張本人として、問題の収束方向を見届けるつもりであったのですが、私はこの議論から撤退させていただきます。大変申し訳ない。--Rigel 2006年7月15日 (土) 22:03 (UTC)

混乱させてすいません。Wikipediaでは小見出し(ここでは(en版:Self-published and dubious sources in articles about themselves)(ja版:自主公表された情報源:公式サイト)のような)をWikipedia:節と呼ぶので、そちらの意味です。
しかし一段深いので正確には「項」でしたね。どちらにせよ誤解を招く用語を用いまして大変申し訳ありませんでした。--ちぇす 2006年7月16日 (日) 00:58 (UTC)

[編集] 議論の参考として

私は議論の始まりにおいて、死海の例を挙げました。「地表で最も低い」との記述を加えた経緯はこういうものです…。過去において、私はこの記事に手を加えたことがあります。履歴をご覧になればお分かりの通り、それは2005年8月14日のことです。そして、この編集のすぐ後に思い出したのです。「ああ、そういえば死海って地表で一番低いんだったよなぁ」と。しかし、たったそれだけのことを付け加えるためだけに編集をする、というのはさすがにためらわれたため、「次回、手を加える機会があったらついでに書き加えよう」、ということで加筆を先延ばしにしました。

私は自分自身の過去の投稿履歴を何度も再確認するのですが、その際に、死海への今回の加筆前の内容に、誤った記述が存在するのを発見しました。それは、編集の際に要約欄へ「飲料→灌漑」と記述した通りです。飲料水の利用などたかが知れており、その程度で死海の水位が問題視されるほど下がるはずなどないのです(ちなみに、こうした問題があることについても以前から知っていました)。そこでその記述を訂正すると共に、「地表で最も低い」との記述も加筆することにしました。しかしまだ問題があります。「マイナス二百数十メートルくらいだったかな?」とは考えていたのですが、具体的にどれほどの低さかまではさすがに覚えておらず、「きっと英語版なら記述してあるだろう」との考えから英語版を参照してみました。その予感は的中し、"lowest point on Earth at 418 meters"となっております。次に、この「418メートル」との解説が一般的に流用されているかどうかについてネット上で検索を試みたところ、同様に"-418メートル"とする文書が見つかったのです。そこでこの数値で加筆するに至ったわけですが、実はこの時点ではまだ、私はこの文書「Wikipedia:検証可能性」の存在そのものに気づいていませんでした。

この文書の内容を検証すると、とんでもないことが分かりました。(記述ではなく)記事を削除されないためには「出典を明記」する必要があり、さらにその出典が「定評のある情報源」である必要があるというのです。出典を明記する必要があることは、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」という表題によって裏付けられますので、この時点では疑いようのない事実であると考えていました。私の「418メートル」の出典は英語版ですので、当然ながら次のような疑問が浮かび上がりました。それは、「外国語版の記事は定評のある情報源なのか?」との疑問です。

私の結論はこうです。この文書は「三つの方針のうちの一つ」という、他のプロジェクト文書に優先して適用されるべき方針であるのに、「ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです」などということを堂々と宣言しています。さらに、出典が示されなければ削除される…。これでは「事実よりも出典を明示することの方が重要である」、と宣言しているようなもので、とても「定評のある情報源」とはみなしてもらえないでしょう。「検閲に反対するウィキペディアン」が少なからず存在する、という事実もその結論を後押しし、さらにはいつでも編集できる手軽さが止めを刺しているようなものです。

さて、ウィキペディア自身が定評のある情報源でないならば、外国語版からの翻訳記事は、どんな力作であったとしても削除されるしかありません。ということで、「定評のある情報源がないなら削除」という結論を導きかねない現在の文面は、大変危険なものである、と私の目には映りました。そこで、問題点を指摘する長文を作成していたのですが、その途中で、記事へと言及している部分を取り除けば、翻訳上の問題・飛鳥配列の問題、両方が同時に解決できそうだ…と気づき、現在の2番目の問題点として取り上げ、論点を明確にするつもりで文章を大幅に縮小しました。その後の議論が、上記のものです。

私の最終的な結論をまだ明確には示していませんので、ここで改めて明確にしますと、

  • 項目名"Burden of evidence"を「立証責任」もしくは「証明する責任」
  • 説明文"The burden of evidence"を「検証可能性の立証責任」もしくは「検証可能性を証明する責任」

というもので、つまり、定冠詞"The"が、この記事名「検証可能性」を表しているのであろう、というものです。

定冠詞が付された表現というのは、流動的に変化するような曖昧なものを示すのではなく、通常は一対一で対応するある概念を暗示します。一例を挙げると、"devil"とは「悪魔」という意味ですが、同じ悪魔でも"the devil"と定冠詞付きで表現された場合は、「サタン」の意味で受け止められます。すると、"The burden of evidence"の"The"は何なのか?ということになり、「検証可能性」もしくは「評判のよい・信頼に足る・第三者による情報源」のどちらかのようです。"The"が実際に何を表しているのかについては、英語版のノートで質問するだけで明らかになるでしょう。

発言すればその都度反論があり、しかもその反論内容のほとんどが私の発言を曲解しているような状況下では、これ以上私は発言するべきでは無いのであろう、というのも撤退宣言するに至った理由の一つです。私が何を問題としていたのかを正確に読み取ったのは、恐らく同じ問題意識を持っていたかえでさんだけであろうと感じています。ですが、これがたいへん大きな問題であることには変わりなく、きちんとした結論を示す必要があるものと考え、議論の参考としてこの長文をここに残します。--Rigel 2006年7月16日 (日) 14:21 (UTC)

外国語版も含めたWikipedia自身が「評判のよい・信頼に足る・第三者による情報源」たりえないのは明らかではないでしょうか?記事の内容は査読されてから掲載されているわけではないので、常に不正確な記述や検証できない記述が混入する可能性があるのですから。それゆえ外国語版に記載されていることをもって出典とすることもできないでしょう。ちょっと極端な例ではありますが、このユーザーのように英語版で虚偽の記述を行ない、それを出典として日本語版に移入しようとした例もありますし。
翻訳記事内のある記述に対して検証可能性の疑義が呈示されたなら、記述を残したい人がWikipedia以外の「評判のよい・信頼に足る・第三者による情報源」を出典として示す必要があるでしょう。自力で見つけられなければ翻訳元の記事のノートで問い合わせることも考えられます。しかし、それでも出典が見つからないとすれば、その記述は検証不能なのですから翻訳元の記述も含めて除去されるべきということになると思います。218.41.130.7 2006年7月17日 (月) 09:10 (UTC)
Wikipediaの記事について英語版では、「今のところは残念ながら『信頼に足る情報源』のレベルに達していない」ということになっていたと思います。但し、英語版の記事はen:Wikipedia:Verifiabilityのルールに準拠して執筆されているはずですから、リファレンスやフットノートを含めて全部訳せば(日本語版で英語のリファレンスを排除するルールが無い限り)「検証可能性」をクリアできているはずです(あくまで「はず」であって、確実にクリアできている保証は無いですが…)。「死海」の例で言えば、英語版では418mについてフットノートで出典が記載されていますので、一応の検証は可能です。(トップページがリンクされていますが、おそらく"Long-term changes of the Surface Level"のところが該当のデータだと思います)。また、「世界一低い」については、日本語版にもリンクがあるThe official Israeli siteに記載があります(こちらでは417mとなっていますが、計測時期によって違うのだと思います)。私としては、この程度の「出典」が出せれば問題ない(そして、この程度の出典なら出すのがそれほど難しくない)と思うのですが、いかがでしょう?--Dwy 2006年7月18日 (火) 14:07 (UTC)

