山本浩二
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山本浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区五日市町)出身。プロ野球選手・プロ野球監督。旧名「浩司(こうじ)」(1974年まで)。愛称は「ミスター赤ヘル」、あるいは「コージ」。一部(主にアンチ)からは、ピーコと同じような黄色いサングラスを掛けていることから「ピーコ」とも呼ばれている。現役時代は広島東洋カープで長きに渡って活躍し、引退後も広島の監督を2度務めた。
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来歴・人物
広島市西端の町、五日市の生まれ。子供の頃、父に連れられ当時の広島カープの本拠地・広島県営球場に太田川対岸から渡し船で何度も通い、当時の広島の主力、エースピッチャー・長谷川良平、四番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだという。16歳の時、自分の力で甲子園へ行きたいと、野球では全くの無名だった廿日市高校へと進学、入学時からエースで四番を務める。3年時には主将として広島県予選(この時の県内の同期には、後に巨人に入団した高橋一三、小川邦和がいる)を勝ち抜き、あわや甲子園かという所までいったが、準決勝で広陵高校に17安打を食らうめった打ちにされ、涙を飲んだ。しかし、その評判を人伝に聞いた南海ホークスの鶴岡一人監督の目に留まり、「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧められ、1965年、高校卒業と同時に法政大学に入学した。(鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている)
大学進学後、投手として野球部に入部したが、1年生部員だけで50人もいた法大ではなかなか通用せず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った田淵幸一と違い、富田勝、桑原秀範(のち広島商業監督、堀越高校監督を歴任。現在は穎明館高校監督)らと共に一般部員の立場に甘んじた。しかし二年時、山中正竹(東京六大学リーグの最多勝記録保持者。現在は横浜ベイスターズ球団専務)の入部をきっかけに外野にコンバート。また、松永玲一監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花し、2年生にしてクリーンナップに抜擢された。やがて山本は、田淵、富田と共に「法大三羽ガラス」の異名を取るようになり、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となっていった。
1968年、ドラフト1位で広島に入団。入団当初の背番号は27だったが、山内一弘引退後、背番号8を譲り受けた。長らく中距離打者として脇を固めていたが、根本陸夫、上田利治、関根潤三、広岡達朗ら指導者にも恵まれ、長距離バッターとして開眼。1975年には4番の座を射止める。この年のオールスターゲーム第1戦、王貞治に代わってセ・リーグの4番を務め、5番に入った衣笠祥雄と二打席連続アベックホームランを放った(このアベックホーマーは、オールスター屈指の名場面として伝説化し、「赤ヘル旋風を巻き起した」と毎年オールスターゲームで紹介されている)。その勢いに乗り同年、自身初のシーズン30本塁打を記録し、首位打者を獲得。チーム悲願の初優勝に大きく貢献し、MVPにも輝いた。優勝を決めた10月15日の巨人戦(後楽園)では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として「ミスター赤ヘル」の二つ名を送られた。
1977年から5年連続40本塁打を記録(この記録を持つのは王貞治と山本のみ)。1978年、1980年、1981年、1983年と4度のホームラン王に輝き、打点王も3度獲得した。また、強肩巧守のセンターとしても知られ、ゴールデングラブ賞を10年連続で受賞。盗塁も通算で231個を記録する俊足で、走攻守と三拍子揃ったいわゆる“コンプリートプレーヤー”として、衣笠祥雄、三村敏之、水谷実雄らと共に広島黄金時代を築いた。1983年4月30日の阪神戦(甲子園)ではサイクルヒットを達成。1984年より打撃コーチを兼任し、1986年、リーグ優勝を花道に惜しまれつつ現役を引退した。
名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。引退した1986年にも打率.276をマークし、27本ものホームランを打っている。また、大卒での通算536本塁打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われている。まさに大卒出身で1、2を競う最強打者と言えよう。30歳を越えてから通算本塁打の半数以上を放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。
引退後、NHKの野球解説者を務めたのち、1989年に阿南準郎監督の後任として3年ぶりに現場復帰。1989年、1990年は2位に甘んじるが1991年にはリーグ優勝を果たした。が、1992年以降は低迷を極め、1993年には現役時代の1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、その責任をとる形で辞任した。その後、日本テレビの解説者をしていたが、球団の要請で2001年に広島監督に復帰。しかし一度もチームをAクラスに導くことなく、2005年、成績不振により2度目の辞任。監督としての在任期間(第1期・第2期合わせて)は10年間で、古葉竹識監督、白石勝巳監督の11年に次ぐ長期政権となった。
