成瀬昌由
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成瀬昌由(なるせ まさゆき、1973年3月15日 - )は、日本の男子プロレスラー。東京都杉並区出身。身長173cm、体重95kg。
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[編集] 経歴
科学技術学園高校時代に空手部で空手を始め、松涛館空手で初段を獲得。1991年、前田日明主宰のリングスの第一回新人テストに合格し入門、1992年8月16日、有明コロシアムでの山本宜久戦でプロデビュー(対戦相手の山本も同日デビュー)。軽量級ながら、空手仕込みの打撃と、前田直伝の関節技を武器に体格差のある相手と対戦。93年頃盛んに開かれた「実験リーグ」では、名勝負を数多く製造し、「実験リーグ男」の異名を持つ。
1997年、リングス軽量級王者を決めるトーナメント21で優勝し、初代王者に君臨。以後、二度の防衛を果たした。しかし、度重なるケガに悩まされ、欠場と復帰を繰り返し、1999年8月の金原弘光戦を最後に椎間板ヘルニアの為に長期欠場を余儀なくされる。手術とリハビリの末、2001年3月、リカルド・フェイエート戦で復帰。KOKルールとなってから初の試合となったが、サブミッションで一本勝ちを納める。
同年5月に山本宜久と共にリングスを退団。その後は新日本プロレスに主戦場を移す。7月の札幌ドーム大会で行われたIWGPジュニアヘビー級選手権での田中稔戦で初参戦を果たし、この試合に勝利してIWGPジュニアを戴冠する。しかしその後の石澤常光戦でわずか26秒で敗れ王座を失う。以降は本格的に参戦を果たし、ジュニア戦線で活躍。後に「無差別級」を合言葉にヘビー級とも渡り合った。2002年に正式に入団。2004年11月、リングス時代の先輩長井満也とアジアタッグ王者に輝き、以後2度の防衛を果たす。
2006年、「世界の海援隊でもやりますかいのぅ」と言って新日本を退団しフリーに。西村修ら新日本退団組の結成した無我ワールド・プロレスリングにも参戦せず、未だ沈黙を保っている。(現在はインストラクターや総合のセコンドなどプロレス以外の仕事をしている。)
総合格闘技では、フリー参戦の2001年から新日本選手の参戦に際し、その練習パートナーとして常に帯同。永田裕志、ケンドー・カシン安田忠夫、獣神サンダー・ライガー、矢野通、ブルー・ウルフ、ジョシュ・バーネットといったメンバーの練習や本番のセコンドに就き、徹底したバックアップを行った。これは当時新日本にセコンドを務められる人材が非常に不足していたため、リングス時代の長い経験を持つ成瀬が多くセコンドに付いている。自らも、2003年大晦日のDynamiteでK-1の大巨人ヤン”ザ・ジャイアント”ノルキアと対戦。身長差38cm、体重差50Kgのハンデを引っくり返し、チョークスリーパーで一本勝ちを納めている。何故かこの時は同日参戦した新日本選手の中で唯一の勝利者であったにもかかわらずリングスのバスタオルを掲げていた。また、新日本プロレスの総合ルールとして、UFC、PRIDEを越える危険なルールULTIMATE CRASHルールを作成したことでも知られる。
ファンクラブがあり、不定期に「成瀬教室」と言う運動セミナーを開いている。また、自ら書いている「成瀬昌由の自由人ブログ」は、軽い筆致で人気があるが、その独特の言い回しには批判も多い。
[編集] 新日本プロレス時代の略歴
- 2001年7月 札幌ドームでの田中稔戦に初登場。IWGPジュニアヘビー級選手権として行われたこの試合で勝利し、第40代IWGPジュニア王者に輝く。以後1度の防衛を果たす。
- 2001年10月 東京ドームでのケンドー・カシンとのIWGPジュニアヘビー級選手権に王者として参戦。26秒飛びつき腕ひしぎ逆十字固めに敗れ王座陥落。
- 2001年12月 猪木祭りに参戦したケンドー・カシン、永田裕志、安田忠夫のセコンドに(それ以前に、永田、ドン・フライの総合特訓にも帯同している)。安田の勝利に貢献。
- 2002年1月 新日本プロレス入団。
- 2002年6月 フリー参戦していたバス・ルッテンと対戦。KO負けを喫する。
- 2002年8月 当時大阪プロレスに所属していた村浜武洋と対戦。時間切れ引き分けに終わる。