[編集] 迷ったときは原典にあたれ

の原則に従って、en:Wikipedia:Verifiabilityの最新版を読んでみました。

  • 信頼性に乏しい情報源
日本語版に元からある記述の後に、2行ほど追加されています。
  • 自主公表された情報源:公式サイト
内容がたとえ話から箇条書きへと整理されています。

以上2点を含め、en:Wikipedia:Verifiability最新版の和訳をお願いいたします。 -- かえで 2006年7月15日 (土) 02:45 (UTC)

[編集] Wikipedia:検証可能性#方針に対する提案

現状の「Wikipedia:検証可能性#方針」について、次のような追加が有用(&矛盾しない)かどうか、ご意見をお聞かせください。太字部は3と書いていることが同じであり、単に視点が異なっているだけです。

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している題材だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい題材を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。
    • 出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
    • 出典が明示されていない編集を生かそうとする場合は、その編集に対応する出典を添えて下さい(編集に対応する出典は、編集者に限ることなく誰が示しても構いません)
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

現状のWikipedia:検証可能性は「検証可能性のない文を除去することのみが貢献」と捉えられるおそれがあるので、逆に「検証可能ではない文を検証可能な状態に持ち上げることも貢献」だとハッキリ謳う方がよいのではないかな……と思いまして。いや、こういう記述が成されていれば、例えばこの編集の意図を解っている人はこんな感じの文献情報を添付するはず……と、上手く「正のサイクル」が回りはじめる気がするのです。 -- かえで 2006年7月21日 (金) 14:32 (UTC)

ちょっと質問です。こういうことは初めてなのでここに書いていいのかよく分かりませんが書きます。(もし相応しくない場合は相応しい場所を紹介していただけるとありがたいです。)出典の明記にダブる内容なのですが、『信頼できる情報源』の中に、テレビ番組など映像分野全般(同時期に大多数の人が見る事ができるが、一般人は無料で検証できないと思われるので)、有名企業から出版された物だがDVDなどに付属しているため国会図書館にない本、国会図書館のミスで抜けている本(しかしオークションなどで大金を出せば手に入る。)、有料情報、現地に行けば誰でも確認できるが出版物に情報がない場合、明示されている信頼できるネット上の情報に該当するが掲載先の情報が削除された場合、などはどうなるのですか?もしこれが駄目ならばサブカルチャーの類は壊滅状態になってしまう気がするのですが…。個人的にはウィキペディアと他の百科辞典の利便性のうち、決定的な差はサブカルチャーの類などで、もし規制されるならばウィキペディアの利便性が非常に悪くなると思います。ウィキペディアは分野によって偏りのあるものですので、その場合は分野や成長の違いによって規制の違いを設けた方がいいと思います。そうすれば成長の遅い芽を育て、育ち過ぎた芽を刈り取る、と上手くいくような気がします。回答の程よろしくお願いします。--Naisi 2006年11月11日 (土) 06:58 (UTC)

かえでさんの提案はいいですね。

文化研究関係の論文などの参考資料などを見ると、

  • テレビ番組など映像分野全般(同時期に大多数の人が見る事ができるが、一般人は無料で検証できないと思われるので)、有名企業から出版された物だがDVDなどに付属しているため国会図書館にない本、国会図書館のミスで抜けている本(しかしオークションなどで大金を出せば手に入る。)、有料情報→基本的に、避けることが望ましいけど、OKでしょう(ただし、ものによっては他の情報源と比較して信頼性に劣ると判断される可能性がある)。とりあえず有料無料は関係ないかと。歴史的な史料であれば所在を示すことは必要かと。
  • 現地に行けば誰でも確認できるが出版物に情報がない場合→「誰でも」の程度による。文化人類学のフィールドワークにあたるようなものは、独自研究でしょう。
  • 明示されている信頼できるネット上の情報に該当するが掲載先の情報が削除された場合→最近の学術論文の作法としては、いつの情報か(確認した日の日付とURL)を記する方向ですので、書くときにそれに従うのがよろしいかと。

てな感じで。大衆文化関係の記述は確かに困難ですし、一般の百科事典でも検証が不十分と思われるものもあります。だからといって敷居を下げるのではなく、百科事典にふさわしい記述を試みることで、ウィキペディアの特長となっていくほうがよいのかなと思います。独自研究のほうは、厳格に適用されると手が出なくなる可能性がありますが、検証可能性は、大きな問題にはならないように思っています。--Ks aka 98 2006年11月12日 (日) 07:06 (UTC)

回答ありがとうございます。とりあえず不安は取り除けました。今朝ふと思いついた事なのですが、情報源の定義基準にを『日本人の平均給与の範囲で検証可能』『行動力ある人間が合法的かつ生命の危険を感じない程度で検証できる範囲で検証可能』『検証するボランティアの人々が金銭的精神的に限界を感じない範囲で検証可能』とかの言葉を使って定義する事ができれば、これから似たような疑問を持つ人や議論に巻き込まれる人が減って、編集者達は執筆に集中できるため、円滑に回るとおもうのですが。どうでしょうか?もしよかったら意見聞かせてください。--Naisi 2006年11月12日 (日) 09:14 (UTC)
情報源の基準については、同意できませんが(苦笑)、情報源の目安を文書化することができれば確かに有用だと思います。いまのところは、それよりもほかの文書の整備のほうが必要かとも思いますが。--Ks aka 98 2006年11月12日 (日) 09:29 (UTC)

[編集] マイナス情報への検証可能性

「テレビ番組など映像分野全般」による情報や「現地に行けば誰でも確認できる」情報は、除去を主張する編集者が現れなければ除去されないだけで、疑義が出たときにも情報を掲示し続ける根拠 とはなり得ないと思います。たとえばノート:ペトロナスツインタワーではBBCの番組について検証を試みられていますが、だれかが問い合わせるとか調査に行くというのでは「独自の調査」になってしまいそうです。

