日置流
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[編集] 特徴
日本の弓道は、主に戦場における徒歩による弓射から発展した「歩射」と、馬上から射る弓射から発展した「騎射」、三十三間堂における通し矢の弓射から発展した「堂射」に分類することが出来る。今日的な分類では、弓道を武射と礼射に分ける考え方が主流となった。武射系と言えば日置流系統の射を指し(この場合は歩射・堂射が含まれている)、礼射系と言えば、小笠原流騎射・歩射から儀礼・儀式的なもの加味されつつ発展した射の系統を指す。900年近く続く小笠原流と比べると日置流の歴史は新しく500年程である。ただ、戦国時代の一時期、没落した小笠原家に変わり、日置吉田流一門が宮中で射礼を行った事もある。
なお、弓の引き方を儀礼的に行うことを一般に「礼射」というが、その際に小笠原流が「礼射」と称するところのものを日置流では「
小笠原流が騎射を出発点とし、主に見た目の美しさや品位を重視するものであったのに対して、日置流は的中や矢の貫通力に重点を置いた実利的な歩兵用弓術であった。
現在では、同じ「弓道」という競技において、本来は目的の異なる別のものである「歩射」「騎射」「堂射」の違いを深く理解している射手は少数となってしまった。また、今日では日置流や小笠原流、日置流堂射流派の垣根が低くなってきている。しかし、発展過程がそれぞれ異なる、日置流(武射系)や小笠原流(礼射系)の文化的・歴史的な背景に敬意を払い、よく理解して弓道を学ぶことが望ましい。
日置流には、途切れたものや現存するものを含めると多くの派が存在するが、古来の「派」の位置付けは「教えを受けた~家・~師匠の流れを組むもの」程度の意味合いであったと考えられ、伝承してきた教えの解釈等の違いから生ずる小さな違いはあるが、根幹となる教えはどの派でも同一である。
[編集] 射法
小笠原流が多くの場合、射の行程における打起しと呼ばれる動作において身体の正面で構える形、いわゆる「正面打起し」をとるのに対し、日置流では「斜面打起し」をとる。(本多流を除く)
日置流が斜面打ち起こしの射法であるのは、弓の握り方に独特の教えがあるからであり、矢を放つ際に的中率・貫通率を高める事等を目的としている為である。例えば、印西派ではこの握り方を「
なお、和弓では利き手にかかわらず、弓は左手で握り、弦は右手で引くのが通常である。 これは、弓兵を集団で訓練し運用する事を容易にし、また規格を統一する事で弓具を大量生産する為の名残であると考えられる。
武士が戦場での実戦を出発点として磨き上げてきた弓術、それが日置流である。
[編集] 諸派
分派については諸説あるが、代表的な説に基づいていくつかの派を挙げる。
[編集] 大和日置系統 (吉田流)
日置弾正政次の弟子、吉田上野介重賢を祖とする流れ。
吉田家が代々伝えた事から、吉田流とも呼ばれる。
[編集] 出雲派
吉田出雲守重高を祖とする。
[編集] 印西派
吉田源八郎重氏(号を一水軒印西と称す)を祖とする。 流祖一水軒印西が徳川将軍家弓術指南役となり、日本各地に広まる。江戸と備前池田藩の印西派のみ「日置当流」と称される。日置弾正正次からの教義を血族には唯授一人、血縁関係の無い弟子には免許皆伝を与え、日置弾正の教義を次世代次世代へと伝えてきた射法。その土地の印西派の伝承者(つまり宗家)は、その世代にただ一人しか存在しない。免許皆伝者は複数居る場合もある。
一部の印西派を当流と呼ぶのは、江戸印西派の宗家が徳川将軍家の弓術指南役だった事からで、将軍家の流派という意味。また、備前池田藩の印西派が当流と呼ばれる所以は、池田公と当時の将軍が弓の勝負をした際に池田公が勝利し、池田公が当家でも「当流」と称させて欲しいと願い出たところ、将軍が褒美の意味で当流と称すことを許可した事から。
印西派は戦場で
現代では、その割膝の練習段階とされる、立ったまま弓を引く「立射」の体勢が一般的である。