- 2002年10月 佐々木健介退団騒動によって空席となった村上和成(当時は村上一成)の対戦相手に立候補し、東京ドームの新日本VS外敵軍7番勝負の第3戦に登場。黒のオープンフィンガーグローブを着けた村上に対抗して青色のグローブを着けて試合に臨むが、敗北を喫する。
- 2002年11月 獣神サンダー・ライガーのパンクラス参戦のセコンドに。
- 2002年12月 ヒート派と反ヒート派の抗争でヒート派に組する。
- 2003年1月 東京ドーム大会後、右肩の手術の為欠場。その間にアルティメットクラッシュルール作成に携わり、また同大会の運営に関わる。
- 2003年6月 鈴木みのるの新日本復帰戦に自ら名乗りを挙げ、日本武道館で対戦するも敗戦。試合後、魔界倶楽部星野総裁に魔界マスクを手渡される。又この戦い以後、鈴木とのタッグを組まれることが多くなった。
- 2003年7月 執拗な魔界倶楽部の勧誘に遭う。同時に当時魔界5号を名乗っていた長井満也との抗争が勃発した。この抗争は2年近くに渡り、幾度かのタッグ結成を経て両者の退団まで続いていた。8月には成瀬にそっくりなマスクマン「スズキくん」が現れる。
- 2003年8月 矢野通、飯塚高史のパンクラス参戦のセコンドに。
- 2003年11月 成田空港でアントニオ猪木に猪木祭り参戦を直訴。
- 2003年12月 K-1 Dynamiteでノルキアと対戦。勝利。
- 2004年1月 棚橋弘至の持つIWGP・U-30無差別級王座に挑戦するも敗北。
- 2004年3月 獣神サンダーライガーの持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗北(GHCベルトが初めてNOAH以外の団体でタイトルマッチを行った試合)。
- 2004年5月 ブルー・ウルフのK-1 ROMANEX参戦のセコンドに。
- 2004年9月 アントニオ猪木の命令で、垣原賢人、長井満也、柳澤龍志、中邑真輔と共に北朝鮮で行われた第1回国際武道大会に参加。エキシビジョンマッチで垣原と対戦した。
- 2004年10月 真壁刀義と下克上宣言を行う。
- 2004年10月 ブラジルで行われたJUNGLE FIGHT3に参戦。トミー・ウィリアムスに勝利。
- 2004年10月 ジョシュ・バーネットのPRIDE参戦のセコンドに。
- 2004年11月 抗争を続けていた長井満也と組み、天龍源一郎、渕正信の所持していたアジアタッグに挑戦(7月にも挑戦したが奪取失敗)。勝利し、第77代アジアタッグ王座に輝く。その後、2度の防衛に成功し、2005年2月にベルトを失う。
- 2004年11月 ハッスル軍による新日マットでのハッスルを阻止。小川直也にチョップを叩き込む。
- 2005年1月 アルティメットロワイヤルに登場。一回戦でロン・ウォータマンと対戦するが、敗北。
- 2005年 度重なるケガにより欠場と復帰を繰り返す。下克上宣言を行った真壁刀義、矢野通がBNJに加入するとこれと争う。長州力が現場監督に就任すると、ケガも重なって試合数が激減した。
- 2006年1月 新日本を退団。フリーランスに。
[編集] 必殺技
リングスで培った打撃と関節技を主体としてで試合を作る。
- クレイジーサイクロン(バックブロー)・・・リングス時代からの必殺技。顎を綺麗に打ち抜く危険な技であった為か、新日本に継続参戦していくうちに、胸へのローリング逆水平(小橋建太の得意技)へと劣化していった。
- ナルセロック(変形のクロスフェイス)・・・ガードポジションからの三角絞めの体勢から腕を奪いサイドに移り、相手の片腕を極めた状態でフェイスロックを決める。
- コピィロフクラッチ(膝十字からの丸め込み)・・・ほんの極僅かな期間しか使わなかった幻の技。リングスロシアのアンドレイ・コピィロフに教わったと言う。
- スリーパーホールド・・・リングス時代に前田日明に教わった技術。この技で、ノルキヤ、安田忠夫と言った大型レスラーを数多く仕留めてきた。
- キャプチュード・・・師匠前田譲りのスープレックス。
- 羅生門(ツープラトンで放つダブルマッケンロー)・・・名前の由来は中西学が当時愛読していた小説「羅生門」から。成瀬氏曰く「禁断の技。」初披露時のパートナーは鈴木みのる。
[編集] タイトル履歴
- IWGPジュニア・ヘビー級王座(第40代)
- アジアタッグ王座(第77代(パートナーは長井満也)