出典が提示できない情報について、当事者にマイナス情報か、そうでないかで、対応を加減すべきではないでしょうか。 対象者にマイナスになる情報については厳しく出典を求め、検証できない場合は積極的に除去する必要があると思います。特に現在生きている人に関する情報の場合、名誉毀損に繋がる惧れもあります(Wikipedia:存命人物の伝記参考)。これに対して、対象者にマイナスにならない情報については、たとえすぐに出典が提示されなくても急いで除去しなくてもよいかもしれません。--miya 2006年11月13日 (月) 00:37 (UTC)

反対。提案自体が当事者の利益に偏ったものとなっており、中立的観点から逸脱しています。根拠のない、執筆者の個人的見解による評価であれば、それを理由に記述を除去すべきであり、そこに「否定的だから」「肯定的だから」という価値判断を入れるべきではありません。
どうしても「否定的な評価は認めない」という方針を入れたいというのであれば、新たにプロジェクトを立ち上げてそこでやってください。それはたぶん、百科事典とは異なるものになるでしょうけど。--Tamago915 2006年11月13日 (月) 04:01 (UTC)
私も反対です。例えば項目名たる個人と「統一教会」との関係を匂わせる記述は、一般にマイナス情報ですが、これを「信教の自由」等に基づいて「プラス情報だ」と言い張られれば、そこで宗教論争になってしまいます。「プラス・マイナス」という極めて主観的かつ曖昧な線引きには、全く賛成いたしかねます。--Album 2006年11月13日 (月) 04:11 (UTC)
えーと、まず「当事者にとってのマイナス情報かどうか」というのは、検証可能性の有無とは独立(無関係)です。検証可能性だけに話を絞るなら、誰かが信頼できる出典を示したら、名誉毀損罪だろうが侮辱罪だろうが、そういったものとは無関係に「掲載可能」ということにしかならないでしょう? だったら最初からそっちの方向での除去の方針について、別のところで議論した方がいいと思います。その手の記述については、確かにしばしば「検証可能性を満たさない」というのを理由の一つにして除去することも多いですが、両者を混ぜて議論すべきではありません。それに例えば、疑似科学関連商品を根拠なしに絶賛してるような記述も(当事者にとってはプラスでしょうけど)同様に、検証できなければ積極的に除去する必要があるでしょう。「当事者にとってプラス/マイナス」なんていう価値判断をうかつに振り回すのは、却って問題を複雑にしてしまいますので、やめていただければ、と。
で、じゃあそういう対応の加減がしたい場合にどうすりゃいいのか、ということなんですが…もともと検証可能性を満たしてない記述への「対応」は状況に応じて加減すべきものですので、「(加減なしで)除去する」ことだけを前提に、加減できる特例についての話をされても困るというか(まぁ、下でも挙げられているが、そもそもの翻訳自体にまずいところがあるんで誤解を生んでます。その点については上で私も同じ意見を表明してます)
検証可能性を満たしてなさそうな記述の解消法については、大別して、(1)問題の記述を除去する(してもらう)、(2)出典を追加する(してもらう)、という方向性(目的、小目的)があります。そうすることで最終的には、「出典が必要とされる部分には、すべて出典が記載された状態になった記事にする」ことが、最終目標(大目的)なわけですね。そして、それを現実のものにするための手段として、(A)当該記述部分を(問答無用で)除去する、(A')コメントアウトの状態にして隠す、(B)要出典マークをつける、(C)ノートや執筆者の会話ページでの要請や情報提供のやりとり、(B'、C') B,Cのやりとりを時間制限付きで始めて期限までに満たされなければ除去、(D)自分で出典を探して追記する、など、いろんな手順が考えられるわけです。
で、対処する人は、将来的にその記述を出典付きで記載することが可能かどうかについて自分で予想した上で、その状態に至るまでの経路を考えて、どの手段をとるかを決めるわけです。当該部分の内容が出典なしの現状でどこまで信頼できるそうか(いかにも怪しいとか、どっかで「それはウソである」と聞いたことがあったとか、出典は出せないけど同じ情報を比較的信頼できる筋から聞いたことがあったとか)、その部分の記述を残しておくことがどの程度の問題を生みそうか、などを勘案した上で、気付いた人がその状況を見極めて、そのときの自分の「判断」で、いずれかの「手段」をとって対処するわけですね。その判断が本当に妥当であったかどうか、についてはケースバイケースで処理すべきことです。あからさまに「出典がないので除去」を濫用して記事の破壊を行うような荒し行為が出現した場合には、「その人の判断がおかしい」というレベルの議論で排除し、検出可能性のルールの見直しにまで踏み込む必要がないよう、整備しておくべきかと思ってます。--Y tambe 2006年11月13日 (月) 04:12 (UTC)
原則やルールとしてはともかく、実際の対応では考慮すべきことだと思います。注意深く分けておくべきではあるが、排除されるべきではない視点でしょう。Wikipedia日本語版の現状においては、記事を中傷まがいの記述にしようとする編集が絶えず存在しています。で、そういう人たちは『ルールを字句通りに解釈して逆手に取ろうとする』ように見えます。ですから、こういうこともガイドライン程度には記述してあっても良いのではないかと思います。 -- NiKe 2006年11月13日 (月) 04:34 (UTC)
中傷を除去する根拠は、中立的観点であったり、荒らしであったりするわけで、そちらから対処するので十分でしょう。実際、現状でもそのように対処されているわけですし。
中傷や荒らしを排除することには賛成ですが、検証可能性で縛りを入れると、「検証可能なら中傷しても構わないのか?」という方向になるのが見えています。このときにどのような対応をするかを考えれば、意味のない縛りだということになります。この提案は取り下げるべきだと思います。--Tamago915 2006年11月13日 (月) 09:47 (UTC)
誤解があるようなので申し開き:「テレビ番組など映像分野全般」による情報や「現地に行けば誰でも確認できる」情報 について、Y tambeさんのおっしゃるような「検証可能性を満たしてなさそうな記述の解消法」、つまり運用方法を考えていただけで、「検出可能性のルールの見直し」や「検証可能性で縛りを入れる」「提案」では無いです。
なお、コメントの途中に見出しを入れられては、余計に誤解を招きかねませんので、見出しの位置をコメントの頭に移動しました。--miya 2006年11月14日 (火) 03:34 (UTC)
言葉尻を捕まえて、本論から話をそらさないでいただけますでしょうか。「当事者にマイナスの情報だけ検証可能性を厳しく扱う」という方針はとうてい認められるものではなく、メリットもありません。速やかにご意見を取り下げてください。--Tamago915 2006年11月14日 (火) 03:51 (UTC)
>「当事者にマイナスの情報だけ検証可能性を厳しく扱う」 これはたぶんWikipedia:存命人物の伝記を見る限り、ウィキメディア財団を訴えられたり、本人からの苦情が多くてが事務処理能力が落ちるため(資金・人員不足があるため)の解消法の事だと思います。つまりハード上の問題を言っているのだと思います。つまり検証可能性とは独立した問題だけど、全体の問題として取り上げられたのだと思います。違うでしょうか?--Naisi 2006年11月14日 (火) 08:46 (UTC)
検証可能性と独立の問題ならここで議論すべきではなく、検証可能性の運用方法に対する意見なら決して認められるものではありません。なので、取り下げを要望する立場はそのままにします。--Tamago915 2006年11月14日 (火) 09:24 (UTC)
えーと、そもそものMiyaさんからのコメントについては、2つの主旨から成り立ってます。前段の部分は、Miyaさんが後から追記されましたが、即時「記述の除去」するのではない対処が必要ではないかということ。これについては、上で私の考えを詳しく述べており、繰り返しになるので割愛します。で、Tamago915さんが問題にしてるのは、最初のMiyaさんのコメントの後段で「当事者にマイナスの情報かどうか」を、その対処の判断に加味する方向性はどうか、という点だと思います。これについては、Miyaさんの追記されたコメントでは触れられていませんね。
私もこの点についてはTamago915さん、Albumさんと同じ考えで、誹謗中傷であることが問題である記述については、「誹謗中傷であること」を理由に除去されるべきだと考えます。「真っ正直に、正攻法で立ち向かう」のが、結局はいちばんの近道だろう、と。もちろん、その手の誹謗中傷には検証不能なものも多いので、それを理由に除去することは可能でしょう。しかし検証可能性を理由に除去されたものは、その問題がクリアされれば除去の理由を失います。また、そういうときに検証可能性の方で議論をこねくり回して、どうにか(除去を切り抜け/除去したままに)しようとされるリスクも(「検証可能性」についての議論をしている立場としては)事前に想定して避けておくべきことでしょう。
「ガイドライン程度には記述できる」のでは、という意見も出てますが。確かに、誹謗中傷には検証不能なものが「多い」とはいえ、全てがそうだというわけではありません。その辺りは個別の価値判断を常に必要とし、類型化して片付けることがそもそも不可能な事例なんです。そして、そういう類型化した処理を行うことが、トラブルの原因に直結します。だから想定されてるようなガイドラインの導入ですら難しい(というか、そのガイドラインが火種になることが容易に予想される)、余計な火種をまかずにすむところにまでまく必要はない、というのが私の考えです。ただ、単にこれは私の想像力が足りないだけかもしれません。もしそういった問題を起こさないようなガイドラインの腹案がおありでしたら、提示していただけますでしょうか?(ただし、前もって言っておきますが、それなりに厳しく評価させていただきますので、予め悪しからずご了承ください)--Y tambe 2006年11月14日 (火) 10:02 (UTC)
>即時「記述の除去」するのではない対処が必要ではないかということ
すべての議論を追えていないのですが、現状、「要出典」と「Unreferenced」のテンプレートがあり、これらを利用することでは足りていないということでしょうか。
>「当事者にマイナスの情報かどうか」を、その対処の判断に加味する方向性はどうか
私はこちらを問題視しております。どんな記述でも、執筆者の個人的な意見ではないかと疑えば、出典を求めてしかるべきだし、そこに中傷か否かという基準はいれるべきではないと考えています。--Tamago915 2006年11月14日 (火) 10:18 (UTC)
>「要出典」と「Unreferenced」のテンプレートがあり、これらを利用することでは足りていないということでしょうか。
ではなく、「テンプレの貼付け」と「記述を除去する」という「手段」の使い分けをどうするか、ということが整理しにくいのだと思います。ただ、この点については、私はWikipedia:検証可能性の解説自体が判りにくいのが、その理由の一つだと考えています。後半については同意です。--Y tambe 2006年11月14日 (火) 10:27 (UTC)