印西派の教えでは「
「貫」は敵兵の鎧まで貫く強力な貫通力、「中」は百射百中の命中率、「久」は貫・中を永久に実践できることを意味する。つまり印西派は、弓矢が強力な武器であった時代において、戦場で戦う徒歩武者が如何に敵を射殺できるか、その鍛錬と戦場での実践のために編み出された射法であり、文字通り極めて実戦的かつ合理的なものである。
現代の弓道においては通常の競技において的中主義であるため、貫通力の相対的価値が下がっていることもあり、今日では「中・貫・久」の実践を最高としているが、本来は「貫・中・久」である。
印西派における射法の教えについて、物理学的・医学的等の見地からの研究が筑波大(旧東京教育大)で行われているが、その伝承されてきた事項について科学的な見地から否定されるものが一切発見されておらず、古来からの教えが戦場での経験に基づいた極めて合理的・科学的なことが裏付けられている。
的は
また、もし敵兵を射損じた場合でも、外れた矢が足元に突き刺さる方が、頭上を飛び越えて行くよりもより敵に恐怖感を与える事が出来るため、的は地面すれすれの低い場所に立てて稽古した。
近的用の的の大きさは人間の胴体の幅を想定しているとされている。それ故、上や下に外す事よりも、的の左や右に外す事の方が良くない事だとされている。
また、的は約15
現在もこれらに習い、近的の場合は流派を問わず、直径一尺二寸(36cm)の的を15間(28m)先の低い位置に設置するのが一般的である。
徳山文右衛門から明治初期に免許を受けた浦上
印西派の中でも薩摩日置と備前日置の系統はしっかりしており、詳しく系譜をさかのぼる事が出来る。
有名な射手としては、弓道教本編集に関わり射法制定委員であった「
[編集] 壽徳派
[編集] 大蔵派
[編集] 大心派
[編集] 山科派
[編集] 雪荷派
吉田六左衛門重勝を祖とする。
[編集] 道雪派
[編集] 伊賀日置系統
日置弾正政次と同じ血統であるか、もしくは教えを受けたとされる、日置弥左衛門を祖とする流れ。
[編集] 竹林派
竹林派は京都の三十三間堂などで行われた「通し矢」をいかに行うかの見地から発展した射法である。「堂射」と呼ばれる。 正統竹林派、尾州竹林派、紀州竹林派がある。
江戸時代(17世紀頃)盛んだった通し矢で10542射8000中を成し遂げた尾州竹林派星野勘左衛門茂一や、13053射8133中で最高記録を残した紀州竹林派和佐大八郎が有名。
[編集] 一貫流
大野又兵衛一貫を流祖とする。鳥取県に現在も伝わる。
[編集] 本多流
尾州竹林派から明治期に分派した。打起しを斜面から正面に変更している。この時、小笠原流を参考にしたとされる。打起しの後「大三」と呼ばれる、斜面打起しとほぼ同じ位置で一度動きを止める動作を取るのが特徴。流祖は本多利実。本多流の有名な射手として、大射道教を創始した阿波研造範士、正法流を創始した吉田能安範士がいる。
現在大多数の弓士が正面打起し射法であるが、その多くは本多流の影響を強く受けている。
押手カケと四ツガケを使う射手が多い。カケとは弓を引く時に手に装着する、手袋である。現在鹿革製が一般的。
[編集] 日置流の現在
- 印西派
- 竹林派
- 一貫流
- 鳥取県で一貫流保存会が活動。
- 本多流
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
稲垣源四郎『絵説・弓道・全』東京書店、2002年。
岡山大学体育会弓道部OB会編『日置の源流』太陽書房、2005年。
[編集] 外部リンク
- 全日本弓道連盟
- 全日本弓道具協会
- Heki_To_Ryu ~日置當流の歴史~
- 本多流生弓会
- 一貫流保存会
- 武芸の里を訪ねて~日置流印西派塩崎御弓保存会
- 由美こころ・印西派摂津系同門会
- 小笠原流
- 武田流弓馬道
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