有馬康純
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有馬 康純(ありま やすずみ、慶長18年8月1日(1613年9月15日) - 元禄5年4月12日(1692年5月27日))は、日向国延岡藩の有馬氏第2代藩主。父は初代藩主・有馬直純(康純は長男)。母は徳川家康の養女・国姫(日向御前)。正室は水野忠清の娘。阿部忠秋の養女。側室に草野氏、樫沢氏、馬場氏、伊東氏、松木氏。官位は従五位下、左衛門佐。
1613年8月1日、肥前有馬にて生まれる。幼名は大助。母が家康の縁戚だったことから、幼少期に家康に寵愛されて、「康」の字を与えられた。1641年、父の死去により後を継ぐ。この時、須志田村508石を除く諸縣郡の本庄村、森永村、竹田村、塚原村の四ケ村(現在はいずれも国富町の一部)3000石を、弟の有馬八兵衛元純(有馬純政、後に母日向御前方の姓である本多氏を名乗り、1655年(明暦1)年、京都にて死去)に分知し、旗本とした。
67歳の延宝7年(1679年)11月27日、家督を嫡子有馬清純に譲り隠居。元和1年(1681年)4月21日、新たに建てた門川の隠居宅に移る。元和2年(1682年)、70歳を機に剃髪して出家し「假宿」と号す。貞享4年(1687年)に、ふたたび縣(延岡)の三瀬(現、三ツ瀬町)の隠居宅へ移る。元禄5年(1692年)4月8日、「中風」に倒れ、同12日の巳の刻(午前10時前後)に三瀬の隠居宅で亡くなる。享年80歳。当時としては長命の一生を閉じた。葬儀は14日に有馬家菩提寺の高岳寺(現北小路城影寺の所在地、現在は福井県丸岡町に移転)にて執り行われた。4月16日、隠居宅のあった三ツ瀬に近い「恒富村の簗場(やなば)にて荼毘」(『藤原有馬世譜』、巻五、嘉祥公譜)にふされた後、高岳寺に納骨される。法名「嘉祥院殿徹洞宗通大居士」。ちなみに、この記述は延岡の名物である「梁漁」が300年以上の歴史を持つことを示す最古の史料となっている。