[編集] 翻訳に関する疑問

あと先ほど原文を見ましたため、また疑問が発生してしました。the policyだけを見ただけでも原文とは(編集の初期の段階で既に)ニュアンスが微妙に異なると思います。たぶん原文の意味はこんな感じです↓
  1. ウィキペディアは社会的に信用されている情報源が発信する情報だけを元にして構成されるべきです。
  2. 既存の記事に新しい情報事柄を加える人達は確固とした情報源を明記しなければなりません。なぜなら他の誰かに除去される可能性があるためです。
  3. 社会的に多くの人達が疑問をもつ情報もつであろう事柄を加筆したい時、その確固とした情報源を明記する義務は加筆する者にあります。決して疑問のある情報を除去しようとする者にはありません。

Articles=記事の集団→ウィキペディア containを構成と意訳。reputable(sources)=一般に認められている、標準的、評判のよい→社会的に信用されている(情報源) an article→既存の記事  a reputable source→確固とした情報源(確固とした情報源の集まり=社会的に信用されている情報源) mayからニュアンスを柔らかくしました。 or→becauseと解釈できるため。 wish to→(不可能な事を望む時に使われるはずなので、1、2を受けて)社会的に多くの人達が疑問をもつ情報を加筆したい と解釈してます。英訳は参考程度に考えてください。とりあえず疑問のみお伝えします。--Naisi 2006年11月11日 (土) 15:27 (UTC)