2001年から続いた第二期政権の成績不振に伴い、指導者としての評価は急落したが、選手としての輝かしい実績は何ら傷つくものではない。広島で生まれ、郷土のチームを自らの手で強くしたいと願い、四番打者としてまさにそれを実現した。野球界に於いて、これ程に立志伝を体現した選手は他にはいない。また監督時代についても、チーム成績こそ低迷していたが、第一期政権時代には前田智徳や緒方孝市、江藤智など、第二期政権時代には新井貴浩や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した実績は高く評価できる。
2006年より野球評論家として復帰し、日本テレビと広島テレビ放送に出演している。
経歴
所属球団
背番号
タイトル・表彰
- 首位打者 1回(1975年)
- 本塁打王 4回(1978年、1980年-1981年、1983年)
- 打点王 3回(1979年-1981年)
- 最多出塁数 3回(1979年 - 1980年、1983年)
- MVP 2回(1975年、1980年)
- ベストナイン 10回(1975年、1977年 - 1984年、1986年、8年連続)
- ゴールデングラブ賞 10回(1972年 - 1981年、10年連続)
- サイクルヒット (1983年4月30日)
- オールスター出場 14回(1973年 - 1986年、14年連続)
記録達成歴
- 1974年:6月13日阪神戦で100号本塁打達成。
- 1975年:10月15日セントラル・リーグ初優勝を飾る。
- 1977年:8月11日阪神戦で200号本塁打達成。
- 1979年:10月8日セ・リーグ2回目の優勝を飾る。
- 1979年:11月8日近鉄を下し、日本一の栄冠。「江夏の21球」として球史に残る。
- 1980年:4月8日大洋戦で300号本塁打達成。
- 1980年:9月7日阪神戦で1500本安打達成。
- 1980年:10月17日セ・リーグ3回目の優勝を飾る。
- 1980年:11月2日近鉄を下し、2年連続日本一。
- 1981年:8月2日中日戦で1000打点達成。
- 1981年:8月20日巨人戦で1000得点達成。
- 1982年:6月5日巨人戦で400号本塁打達成。
- 1984年:4月6日巨人戦で2000本安打達成し、名球会入り。
- 1984年:10月4日セ・リーグ4回目の優勝を飾る。
- 1984年:10月22日阪急を下し、3回目の日本一。
- 1985年:7月26日中日戦で500号本塁打達成。
- 1986年:10月12日セ・リーグ5回目の優勝を飾る。
- 1986年:10月27日西武に1分け3連勝するも4連敗で日本一を逃し、現役として最後の試合になる。翌日引退を表明し、背番号「8」は球団初の永久欠番となる。
現役引退後
- 1987年:1月12日広島県から「県民栄誉賞」を贈られる。
- 1987年:4月5日近鉄とのオープン戦で引退試合。
- 1988年:10月21日阿南準郎監督の後任として現場復帰。
- 1991年:10月13日セ・リーグ6回目の優勝を飾る。
- 1993年:9月16日最下位に終わり、成績不振の責任を取って監督を辞任。
- 2000年:10月14日達川晃豊監督の辞任を受け監督復帰。
- 2001年:復帰初年は貯金でシーズンを終えるも成績は4位
- 2002年:前半はAクラス争いに加わっていたものの、夏場以降チームが低迷し、成績は5位
- 2003年:エース黒田博樹の前半の不調、4番新井貴浩のシーズン通しての不調が原因で昨年と同じく5位
- 2004年:赤ゴジラ嶋重宣のブレイクで4月は首位に立ったが、その後順位は急落、成績は5位
- 2005年:黒田博樹が最多勝、新井貴浩が本塁打王を獲得するなど話題もあったが、1993年以来チーム12年ぶりの最下位に終わる。その責任を取り監督辞任。
年度別成績
年度 | チーム | 試合数 | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1969年 | 広 島 | 120 | .240 | 88 | 12 | 40 | 9 |
1970年 | 広 島 | 128 | .243 | 112 | 22 | 56 | 21 |
1971年 | 広 島 | 123 | .251 | 108 | 10 | 52 | 25 |
1972年 | 広 島 | 130 | .258 | 125 | 25 | 66 | 18 |
1973年 | 広 島 | 126 | .269 | 121 | 19 | 46 | 10 |
1974年 | 広 島 | 127 | .275 | 131 | 28 | 74 | 18 |
1975年 | 広 島 | 130 | .319 | 144 | 30 | 84 | 24 |
1976年 | 広 島 | 129 | .293 | 136 | 23 | 62 | 14 |
1977年 | 広 島 | 130 | .308 | 138 | 44 | 113 | 22 |
1978年 | 広 島 | 130 | .323 | 153 | 44 | 112 | 12 |
1979年 | 広 島 | 130 | .293 | 137 | 42 | 113 | 15 |
1980年 | 広 島 | 130 | .336 | 148 | 44 | 112 | 14 |
1981年 | 広 島 | 130 | .330 | 156 | 43 | 103 | 5 |
1982年 | 広 島 | 130 | .306 | 137 | 30 | 90 | 8 |
1983年 | 広 島 | 129 | .316 | 146 | 36 | 101 | 5 |
1984年 | 広 島 | 123 | .293 | 128 | 33 | 94 | 5 |
