安帝 (漢)
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姓名 | 劉祜 |
年号 |
永初:107年 - 114年 |
廟号 | 恭宗 |
字 | - |
諡号 | 孝安皇帝 |
生没年 | 94年-125年 |
在位 | 106年-125年 |
父 | 劉慶 |
母 | 左姫 |
陵墓 | 恭陵 |
安帝(あんてい、94年 - 125年 在位106年 - 125年)は、後漢第6代皇帝。姓は劉、諱は祜。廟号は恭宗。第3代皇帝章帝の孫。父の劉慶は元々章帝の皇太子とされていたが、讒言により廃されて清河孝王に落とされた。
[編集] 生涯
殤帝がわずか1歳にして死去すると、和帝皇后の鄧氏によって13歳にして擁立され、その後は鄧氏が摂政し、兄の鄧隲を大将軍として、政治を行った。
その後、安帝は長ずるに従って鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活がすさんでくる。閻氏(えんし)を皇后として迎えるが、この閻氏も嫉妬深い女性で、安帝の子を生んだ別の女性を毒殺した。121年に鄧皇太后が没すると閻(えん)皇后と共に宦官李閏らの力を借りて、鄧隲ら鄧一族を粛清した。その後は宦官と閻氏一門が専権を奮うことになる。
125年に死去し、その後、閻氏によって従兄弟の北郷侯・劉懿が擁立される。
摂政をしていた鄧兄妹は他の外戚に比べて良質であり、鄧氏は班昭に私淑して経書の講義を受けたりした貞節を知った人であった。兄の鄧隲も一万戸の領地を受けた後で更に三千戸の加増を申し渡されたときに固辞して受け取らなかったと言う。鄧氏の摂政時代には匈奴の進入や天災が相次ぎ、決して平和な時代ではなかったが、鄧氏は節約に励んで懸命に政治に当たったという。ただし官僚との連絡役として宦官を重用したことが後に宦官の専横を許すこととなったといわれる。
安帝の時代には西域都護が匈奴により攻撃され、西域は匈奴の手に落ちた。他にも西の羌族が反乱を起こすなど後漢の衰退が明らかになってきた。