肝心の「疑問」が提示されていないのですが。。。何が疑問なのでしょうか? また、「wish to→(不可能な事を望む時に使われるはず」の出典を示してください。[3]にはそのような意は見当たりません。「強く要望する」という意だと思いますが。よろしくお願いします。Masao 2006年11月11日 (土) 16:13 (UTC)
回答ありがとうございます。あの時点での疑問というのは『なぜ今のような強い言葉で書かれているのだろう?(英語に詳しい人が書いている筈だから、)もしかしたら私の知らない英語の知識があるのかな?)』という内容です。
あと、wish to ですが>~使われるはず というのは受験期に自由英作文対策の勉強していた時のちょっと曖昧な記憶が元です。読んだ本が手元にない事、添削で知った事などで今すぐ参照できません。申し訳ないです。今のところ参照可能と思えるのは『ジーニアス英和辞典』です。そこに『(不可能かもしれないけど、できたら)~したいなぁという感じでwant toよりも丁寧な表現』【参照できるページがなかったため著作権に触れるとまずそうなので変な感じになってしまい申し訳ありません。】と書かれているのでニュアンス的にはいいと思います。ただ『不可能なことを望む』を『(言う本人が)不可能かもしれないとちょっとは思っているけど望む』に訂正します。これは私のミスです。申し訳ありません。
(もし私の書いた英文が正しい場合)、出典(情報源)を明記する理由は加筆者と関わりがない人達が真偽を検証するためで、信憑性が高い物を優先して読者に見せるため、検証できないものはremove(移動、除去、削除【←レベルの弱い順で並べました】)されますよって言う事(つまり情報はなるべく残しておこうっていう事であり、『疑わしいのは削除せず先送りしましょう。ただし加筆者が情報を独占している疑いがある場合は検証できないので(システム上不都合なので)禁止・削除と定めますよ』っていう事。)であり、現在の『出典のないもの=即削除対象、出典のあるものは真偽に関わらず削除してはいけない(出典された物を検証するよう勧めている文章がないみたいなので)』と誤解される流れに疑問を持つ事ができると思います。翻訳の一部を訂正しました。--Naisi 2006年11月12日 (日) 09:00 (UTC)
文章が硬いのは翻訳時の都合かと思います。ばたばたとしてるっぽいので。練り直す必要はあるかもしれません。で、containは「含む」で「構成する」はconsist ofかと。で、removeには、「除去」を用いていて、delete(削除)と区別しているのは、ウィイペディアでは、削除は復帰不可、(編集による)除去はいつでも復帰可能な仕組になっているからで、除去する場合にはそれを示しておけば検証可能になったら記述を復元できるというのが情報を…の節が指す意味だと認識しております。出典のないものは、他の誰かが「除去…してもよい; ((軽い命令)) …しなさい; …しても差支えない, …するのももっともだ」(mayの訳語は三省堂提供「EXCEED 英和辞典」)となりますから、Naisiさんの(枠内の訳じゃなくて)解釈はちょっとゆるい気がします。まあ「しなければならない」ではないですし、実際の運用もあまり除去されていないので、現状こんなものかなと。出典のあるなし、およびその信頼性の程度に拠らず、この方針では「削除」は求められていないです。「加筆者が情報を独占している疑い」は、情報源が公刊されていないような場合ですから、この疑いはwikipedia:独自の調査のほうの問題となるでしょう。--Ks aka 98 2006年11月12日 (日) 19:41 (UTC)
containですがこれは日本語全体としてのニュアンスのためです。『だけを含むべき』と『~だけを元に構成されるべき』だと意味が異なりますし、色々な矛盾を解消できると思ったからです。もちろん構成される時に誤った情報が入っていれば他の方針で排除できます。>復元可能 これはすごく役立ちました。もやもやしていた物がスッキリした感じです。ありがとうございます。この場合のmayについては『推量(mayのよく使われるタイプ)』か『容認』の軽いレベルなのであの感じでいいと思います。日本語にすると『除去されるかもね』『除去された?まぁ仕方ないんじゃない(笑)』っていう感じです。
>この方針では「削除」は それについては(今の私なら皆さんとの会話でなんとなく分かたいますが、)今の方針を読むと誤解されやすいのでは?と疑問に思っているという事です。情報の独占については全体のイメージを述べるために使用しましたが、ここで述べるのは相応しくなかったみたいですね。すいません。署名付け忘れ--Naisi 2006年11月13日 (月) 15:54 (UTC)
removeがdeleteより柔らかい、ということは無いですね。removeはtake away(取り去る・取り去れ)、という強い意志のニュアンスがありますし、deleteは単純に作業として文章中から単語を消すイメージですね。ニュアンスは英和よりも英英辞典を読むとはっきりします。--Album 2006年11月14日 (火) 00:54 (UTC)
>removeがdeleteより柔らかい ですがKs aka 98さんも私もそういう事は言ってないと思うのですが、もしかしたら私の文章に関して誤解される部分ありましたか?もしよろしければご指摘してください。--Naisi 2006年11月14日 (火) 07:13 (UTC)
removeを「つまり情報はなるべく残しておこうっていう事」とお書きになっていますが、それが違うんだ、と言いたいのです。確かにAからBに移動という意味も無いではないですが、主要なニュアンスは、「汚れを取り去る・捨てる」「開拓のために木を切り開いてどけてしまう」という感じです。「なるべく残しておこう」、というニュアンスではないです。英英辞典では第2義くらいまで「形を変えてでも捨て去る・取り去る」イメージです。--Album 2006年11月14日 (火) 07:24 (UTC)
それはmayを受けた解釈です。この方針の提案者が積極的にしたいと望んでいるならmay以外のものを使うと思ったからです。あと、removeに『消滅させる』イメージはないのと、re-moveとあるように『移動させる』(上記で示されたtake awayでも分かると思いますが)が基本のイメージです。つまり日本語では『捨てる、取り除く』と言っても『消滅させる』系ではなくて『移動させる』系だという事を表してます。あと、Wikipedia:存命人物の伝記では取り除く事に強い意思を感じますが(ここではIt should be removed,とあります。)これは基本理念(理想理念)ではなくてハード面(技術的問題、法律的問題など)に問題があるためだと伺えます。(前々から思っていた事なのですが、同じ方針でも理想理念と、現実問題から生じる方針がある事をいずれ書いておいた方がいいのではと思います。(ここに参加さえる方は頭の良い方ばかりなので問題ないのですが)一般参加者には誤解が生じる恐れがあるため。)どうでしょうか?
あと、取り除く理由ですがこれはページが乱雑になって見づらくなる事と(記事が真実かどうかは読者が判断すればいいだけです。そのための中立性と思うので)信憑性がある情報が優先して掲載された方が読者の利益になるからだと思います。あと、残すというのはコメントアウトも含めます。--Naisi 2006年11月14日 (火) 08:28 (UTC)
(インデント少し戻します)deleteとremoveについてのことですが、語句そのものの強弱の話と、ウィキペディアでの意味を混同しておられるように思います。ウィキペディアにおいて「削除 (delete)」はしばしば、「記事全体を、履歴を含めて消去する」ことを指しますので、このことと「記事の一部分の記述だけを消去する(履歴には残る)」ことが混同されないよう、ここでは「除去 (remove)」という語が選択されていると理解していただければよろしいかと。
ただ、私もこの部分の訳については「表現がきつい」というだけでなく、(上でも少し書いてますが)「記述の除去」に偏向した文書になっていて誤解を生じさせる危険性がある、と考えています。枠内の訳文をもう少しだけ軟く変更した上で、「出典の追記」と「記述の除去」という、両方を想定した解説文を付けることが望ましいのではないかと。