1985年 | 広 島 | 113 | .288 | 110 | 24 | 79 | 2 |
1986年 | 広 島 | 126 | .276 | 121 | 27 | 78 | 4 |
通 算 | 2284 | .290 | 2339 | 536 | 1475 | 231 |
(表中太字は、シーズンのリーグ最高記録)
監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | 2位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | 9 | 101 | .271 | 3.01 | 43歳 | 広島 |
1990年 | 2位 | 132 | 66 | 64 | 2 | .508 | 22 | 140 | .267 | 3.57 | 44歳 | |
1991年 | 1位 | 132 | 74 | 56 | 2 | .569 | ― | 88 | .254 | 3.23 | 45歳 | |
1992年 | 4位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 | 3 | 122 | .260 | 3.60 | 46歳 | |
1993年 | 6位 | 131 | 53 | 77 | 1 | .408 | 27 | 155 | .253 | 4.29 | 47歳 | |
2001年 | 4位 | 140 | 68 | 65 | 7 | .511 | ― | 155 | .269 | 3.82 | 55歳 | 広島 |
2002年 | 5位 | 140 | 64 | 72 | 4 | .471 | 21 | 154 | .259 | 4.36 | 56歳 | |
2003年 | 5位 | 140 | 67 | 71 | 2 | .486 | 20 | 153 | .259 | 4.23 | 57歳 | |
2004年 | 5位 | 138 | 60 | 77 | 1 | .438 | 20 | 187 | .276 | 4.75 | 58歳 | |
2005年 | 6位 | 146 | 58 | 84 | 4 | .408 | 29.5 | 184 | .275 | 4.80 | 59歳 |
- 監督通算成績 1358試合 648勝681敗29分
- ※1 1989年から1996年までは130試合制
- ※2 2001年から2004年までは140試合制
- ※3 2005年から146試合制
エピソード
- 大学の同期であった田淵幸一、六大学リーグで何度となく対戦した星野仙一とは、大学時代から同学年の親友として有名である。プロ入り後も、シーズン中に対戦があると、よく互いの家に泊ったりしていた。敵チームの選手宅に泊るには好ましいことでは無いが、ファンも彼らのことは黙認していたという。山本が現役引退を決意した時、一番最初に打ち明けたのも田淵であったといわれている。
- 現役時代は投手の配球を読むのが上手く、「読みのコージ」とも呼ばれた。そのあまりの的中率に、スパイ疑惑を持たれたことさえある。
- 1974年シーズンオフ、名前を「浩司」から「浩二」に改名。姓名判断で「『浩司』という名前は勝負師に向かない」と言われたためだという。改名の効果がどれ程あったかはわからないが、翌1975年シーズンから飛躍的に成長し、以降球団のみならず球界を代表する選手へと変貌を遂げたのは、上述した通りである。
- 来歴の項で述べたように、1983年4月30日の阪神戦でサイクルヒットを達成している。この日の第5打席、あとは三塁打さえ出ればサイクルヒット達成という場面においてライト側に長打を放ったが、俊足で鳴らした山本でも三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布雅之とのクロスプレーを制して悲願のサイクルヒット達成となったのだが、この時の掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとしたものであったため、このシーンは今でもファンの間で語り草となっている。そもそもサイクルヒットは達成の前にチャンスを作ること自体が難業であり、またその試合は阪神が大差でリードしており且つ試合も終盤であったため、山本浩二に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「粋な配慮」を見せたと言われているが、掛布はこれを「あのタイミングでは完全に間に合わなかった」と否定している。
- 現役時代に「六つの星」という曲で王(巨人)、田淵(阪神)、星野(中日)、平松(大洋)、松岡(ヤクルト)と共にバックコーラスに参加していた(下記詳述)のだが、この曲のジャケットではなぜか山本だけがビジターのユニフォームを着ていた。この理由については今でも謎であり、一部のファンの間で語り草となっている。
- 打撃コーチを兼任していた頃、選手が「山本コーチ」と呼びかけたところ、山本はなぜか激怒。周囲の人がなぜ怒ったのか尋ねたところ、「最近の若いやつは礼儀がなっとらん。先輩をフルネームで呼び捨てにしやがって」と言った。
- 木下富雄と同じく、カープの過去6回のリーグ優勝において、全ての優勝戦にユニフォームを着て居合わせていた数少ない人物である。
- オールスターゲームの通算最多本塁打記録保持者でもある(14本)。
著書
- 「栄光の背番号8 これがオレの野球人生だ」(1986年、交通タイムス社)
歌
- 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
CM
外部リンク
関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。