ただし、Naisiさんにはこの点をご理解いただきたいのですが、検証可能性に基づいて、ある記述を「除去する」のは、単に乱雑さや信憑性の高い記述を優先しようという問題ではなく、「記事が真実かどうかを判断する」ための材料を与えるために必須の事項です。ご存知のように、ウィキペディアは誰でも編集ができ、その分野の専門家による査読を経ているわけではありません。また、ウィキペディアの記事を(学術論文で行うような)査読によって検証することは、かなり困難な作業になります。そこでそれに代わる制度として、検証可能性などの指針が必要になるのです。ウィキペディアの記事について査読することは困難かもしれませんが、そのウィキペディアに書かれているそれぞれの記述が、すでに専門家による査読等を済ませることで信頼性が確保されている内容だけで構成されていれば、それを集めた記事の内容も、査読されたものと同等に信頼できる、と考えられるというのが基本的な考えです(もちろん、これだけでは完全でない部分があるので、「独自の調査を行わない」という別の指針がそれを補います)
ですから、ある記事が一通り完成(安定版のリリース)されたときには、そこに「出典の示せない記述」が載っていることは、基本的には許容されません。だから出典の示せない記述については、妥当な出典を補うか、それが出来なければその記述は除去されます。そうすることで、検証可能性が保たれるのです。もし、当該の記述に出典が追記されることが(将来的に見ても)期待できないのであれば、その記述は除去されるべきです。もちろん分野によっては、査読付論文などが発行されていないなどの理由で、厳格な適用が不可能なケースもあるかと思います。しかし、その場合でも基本的な考えは同じにしなければなりません。最低限、「出典の提示を求められたときに、出典が示せること」「その出典に信頼性があると周囲を納得させることができること」、この二つができない記述は「除去されても文句は言えない」ということになる、と理解していただければと思います。--Y tambe 2006年11月14日 (火) 09:22 (UTC)
Y tambeさんの考え方は上記のも含めて結構私と似ていると感じました。たぶん誤解が生じたのは、>記事が真実かどうかは読者が判断すればいいだけです。 と思いますが、これは検証済みの場合も含めます。(現社会において示された(特にネット上の)情報を100%信頼する人はいなく、ある程度個人の裁量(出典が明記してあったり、それを元に検証された形跡があったり、その人個人の常識や知識、思考パターンなど)でされるので、判断材料だけを与える形式が一番読者の利益にかなっていると思ったわけです。あと、履歴のことですが、履歴数が多い記事の場合履歴を一つ一つ調べる事になり手間がかかり利便性が悪くなるので、できればコメントアウトかノートにでも残っている形の方が望ましいと個人的には思ってます。--Naisi 2006年11月14日 (火) 13:52 (UTC)
追加。Y tambeさんに興味を持ったため過去のココに関する投稿見せてもらいました。確かに方針の正式化の途中に『執筆者の都合』というか私情が入っているように感じました。そこで朝になってふと思いついた事なのですが、独自の調査と検証可能性は基本的に無関係と考えた方が正しい意味を受け取れると思えます。くわしく説明すると中立性と加えて3方針なので、3つがそれぞれ同じくらいの役割を果たしているはずです。それなのに独自の調査と検証可能性の役割がダブっているのはおかしいのではないかと思うのです。つまりなんらかの不純物が混ざった状態にあると言う事です。で何が不純物があるのか考えると検証可能性ではないかと思います。検証可能性の役割は中立性に基づいて書かれた物を執筆者以外の人間が検証できるようにする事が目的だと思います。そして最後の独自の調査で、検証した結果を照らし合わせて撤去させるという事です。つまり、中立性で偏りのない生の情報を提供して、検証性で他の人達に検証させて、独自の調査で、情報の処理を決定する(掲載を許可する。疑問を持つ情報を排除する。疑問がある情報でも価値のありそうな物は信頼できる機関に査読させるよう促す)という3段階を踏むという事です。
それでウィキペディアに色々と矛盾点が存在してしまったのは排除好きな人(執筆した経験があるものとしては感情的に自分の価値と合わせて邪魔な物を排除したいと思うのは当然でしょう。同じ人間として理解はできます。)が『執筆者の都合(読者の利益とは反する物。)』で排除しやすくするために、検証可能性に強引に付け加えたのがいけなかったのだと思います。もし同じ強引に付け加えるなら独自の調査に取り付けていれば今より問題は起こらなかったと思えます。大抵邪魔と思える情報は独自の調査か、あらしなど他の方針で十分さばける物だったと思います。どうでしょうか?--Naisi 2006年11月15日 (水) 06:20 (UTC)
うーん、すみませんが、いろいろと誤解されてるように見受けられます。もう一度、ウィキペディアにおける「中立性」という語の意味についてWikipedia:中立的な観点を読んでいただくことと、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自の調査を読んで、それぞれの役割を整理すること、それに加えて、Wikipedia:信頼できる情報源もお読みいただくことをお勧めします。少なくとも、「検証可能性」と「独自の調査の排除」は「役割がダブっている」ものではありませんし、この点に矛盾などありません。(「もう何度も読んだ」とおっしゃるかもしれませんが、この部分を理解できた状態で議論に参加していただかないと、議論が噛み合なくなって大変なんで、是非ともよろしく)
  • 「独自の調査」ですが、これは内容的には「独自の調査の排除」が正しく(もともとが No original research)、決して「独自に調査しろ」ということではありません(現在、改名についての議論が当該ページのノートで行われてます)。「独自の調査の排除」は、端的に言うと「自分の研究発表をする場としてウィキペディアを使うな」ということです。独自調査の元の語にあたる「original research」ってのは学術論文での「原著」を表し、学術雑誌なんかでは「投稿できる論文はoriginal researchだけに限定する」と規定されてて、それとウィキペディアの位置付けが対比できるわけですね。荒しの意図がある/ないに関わらず、そういう独自の調査が排除できるというのはこの方針にかかってます。
  • 「検証可能性」については「出典を明らかにする」だけではなく「信頼できる出典」であることが条件になります。またウィキペディアでは一次情報源でなく、二次情報源を出典とすることが強く推奨されます。この辺りを書いているのがWikipedia:信頼できる情報源です。そして荒しの意図がある/ないに関わらず、信頼できる情報源を出典としない記述は除去できる、というレベルの処置もここに含まれます。
  • 実際に「検証」や、そのために独自調査を実施することは、ウィキペディアの方針にはありません。それを行わずに、査読と同等の信頼性を確保するというのが、そもそも「検証可能性」と「独自調査の排除」が作られた理由です。
これらの方針の翻訳を書くときに、いくらかのバイアスがまぎれこんだんだろうなあ、というのは、率直に言うと私もそう感じないではありません。しかし「バイアスがまぎれこんだ人が書いた」と考えながら対峙するのもまた、そういう先入観にとらわれてしまうのでよくないことです。--Y tambe 2006年11月15日 (水) 08:35 (UTC)
やっぱり独自の調査というのは名前がよくないですね。オリジナルリサーチの方がしっくりきます。たぶん文章の書き方が悪かったのかもしれませんが、独自の調査 と書いた事はWikipedia:独自の調査のことです。あと、ダブるとか書いた事はY tambeさんが書いたようにバイアスがかかっている事を言っています。つまり検証可能性にバイアスがかかっている事に原文やノートの議論を参照せずに認める事ができるっていう事言いたかったのですが、余計複雑化させてしまったみたいです。
あと、排除好きな人達(例えば白紙化した方がいいとか言う人達)が関わる所とこの方針とは元々関係ないものであり、別の方針で対処可能だという事が言いたかったのですがこれも私の文章がわるかったみたいですね。ただ、Y tambeさんの文章を読んでいると、この方針については私の考えと基本的に同じだと思います。違う事といえば
  • 除去する時に履歴に頼るべきか、コメントアウトにするべきかという違い
  • 『文句はいえない』 は言い過ぎと思い、『仕方ない』くらいでいいと思う事。
  • >実際に「検証」や、そのために独自調査を実施することは、ウィキペディアの方針にはありません。それを行わずに、査読と同等の信頼性を確保するというのが、そもそも「検証可能性」と「独自調査の排除」が作られた理由です。 これは微妙に違うというか専門家としてのこだわりがあるように思えます。3つの方針のうち2つだけ密接な関係にあるのは疑問を感じますし、システム上色々と問題を生む気がします。この2つは専門分野にも使えますが、大衆文化にも使う事ができます。『検証可能性は』単に情報源を示せというだけ、『オリジナルリサーチ』は一次資料(二次資料の一部除く)の作成を禁止しているだけ。と分けて認識した方がいいと思います。あと、>査読と同等の信頼性を確保する とありますが、著作権に触れないように要約してくれる方が理解力に乏しい人(または理解に難解な事柄)だと間違った文章が堂々と載せられてしまう危険があると思います。
だけだと思いますがどうでしょうか?--Naisi 2006年11月15日 (水) 14:16 (UTC)
えーと、まず1件目については、上述している「手段」レベルと「小目的」レベルの話を混同されてるのではないかと。「手段」レベルについては、私は対処する人が自分の判断に基づいて、いろいろな手段(記述からいきなり除去する/コメントアウトにする)で対処することを許容すべきであり、「いきなり記述から除去すべき」「まずはコメントアウトすべき」のいずれの意見にも与しません。もしも、誰かが「一旦、コメントアウトしたとしても、ゆくゆくは結局削ることになるだろう」と判断したなら、その人がいきなり記述から除去するのはむしろ理に適っている行動だと思います。というか、私も結構そういう編集はやってますし(大体は要約欄に一言書いて、ノートで趣旨説明した上でやってますが、後でトラブルが起きるのは面倒だからなんで、そういう方法をおすすめはしますけど「すべき」とまでは言えないですね)
その人の判断が本当に正しかったかどうかについては考慮する必要がありますが、そのために「記述を残したい側」ができる反論は、信頼できる出典を付けた上で記述を付けること「だけ」で、それ以外の行動は説得力を産まないでしょうね。(半ば嫌がらせ目的などで)記述を消しまくる人が仮に現れたとしても、そのように「反論可能な」判断を連発していることを示すことで、「誤った判断を繰り返す利用者である」ことが明らかにできるでしょう。
二件目に関しては、まぁ些末な見解の違いだと思います。しかしウィキペディア全体を見わたすと、「無責任な書き込み」の方が圧倒的に多いと考えてます(この辺りはNaisiさんの場合、ご自身の体験から「削除される」ことを過大に見積もってるのではないかなあ、と思ってます)。そこらあたりのバランスを考えると、「文句は言えない」くらいでもいいんじゃないかなと。むしろ、もっと強い表現を望んでる人の方が多いんじゃないかとすら思います。
三件目についてですが、検証可能性については(英語版の原文なども見ていただくと判りますが)、常に出てくる「信頼できる(reliable, reputable)」出典というのを見落としてはいけません。ここは「簡単に揺らいでもらっては困る」部分です。余談ですが、むしろNaisiさんが削除依頼などで主張しているような方向性で考えるなら、Wikipedia:信頼できる情報源で、どういう情報源ならば「信頼できる」と認められるだろうか、と考えていく方がいいんじゃないかなあ、と思います。--Y tambe 2006年11月16日 (木) 09:05 (UTC)
1件目についてはY tambeさんが除去する事に強い執着がない事には安心しました。ただ個人の価値感や常識などで除去する事には危険があります。(ノート、コメントアウト、履歴に残す場合にY tambeさんみたいにコメント書いて除去なら復帰が簡単なので問題は全くないと思いますが。)たぶんウィキペディアの創始者が一番恐れている事だと思います。あと、>誤った判断を繰り返す利用者 といいますが、IPなどで少しだけ参加する人、アカウントを持っていても全能な人間はいませんので分野によって判断の良さが異なるのでその考えはシステムとして弱いです。
2件目に関しては無責任と思われる記事が多いのは現時点では仕方ないのです。それはWikipedia:日本語版の統計を見ていただければまだウィキペディアが進化の途中だという事分かると思います。私の経験というとLonicera さんが言った事だと思いますが、(彼の行動を見てもらえば分かりますが)誤解ですね。ただあの経験で強い矛盾点に気づいてしまったのです。(明らかにウィキペディアの創始者が考えるような事ではないこと。)それで仕方なくウィキペディアに搾取される立場に回っている訳です(笑)あと、>もっと強い表現を望んでる人 ですがこれは『ノーオリジナルリサーチ』や他の方針で十分可能です。
3件目ですが、よく出てきて、なおかつ同じ文章内にあるreliable, reputableを同じ意味『信頼できる』でくくる事は問題があると思います。もし同じ意味ならわざわざ使い分けしません。あと、削除依頼で話した事は、現在出典の定義がされていないと聞きましたので後回しにしてます。
余談ですが、たぶん参加者の大多数は、ウィキペディアを考えて実行するような人間がどういうタイプの人間かあまり想像していないのだと思います。野口悠紀雄の整理日誌シリーズや経済紙などを見ればアメリカのインテリが考えるパターンが分かりますが、彼らは情報に異常なほどの執着心を抱いてます。(例えばgoogleの行動やアメリカが積極的に図書を電子化しだした事がその結果です。)それをふまえた上でウィキペディアの方針の英語を見れば正しく理解できるはずです。(ただ部分的には創始者はどちらの道に行こうとしているか予測がつかないので今のように英文を読みながら彼らが何を考えているのか知ろうとしてます。)
しかし今の皆さんが考えているような道に行くとウィキペディアはたんなる書籍のお気に入り集にしかならなくなると思います。しかし現在アメリカのgoogleでは100年分の新聞が読めたり、本の中の語句を検索できるわけですから、もし創始者がそういう道を考えているならばgoogleに子会社でも作ってもらっていいわけです。つまりウィキペディアはプログラムではできない、人間にしかできない物を求めていると考えるべきです。
さらにタブロイドの記事などを見ればわかりますが創始者は情報に対して貪欲などは明らかですし、さらに信憑性に疑いがあるものについても一度解説から除去、ノートなどに移して求めましょうと言っているのにも、それによって彼らがもとめる価値ある情報を得る事ができるためだと思います。あと、ココの方針に『情報元を公開することは執筆者の義務』とありますがこれは『その情報もよこせ!』と言っているようにも思えます。つまりこの方針は執筆者に新たな情報を求める事ができる原動力な訳です。(余談ですが初期の私はこの方針は知らなかったのですが、除去する事で出典を求めて恨みを買った事があります。この情報はネット上では知られていましたが、いくら調べても情報源がどうしても見つける事ができなかった物です。しかし出典を書いてもらう事ができて、その出典物を存在を知り、図書館で取り寄せてもらう事ができました。相手方には不快な思いさせてしまった上貴重な情報を頂いてしまったわけです。)ただ、創作された情報や創作されたか本物かを識別するのが難しい物、ウィキペディアの創始者の人間にとっていらない情報を排除するのが『ノーオリジナルリサーチ』だと思うわけです。私個人としてはウィキペディアの最終形態(少なく見積もって100年以上あと)はハード面(技術、法律、人などの問題)さえクリアできれば自分さえ知らない個人情報(祖先が何をしていたとか、自分がかかりやすい病気など、死去する年などなんでも)が調べる事も可能だと思います。
さすがにそれは難しいですので、近未来の現実的な問題を考えますと、今まで何かを調べる時に10時間かかっていた事がウィキペディアのおかげで1時間に短縮できるようになれば経済効率や文明の発達効率が上がるわけです。そうなると早くウィキペディアを完成形に近づける事ができた国民は相当の利益を手に入れる事が可能となるわけです。(もしかしたらその時にはウィキペディアが有料化されたり、サーバーをアメリカに盗られているいるかもしれませんけど。)
ちょっと文章が分かりづらくなったと思いますが、私は私情から行動しているのではなく、ウィキペディアの創始者が何を望むのかというアプローチで行動しているっていうことです。
ところでそろそろ翻訳のことについて実行したいと思っているのですが、上記の訳だと日本語として荒削りな感じ(特に2と3。2については以前Y tambe さんが書いた物の方がしっくりくる感じがするので。)がするのでもう一度書き直してもよいでしょうか?--Naisi 2006年11月17日 (金) 11:29 (UTC)

[編集] 続・翻訳に関する疑問

量が多くなったので新しい章を作りました。 とりあえず時間短縮のためこのようなものを作りました。[[4]]で変更前と後が分かります。議論はあちらのノートではなく、こちらでお願いします。--Naisi 2006年11月20日 (月) 18:46 (UTC)

ご提案の文章は翻訳として正確でないと思うので、変更には反対です。例えば、Naisiさんのwish toの解釈等は明らかに間違っていると思います。
ところで、2番目の文章の"may be removed”が、英語版ではいつのまにか“may be challenged or removed“に変更されていますね。除去(remove)だけが唯一のオプションではなく、「要出典」のタグを貼る等、問題提起・異議申立(challenge)のオプションもあることを表現しようとしたもののようです。[5][6]
この変更は日本語版にも取り入れた方が良いと思うのですが、訳すと「出典が明示されていない編集については、誰でも反対意見を述べ、または、除去することができます」くらいになるのでしょうか?もっと良い訳がありそうな気もするのですが、思いつきません。--Dwy 2006年11月23日 (木) 11:18 (UTC)
翻訳についてはウィキペディアのシステムを俯瞰した上でしている部分と日本語にした時に誤解を受けないようにしている部分がありますので、もし誤っていると思えるのであればDwyさんが正しいと思える記述をつけて指摘してくだされば説明しやすいと思います。
あと英語版について一応個人の意見を言わせてもらえれば、無条件に受け入れるべきではないという考えです。理由は文化、文明水準、人の思考方法の違いなどもありますが、対人効率が悪くなるのが大きい理由です。ただし、参考にするのにはいいと思います。
あと、Dwyさんは英語版も読んでいられるようなので英語力があると思うのですが、解釈の仕方に意図が感じられ疑問が残ります。(ちゃんと英文の対話を読まれているのかという疑問、現在英語版がchallengedの提案者が原因と思われるブロックがされており、なにか重要な切り札を隠しているような気がする事からの警戒心、過去のDwyさんの議論、履歴、からつい警戒してしまいます。申し訳ない。)一応私は利便性を高めるためにやっていますのでウィキペディアをおかしな方向にもって行こうなどとは考えていません。ですのでここでは戦略など考えずに議論をしています。ですのでもし何か意図がある場合はお止めください。もし意図がないのであれば大変失礼しました。--Naisi 2006年11月23日 (木) 15:12 (UTC)
一応2006年11月26日 (日) 18:45 (UTC)に井戸端の方へだしましたが、何もないので変更しました。--Naisi 2006年12月3日 (日) 09:43 (UTC)
お気持ちは理解できますが、合意形成は全くなされていません。「議論はこちらで」と自らお書きになっているのですから、議論と合意形成はこちらでお願い申し上げます。反対を表明された方の合意も、まだありません。呼んでくる必要があります。また、翻訳の正しさと、日本語版のあり方は、また別の話だと考えます。議論の続行をお願い申し上げます。明日以降。--Album 2006年12月3日 (日) 10:03 (UTC)
>呼んでくる必要があります。 それを私がやると何となく日本人的に考えて、無礼な気がするので、Albumさんが適当と思われる人達を呼んできてもらうと助かります。--Naisi 2006年12月3日 (日) 11:31 (UTC)

[編集] 方針について

Y tambeさんが以前に提案していますがmaterialを題材と訳すのはどうもおかしい気が。それに題材を辞典で調べたところ[7]別の意味のようです。「内容」に変更した方がいいんじゃないでしょうか。--220.211.167.153 2006年12月13日 (水) 22:29 (UTC)

1週間異論がないため修正しました。--218.110.176.18 2006年12月20日 (水) 00:20 (UTC)

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